九話

 痛む足をかばいながら、俺はアルコール臭漂う病院の廊下を歩いていた。

 隊長は俺が〈秋桜〉の救急車両に乗せた後、すぐにこの病院に運ばれた。ウルフも同じ病院に運ばれ、集中治療室に入れられた。今もなお治療中である。

 この病院は〈秋桜〉の管理下にあるらしい。表向きは普通の大病院だが、こうして〈秋桜〉の会員を受け入れてくれるのである。

 十五番隊は近くの宿を二部屋借りた。俺と黒狐が同部屋、涼子だけ別部屋である。だが黒狐はほとんど自分のものを置かないどころか、ベッドで睡眠も取らないので、実質俺の一人部屋だ。

 病院は何かと息が詰まる空間である。患者が談笑していても、それは何かしら病がない限り生まれない会話であって、根っこの部分には暗いものが潜んでいる。俺は病院という場所が大嫌いだった。隊長を奪還してまだ二日しか経っていないが、憂鬱で気が滅入りそうだ。

 さっき担当医から隊長の見舞いの許可が出たので、見舞いのついでにおみやげを持っていくことにした。適当に見繕ってレジに持っていくと、そこに黒狐がいた。

「よう」

「隊長のとこか?」

「そう」

 黒狐が俺もだ、と言いながら会計を済ませた。俺も代金を支払うと、黒狐と一緒に隊長の病室を目指す。

「なあ、お前寝てる?」

 俺は黒狐に訊いた。黒狐は怠そうに俺を見る。

「寝てねぇけど」

「いいのか?」

「何度言ったらわかるんだ。俺は神だぞ。寝ようが寝まいが生きれる」

「実感できない。家にいるときはよく寝てんじゃん。お前の生態が掴めなさすぎる」

「あれは暇だから寝てんるんだ。今はな、なんかあったらさっと駆けつけられるように起きてる」

 俺はわざと目を細めて黒狐の目を見返した。黒狐は俺の頭を小突く。

「そう言うお前はちゃんと寝てるかい」

 俺は肩をすくめた。あれから、悪い想像がずっと頭をぐるぐる回っていて、よく寝付けていない。足も痛くて重いままだ。

「ま、隊長背負って爆走したんだから、そんなもんか。しょうがねえからこれやるよ」

 黒狐は先ほど買った品物の中からスポーツドリンクを引っこ抜いて、俺の額に押し当てた。程よく冷たくて気持ちいい。

「あざーっす」

「どいたま」

 黒狐はさらに何か細長い物を取り出して、口に咥えた。煙草だ。

「お前、たばこ吸ってたの」

「まぁな」

「病院で吸うなよ」

「禁煙パイポだから大丈夫」

「禁煙してんのかよ。でも、お前から煙草の臭い感じたことないんだけど」

「人間サマの吸う煙草は不味そうだから吸ったことねぇべ」

「あ、そう。……ってどういうことだ」

 そのとき、すれ違った看護婦が「院内は喫煙禁止ですよ」とにこやかに言った。

「注意されてんじゃん」

「ちっ、咥えるだけ許してくれよな」

 そうこうしているうちに、隊長の病室が右手に見えてきた。ネームプレートを確認すると、「900518」という番号が入っているだけだった。

「入るぞー」

 黒狐はそう言うだけでろくに返事も待たずに引き戸を開けた。

 隊長がはっとこちらを振り返る。全身包帯だらけで、腕にギプスをはめている。そのくせ医者に掴みかかっていた。

「おい、何やってんだ」

 黒狐が病室に足を踏み入れた。

「見りゃ分からないかい、あたしゃこの暴君に絡まれてんだ。どうにかしてくれないか」

 掴まれている婆さんが忌まわしげに言った。隊長の担当医である。

「ウルフさんに会わせて」

 隊長が怒りを抑えた声で呟いた。

「今会えるわけねぇだろ、馬鹿」

 黒狐が呆れて隊長の脳天に軽く手刀を入れる。その拍子に隊長は医者から手を離した。

「でも」

「はいはい、大人しく寝てな」

「僕だって」

「お前に出来ることは、たっぷり寝て食って全快することだ。わかったか」

 黒狐が隊長の額にしっぺをすると、隊長はしぶしぶベッドの上に座った。黒狐が袋から野菜ジュースを出して隊長に渡した。

「キャロット味」

「……トマトが良かった」

「怪我人に選択権は無い。好きなもん欲しけりゃ、早く治しな」

 黒狐は嫌味な笑いを顔に貼り付けて言う。

「あ、俺も」

 俺はレジ袋ごと隊長に渡した。隊長は中身を見ても、どこか暗い表情のまま「ありがと」と言った。

「あんたら、あんま勝手に差し入れするんじゃないよ。食べちゃいけない物だってあるんだからね」

 医者が険しい顔で睨んでいた。俺は少し首をすくめたが、黒狐は平然としていた。

「んなこたぁ知ってんだ。婆さん、隊長はどんな感じなんだ?」

「クソ狐め、ミカワ先生って呼びな」

「……知り合い?」

「いや、〈秋桜〉のかかりつけ医だからみんな知ってるべ。ミカワの婆さんとか言って」

「ふん、あたしのことを知らないとは。もしかして、今年入ってきた、そこのガキの隊の……誰だっけねぇ」

「イツキです」

「ボケてんか、婆さん」

「うるさいね。……噂は聞いたよ。しかし、変わったねぇ、フーマ。昔はウルフ以外みんな敵だと思ってるみたいな顔してたのにねぇ」

 隊長は全くの無表情でやり取りを聞いている。

「昔話じゃなくて今の話はよ」

「ああ、はい、はい。フーマねぇ、相変わらず回復が早いね。普通はもう数日はぐったりしているところなんだけど、あろうことかあたしに食ってかかってきたくらい元気だ。だけどあと半月はそこで寝ててもらうよ。点滴は明日にでも外れる」

 ミカワ先生はバインダーをペラペラめくりながら淀みなく話し、隊長の目を見据えた。

「勝手に病室から出ていったりしたら、あんたの身体をベッドに縛り付けてやるからね。辛い思いをした後だからって容赦はしないよ」

 隊長はびくりと体を震わせた。怯えたように担当医を見つめるその顔は、あまりにも子どもっぽくて少し憐れだ。

「さ、あたしはもうひとりの様子を見てくるよ。何かあったら遠慮なくコールしな」

 ミカワ先生はよっこらせ、と立ち上がり、病室を出て行ってしまった。

「ふっ、脅されてやんの、隊長」

 隊長は無言で黒狐を睨んで、差し入れを机の上に置いた。

「この部屋、景色いいカンジだなあ」

 黒狐が部屋のカーテンの外を覗きながら言った。俺もその横に立つ。

「確かに、結構遠くの山とか見える。あ! あれ王宮じゃね?」

「どれだよ」

「山のふもとの小さいやつ」

「目悪くて見えねぇわ」

 そのとき、隊長が暗い声でぼそりと呟いた。

「景色なんて、見てない」

 俺たちは同時に振り返る。隊長はこちらを見向きもしていなかった。うつむいて、床を凝視している。

「ずっと……悪い想像が浮かんでて、怖くて」

 消え入りそうな声と一緒に、隊長の姿は今にも消えてしまいそうだった。

「昔から僕はあの人に頼ってばかりだから、いなくなっちゃったら……僕、は……きっと」

 彼は地面を透かして地獄の底を見ているみたいに、どこか遠い目をしていた。

「隊長」

 黒狐が窓から離れ、隊長の隣にどさりと腰を下ろした。

「俺たちのことを忘れちゃだめだぜ」

 隊長が溺れている人が水面に顔を出したときみたいに、はっと顔をあげた。そして黒狐と俺の顔を交互に見て、それから頭を抱えた。その尋常ではない狼狽ぶりに黒狐が少し慌てた。

「どうした? なんか俺酷いこと言ったか?」

「あ、あ、な、なんでもない……いや、あの……ちょっと嫌なこと思い出しただけ」

「それは……すまんな」

 黒狐が隊長の頭をくしゃくしゃっと撫でて立ち上がった。

「俺、なんか資料書かないといけねえから、先行くわ」

「おう」

 黒狐は最後に隊長の頭をポンと叩いて病室を出て行った。隊長は頭を触りながらそれを見送っていた。

 俺はどうしたものかとあごをさすっていると、隊長がさっきまで黒狐が座っていたところを指して、「イツキくん」と呼んだ。俺が座ると、隊長はつらそうに目を閉じた。

「もう少し、待っててもらってもいい……?」

「うん。逆に、今大事な話をされたら、俺もわけわかんなくなるから」

 俺は少しだけにやっと笑ってみせた。隊長はホッとしたような表情を浮かべて、後ろ向きにベッドに倒れ込んだ。

「大丈夫か」

「うん……えへへ」

 隊長はなぜか、ヘラヘラと笑った。

「何笑ってんだよ」

「なんでもない」 

 隊長はそう言って真顔に戻り、ふぅと息を吐いた。そのとき、誰かがドアをノックした。

「入ってもいい?」

 俺はどきりとした。この声は。

「開けてきてあげてよ」

 隊長が俺の脇腹をつつきながら言った。さっきまで沈んでたクセに、いたずらっぽくにやついてやがる。俺は隊長を思わずひっぱたきそうになって、寸前でやめた。

 扉を開けると、案の定アヤメがいた。わかっていても身を引きそうになる。アヤメが「お見舞い来たよ~」と明るく笑った。

「あれ? フーマ、元気そうだね」

「そう……?」

 隊長はそう言うと、のそのそとベッドの上を這って布団に潜り込んだ。

「寝るの?」

「ううん、こうしてないと先生が怒るから」

 隊長が言い終えると同時に、ミカワ先生が戻ってきた。隊長が首を引っ込める。先生はどことなく上気したような顔で口を開いた。

「良い知らせだよ……ウルフが目を覚ました」


 重い引き戸を開けると、管と包帯で覆われたウルフがベッドに寝そべっているのが目に飛び込んできた。いつもは見上げるほどだった巨体が、俺より低い位置にあるベッドに収まっている。虚ろだが何か言いたげな瞳がちらりとこちらを見た。

「ウルフ……」

 もうしばらくは目を覚まさないだろう、と言われていた。だけどこんなに早く回復するなんて、奇跡としか言いようがない。救われたような気分で、高揚にも近い安堵が身のうちに広がった。

「ウルフさん!?」

 隊長がオーバーな慌てぶりで病室に入ってきた。ミカワ先生が「あんまり急ぐと傷が開いちまうよ!」といらいらしたように戒めながら続いて入ってくる。途中で会ったのか、涼子も一緒だった。アヤメは、まずは十五番隊だけで会うのがいいと言って、どこか別のところに行ってしまった。

「ウルフを激しく揺り動かしたりしちゃダメだぞ」

 黒狐がウルフの枕元を隊長に譲った。隊長はすかさずそこに座って、ウルフと顔を合わせた。

「……フーマ……は、もう大丈夫なのか……?」

「ウルフさんこそ……僕は心配いらないよ」

「そうか」

 声が掠れて消え入りそうだが、ウルフは嬉しそうだった。しかし隊長は、どこか暗い表情だった。

「しかし、驚いたな。こんな短時間で復活するとは」

 黒狐が笑った。俺は激しくうなずいた。

「ほんとだよ。ったく、十五番隊の野郎には驚かされてばっかりだね」

 ミカワ先生は含み笑いをしながら心電図のような機械をチェックした。そのとき、わずかにその表情が陰ったのを俺は見逃さなかった。

「ウルフさん……僕、ウルフさんがいないと……」

 隊長はそこで言葉を切って、何か迷っていた。するとウルフがもごもごと口を動かし、隊長にしか聞こえないくらい小さな声で何かを言った。隊長はそれを聞くと、ウルフの首にそっと腕を回し、抱き締めるように身を寄せた。

「ずっと……本当は知ってたの」

 隊長の目が潤んでいた。会話の内容が気になるが、変に聞き耳を立てるのも悪い気がして、俺は後ろの壁にもたれて手持ちぶさたに立っていた。

「最初はほんとにわかってなくて、僕、変なこと言って……」

「……な、俺も……」

「無理だよ、そんなの……」

 二人だけの会話が続く。そのとき、冷徹な機械の警告音が耳を突いた。

「……どうした」

 黒狐がミカワ先生を振り返った。先生は気難しそうに眉根を寄せ、機械の数字を見つめていた。そして突然、机をひっくり返しそうな勢いで立ち上がった。

「まずい」

 先生は部屋をどたばたと出ていく。黒狐が眉間に皺を寄せて、鋭い目つきで機械のグラフを睨み付けた。

 グラフは弱々しい波を映し出している。

 俺は全身が一気に冷たくなるのを感じた。目の前に全く別の、しかし同じような光景がよみがえってくる。


 あれは昼のことだった。

 今日はバイトに行くなと言われ、家族全員で大きな病院を訪れたあの日。

 目を閉じたまま、静かに呼吸を失っていくじいちゃんの老いた顔は、苦悶の表情を浮かべていた。

 機械の画面の波がだんだん遅くなり、やがて気が触れそうなくらいやかましい警告音が病室に鳴り響く。

 その瞬間から、世界は灰色に変わっていく。


 「いかないで」

 白昼夢の俺と、隊長の言葉が重なった。現実がどっと流れ込んできて、くらくらした。冷や汗が背中を伝う。先生が看護婦と共に戻ってきて、管を一本抜き、何か作業を始めた。しかし看護婦がそれを制し、首を横に振った。心をハンマーで打ち砕かれたような衝撃が走る。隊長は顔をあげて、痛いほど力のこもった眼差しでウルフを見守っていた。

 ウルフは、ふいにふっと微笑んだ。そして最期の力を振り絞り、隊長の髪を優しくかき撫でる。隊長は猫のように目を細めると、震えながら口を開いた。

 「待ってよ……まだ、何も……」

 懸命に語りかけるもむなしく、隊長を撫でる腕が、ずるりと力なく落ちる。

 「じゃあ、な……」


 耳鳴りが音をかき消す。

 もう、世界の色は戻らない。


 隊長は、糸が切れた操り人形のようにがくりと崩れ落ちた。しかし、泣きもしなければ怒りもしなかった。

 ただ、真っ暗な瞳で、宙を見つめていた。

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