八話
ウルフが苦しげに血を吐いて、ずるずると壁に赤い線を引きながら膝を折る。
何が起きたのかわからなかった。しばらく誰も動かなかった。永遠にも思えるような静寂が空間を満たす。
マザーが布の上からでもわかる満足げな笑みを見せたとき、俺はやっと目の前の光景を理解した。刀を持つ腕が震えて止まらなくなる。
隊長がふいに立ち上がる。足元が定まっておらず、ふらふら揺れていた。その瞳もまた、小刻みに揺れている。地面にしがみつくように、ゆっくりと前に進み出て、ウルフのそばでそっと膝を下ろした。
マザーが腕を腰に伸ばした。俺は反射的にマザーに詰め寄り、マザーが取り出した物体を刀で弾き飛ばした。マザーは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに俺と間合いを取る。
俺とマザーはしばらくの間睨みあった。最初に沈黙を破ったのは、マザーのほうだった。
「フフ……これで邪魔者は貴方だけよ。フーマは私の掌から逃れられない」
汗が額を流れ落ちた。マザーが不敵に笑う。死、という単語が目の前にちらついていた。早く隊長とウルフを連れて、戻らなければ、とぼんやり考えた。しかし自分が二人を背負って歩くところを想像した途端、絶望で頭がくらくらした。
後ろで隊長が何か言っている。ウルフに語りかけているのだろうか。かすれて囁きにしかならないそれを聞き取ることはできなかった。隊長はぶつぶつと呟き続ける。そのうち俺は、それが呪いの文句のように感じ始めた。
マザーは少しだけ隊長に目を向ける。俺と同じく、隊長の独り言が気になるらしい。
そのとき、マザーの後ろにある扉が、遠慮がちに開いた。一瞬の期待は、すぐに打ち砕かれる。フードを被った少年がにやつきながら入ってきた。
「こりゃ、いいところにすまんな」
「……貴方は何をしにきたの。邪魔をしないで」
「謝っただろ、先に。……てか狼くん、『ヤバイ』じゃないか」
俺は憎しみを込めて死神を睨み付けた。
お前の言葉に乗ったから、ウルフはやられたんじゃないか。こいつは始めから、マザーのために、俺たちを誘導していたんじゃないか?
が、そんな俺の疑いはすぐに消える。死神は、俺の顔を見て明らかに怯んでいた。
「貴方、どういうつもりだったの? 私を処刑場に連れていったりして」
「……そっちの方は兵を置いてなかっただろう? だから〈秋桜〉の連中がそこから侵入してくるんじゃないかと思ったんだよ。あそこからここまでは一直線だし」
「どうせここまで来るのだから、私たちは動かないほうが良かったわ」
「でも、実際来たぜ、〈秋桜〉の会長が。他にも十五番隊の〈黒狐〉とか。一人じゃちょっと無理そうだったから、逃げてきたんだが、どうもついてきてるみたいだ。おかげでここがバレるのも時間の問題でな」
死神は早口で言った。マザーが彼を呆れ蔑むような目で睨む。俺はごくりと唾を飲んだ。死神は一応、俺たちのために、マザーを隊長から遠ざけようとしてくれていたようだ。
「……貴方、フーマの仲間に加担してるでしょう?」
「……は? なんでそうなるんだよ。マザーがさっさと戻ったりするからこうなるんだろ。だいたい、なんで水際で戦おうとするんだ。この守り、穴だらけだと思うぞ。ともかくずらかろうぜ」
「馬鹿馬鹿しい。私は何のために、ここで戦っているのかわかっているの? フーマをみすみす手放すわけにはいかない」
「じゃあ連れてけばいいじゃないか」
「……いいわ、それなら貴方、そこの剣士の相手をしておいて頂戴」
しかし、死神は全く別の方向を見て顔をしかめた。
「だめだ、もう追い付いてきた」
俺ははっとして死神に目配せをした。彼はマザーに見えないように、にやりと笑った。
「……死神」
「なに?」
「これが終わったら、私の部屋に来なさい」
死神が青ざめる。
「は……勘弁してくれよ。俺はただ、良かれと思って」
「言い訳は
死神は苦虫を噛み潰したような顔をして、鎌を掲げた。二人は部屋を出ていく。俺は少し彼に申し訳ないような気分になりながら、後ろを向いて隊長の肩に触れた。
「歩けるか?」
隊長はうなずいた。半ば引きずり上げるような形で俺は隊長を立たせ、肩を貸した。
「ウルフは……まず手当てしてもらわないと」
隊長は今にも泣き出しそうな顔を俺に向けた。
「大丈夫、きっと助かる。それより、お前がちゃんと戻ってこなきゃ、意味がないんだ」
隊長は再びうなずいた。
戦いはすでに始まっていた。それをすり抜けミツハがやって来た。
「フーマ、どんな感じで……」
ミツハはウルフを見て絶句する。
「先にウルフのほうをなんとかしてくれ」
「……わかったのです。フーマは自力で歩けますかい」
「なんとかね」
俺は答えると、隊長のほうを向いた。
「行こう、今のうちに。……今だけ、俺の背中に身を預けてくれ」
隊長はすこし戸惑っていたが、おずおずと俺の首に両腕を回した。俺はそのままよいしょと隊長を背負う。
「あ、そうだ。これを使いたまえ」
ミツハが長いベルトのような紐を差し出してきた。俺はありがたく受け取り、隊長と己の体に巻き付けて固定した。
「しっかり捕まれよ。走るぞ」
隊長は黙ったままだったが、ほんのすこし、腕に力がこもったのがわかった。
俺は部屋を飛び出した。来た道を戻ろうとしたが、そっちにはちょうどマザーがいたので、避けて反対方向に駆け出す。死神にぶつかりそうになり、足を滑らせながらその横を駆け抜けた。死神は即座に反応して俺たちを追いかけてくる。が、黒狐が間に割って入った。
「俺も参加させてもらうぞ」
黒狐は小声で言ってサーベルを振った。俺は「助かる」とだけ言って先に進む。
長い廊下の先には階段だ。一段飛ばしで上りきり、やっと白い月光の元に躍り出た。そばで影が揺らいだのが見え、反射的に刀を引き抜いた。確かな手応えと共にうめく声がして、影は倒れる。見るまでもなく、待ち伏せ兵だとわかった。素早く辺りに目を走らせ、数人の敵を認識する。俺は歯を食いしばり、襲ってきた者の刃を弾いた。これを相手にするのは辛いぞ、と思ったとき、周りの敵兵たちの背中が閃き、炎が炸裂した。
「私に任せて」
後ろから涼子の声がした。俺はほっとして刀を納めた。
「援護しに来たの。ついていくわ」
涼子の魔術により、燃え上がり叫喚する敵兵をおいて俺たちは先を急ぐ。さすがに体力がもたないので、さっきよりペースを落とした。
どこかで警告音が鳴る。低いざわめきを避けて、建物の陰を選んで通り抜けた。しかし敵も敏感で、すぐに見つかってしまう。涼子が指でさっと空中をなぞると、その通りに衝撃波が放たれた。敵の足が止まり、中には倒れる者もいた。
「すげえ……」
「ありがとう。でも感心している場合じゃない。早く行きましょう」
「お、おう」
俺は隊長を背負い直して、再び足を進める。〈桜〉の者たちが、後ろからどんどん追いかけてくる。ついに施設の敷地から出られる、というとき、前からも敵が現れて、囲まれてしまった。
「……くそ、多すぎる」
「そうね……。仕方ない、あんまり使いたくなかったけど……」
涼子は自分のレイピアを抜いて、地面を引っ掻き始めた。
「おい、来るぞ」
敵が剣を向けて詰め寄ってくる。
「イツキ、少し下がって!」
涼子が鋭く叫ぶ。彼女の足元には、魔方陣のようなものが描かれていた。俺が後ずさったその瞬間、魔方陣の中央にぽっかりと穴が開く。
「敵を蹴散らして、〈メーロズ〉!!」
穴から闇が噴出する。それが何か巨大な生き物の姿を形作っていく。現れたのは、ドラゴンともウサギとも猫ともつかない謎の怪物。
そいつは敵の集団に突進していった。敵は驚愕と恐慌にどよめきながら、怪物の一撃を回避する。そのおかげで包囲に隙間が開いた。
「先に行って」
涼子が言った。その額には玉の汗が光っている。俺が見ているのに気がついたのか、涼子は自信有り気な笑みを浮かべた。
「召喚術は少し疲れるの。でも倒れるほどではないから、安心して」
俺はうなずき、残りわずかの体力を振り絞って走った。何人かが追いかけてきたが、怪物が体当たりしてその場に倒す。夢中で走る俺を追いかけるのは、夜空に輝く月だけとなった。
*
「……イツキくん、もう、走らなくて、大丈夫」
隊長が耳元で囁くように言うまで、俺は走り続けていた。そうすることで、余計なことを考えないようにしていた。
ペースを落とし、歩く。〈秋桜〉の救急車両がある場所まであと少しである。
「イツキくん」
隊長が相変わらずの掠れた声で呼んだ。
「なに」
「どうして助けてくれたの」
「仲間だから、じゃだめか?」
「……ううん」
隊長が微かに首を降った。俺はその声が少し震えているのに気がついた。
「ごめんね」
肩の辺りがじんわりと温かくなる。
「ごめんね、僕……僕は……君のこと……」
俺は黙々と歩き続けていた。
「信じていなかった」
「……知ってる」
隊長が少し顔を上げて鼻をすすった。
「……ごめん」
「でも、俺にだって、原因はあるから」
俺は再び歩き出した。
「俺も、お前のこと信用してなかった。今もだけど」
「……そうだよね」
「お前もだろ」
「どうして?」
「お前、俺になんか隠してるの、俺を信じられないからだろ」
月光が少し翳る。
「……うん」
「じゃあ、何もかも落ち着いたらさ、」
俺は少し言葉を切って夜空を見上げた。
「二人でどっか行こうぜ」
「うん……」
隊長の言葉がいよいよ滲む。微かな嗚咽が聞こえた。
「ありがとう」
彼は言った。
「ありがとう……ごめんね……」
隊長はしゃくりあげながら続けた。
俺は少し笑ってしまう。
「いいから、ちょっと落ち着けよ、な?」
俺が宥めても、隊長は泣いていた。そして、なぜか、すこし笑っていた。
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