七話
ほんの目と鼻の先を、〈桜〉の者が通り過ぎていく。巨大な監獄の前、いつ見つかるかとヒヤヒヤしながら、かれこれ一時間が経っていた。
辺りは再び静かになる。俺は警戒しつつ地下水道の蓋を押し上げた。こんな都合のいいところに隠れ場所があるなんて、この施設の造りは雑だな、とこっそり嘲笑う。何かの罠かと思うほどだ。
地上に出ると、一緒に隠れていたウルフを引き上げて蓋を戻した。水道管を伝いながら壁を登り、換気扇からダクトに侵入した。
「お前、入れるか?」
ささやくと、ウルフは渋い顔をして頷いた。体をねじ込む手伝いをしながら懐中電灯を点けた。すぐそこに曲がり角がある。
ウルフが本部に無線を送った。しばらく待っていると、何やら外が騒々しくなる。〈桜〉が外の戦いに気を取られている隙に、ダクトの中を這い進んで、隊長の居場所に一番近いところでダクトから出た。この場所は、死神が送ってくれた資料に書き込まれていた所だ。
薄暗い部屋だった。おそらく誰もいないが、異常な悪臭が漂っていた。
「なんだこの臭いは……」
そう言いながら後ろを振り返ると、ウルフが鼻を押さえてしゃがみ込んでいた。
「あ……」
俺より何倍も嗅覚が優れているせいで、こういう悪臭は弱点にもなり得るのだろう。とにかくここから早く脱出したほうが良さそうだ。
出口を探して懐中電灯をちらつかせた。その弱々しい光を壁に走らせたとき、空洞のような瞳と目が合った。
「んなっ!?」
仰天して変な声が出る。刀を抜きつつ、もう一度同じところに光を当てた。
瞳は相変わらずこちらを向いている。しかし、そこに生気は微塵も感じられなかった。おそるおそる近づくと、悪臭がさらに酷くなる。
腐敗した死体だった。しかし、謎の機械が腕や足にはまっている。義手や義足……のようだが、それにしては兵器みたいに尖っていて大型である。無惨な有り様に、吐き気が込み上げてくる。これは〈桜〉のおぞましい実験なんだろうか。
いつの間にかウルフが隣にいた。そっと俺の肩に手を置く。
「よくあることだ。これは酷いが」
俺はぎこちなく頷くと、懐中電灯の光を死体から外した。心臓はまだドキドキ鳴っている。
部屋の扉はすぐに見つかった。開けるとそこはガラス張りの部屋が続く廊下であった。
目の前の螺旋階段を静かに降りる。二個下の階に隊長がいるはずだ。
突然、ウルフが銃弾を撃った。ぎょっとして振り返ると、上から撃たれた人間が落ちてきた。
「十五だ!」
「もう中に!?」
相手は五人ほど。ウルフが眼光を鋭くして次々に弾を撃つ。弾が無くなると、そのまま拳銃を投げ捨てて新しいものに持ちかえて撃った。敵は短く悲鳴をあげて倒れ行く。
すぐに辺りは静まり返った。俺が驚いている間にウルフはかたをつけてしまった。
「ナイス」
「さらに敵が来る前に隊長を助けないと……」
そう呟く彼の目は憎々しげに倒れた敵を睨んでいる。おっかない顔だ。俺は薄く苦笑いして、残りの階段を早足で降りきった。
一つ階を下っただけなのに、雰囲気が大きく変わる。日の光などまるで届かない、殺風景で薄暗い廊下が延々と続いていた。奥から込み上げるような不気味さと陰気さが辺りを満たしている。
この階のどこかに、隊長はいる。
「順番に探すぞ。俺はこっち側の窓を見る」
「おう」
俺たちは軽く駆けながら真っ白な廊下を進んでいく。空っぽの部屋もあれば、薄汚い男や子どもが寝ている部屋もあった。……気が狂ったかのようにドアを叩き続ける女もいた。叫びも聞こえた。うなりも聞いた。低い祈りが呪いのようにずっと響いている。床に錆びた鉄のような色の染みが点々とついていた。ぼろきれが壁に張り付いていた。灯りはバラバラな間隔にあったが、煌々と輝いてその光景を浮かび上がらせる。
異様だった。
異様としか思えないこの空間。そのどこかに、隊長がいる。死神の言うとおり、実はすでに正気を失って……。
そのとき、ウルフが滑りながら足を止めた。つんのめりそうになりながら鉄格子に手をかけ中を覗く。
「フーマ……」
俺は慌てて引き返し、一緒に覗いた。薄汚れたガラスの奥にぼんやりと影が見える。
ウルフはドアノブを壊しそうなほどガチャガチャ回した。
「おい、壊すな。開けられなくなるだろ」
「でも、早く……」
「急がば回れ、ってさ、な?」
俺はポーチを探って針金を取り出した。それを折り曲げて挿し込み、鍵穴の中を探る。いわゆるピッキング。しばらくやっていなかったので、腕が落ちていないか不安だったが、体は案外覚えているものである。
「まだか?」
ウルフはしきりに尻尾を揺らしながら言った。いらいらしているのが手に取るようにわかった。
「もうちょい……」
俺はポーチからもう一本針金を取り出す。鍵穴をいじくり回し、やっと手応えを感じた。
「ようしっ……これであ……」
俺が言い終わらない内にウルフはドアノブを勢いよく回した。
「フーマっ!」
「邪魔をしないで!」
パァン、と銃声が響いた。ウルフが短く呻いて退く。
「おい、大丈夫か!?」
「かすったが何ともない」
ウルフは部屋の中を睨みながら答えた。ちらりと覗くと女が一人、こちらに拳銃を向けている。
「今すぐここから消えて、そうしたら応援も呼ばず見逃してあげるから……」
女が早口で言う。俺はしまった、と思った。中に隊長以外の誰かがいないか確認をしなかっただなんて。
「お前こそ、そこを退け。後ろにいるのは俺たちの隊長だ」
ウルフも銃を持ち上げる。
「……『俺たちの隊長』? ふっ……うふふふ、あはははは」
女は壊れた鈴のような笑い声をあげた。ウルフが肩を怒らせて二歩前に進み出る。俺はその後ろについた。女の背後で隊長がぐったり頭を垂れて座っている。
「確かに今はそうかもしれないけど、そんな肩書き、何かのきっかけで崩れ去ることだってあるのよ。でも〈マザー〉の息子だって事実は一生消えない。生まれたときから入っている刺青なのよ。どんな形であろうとあなたたちより〈マザー〉のほうが繋がりが深い。だからこの子はここにいるほうが正解なの!」
女は機関銃のように捲し立てると、興奮したように震える。その手に握られた銃が何だか頼り無さげに見えた。胸がざわつく。嫌な予感ではなく、希望に。
「……お前が何と言おうと、俺たちは隊長を連れて帰る」
ニヤリ、と笑ってみせると、女は猫のように顔をしかめて後ずさる。女は拳銃の引き金にかけた指に力を入れたが、ためらって結局引かずにいる。
「撃たないのか?」
俺が言うと女は目に見えて動揺した。震えが大きくなる。
「それ、弾入ってないだろ。それか、あと一発しか無いんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ! そんなに撃たれたいなら、今すぐにでも撃ってあげるわ! あなたたちこそ、撃てないんでしょ、私の後ろに彼がいるから──!!」
彼女の歪んだ表情が図星であることを伝えていた。ウルフが銃を持つ腕に力を込める気配がした。
「でも、俺がいる。俺は間違って隊長を斬ったりはしない。お前はもう負けてるよ」
「……うるさいうるさいうるさい!! 私にはナイフも盾もあるわ! ここは私の手の中よ! この子を好きに扱えたの! この子は私に逆らえ……」
そのとき、甲高い金属の音が女の叫びを遮った。女はぎくりとして振り返る。隊長の燃えるような両眼が、女を睨み付けていた。
「僕はお前の玩具じゃない」
「なに……その……私に抗う気!?」
今だ、と俺は刀を女の首目掛けて水平に振った。それより先に、銃弾が女の頭を捉えて吹き飛ばす。不快な感触が手に伝わって、ごとりと女が倒れた。部屋がさらに薄気味悪くなった。
俺は刀を納めて振り返った。
「隊長……」
彼は死んでいるかのようにうつむいている。どんより曇った目は焦点が定まらない。先ほど見せた燃えるような瞳が嘘であったかのように。
どこからか雑音と話し声がした。
「すでに応援を呼ばれていたようだ。敵がくる。俺が応じるから、イツキは隊長の錠を外してやってくれ」
「お前一人で大丈夫か?」
「ああ」
ウルフは隊長をちらりと見て、顔を曇らせた。本当は今すぐにでも隊長の手当てをしたいのだろう。
「なるべく早く錠を外すよ」
俺は早速針金を取り出した。隊長は目を閉じている。
隊長は、どこもかしこもボロボロだった。大量の切り傷、ちぎれた尻尾、心なしか指がおかしな方向に曲がっているし、鱗が剥がされて血がにじんでいる。そしてとげのある首輪がはめられ、不用意に頭が動かせないようになっている。
心がずきりと痛む。あのとき、俺たちがもっと早く隊長の所へ駆けつけられていたなら。
手錠が外れた。
「もうちょっとだからな」
隊長が少しだけ目を開いて、また閉じた。うなずくのも億劫なようだ。
扉の外で激しい銃声が聞こえた。誰かの断末魔が気を散らす。
針金の形を少しずつ変えていく。だんだん以前の感覚が戻ってきて、すばやく作業を進められるようになる。足かせが隊長を離した。残るは首輪のみ。
まずはとげをどうにかしなければ、隊長も自分も怪我をしてしまう。俺はポーチからペンチを取り出してとげの先をねじ切った。これで少しは隙間が大きくなる。
見た目に反して鍵自体は簡単な作りだった。変形した針金を差し込むと、カチリ、と音がして首輪は隙を見せた。そのまま半分に分裂するように外れ、死骸のごとく床に転がった。
隊長は光の消え失せた瞳で手錠の残骸と死体を見つめていた。俺は道具をポーチにしまうと、代わりに包帯と水筒を取り出した。
「今は応急措置しかできないけど」
俺がそう言いながら水筒の蓋を開けると、隊長が懇願するようにかすれた声を発した。
「みず……」
俺は目をしばたたいてから「ああ」と頷いた。水筒を差し出すと、隊長は自由になった手を伸ばす。しかしあまりにもその手が弱々しいので手を添えてやる。隊長は半分くらいこぼしながら、ものすごい勢いで中身を全部飲み干してしまった。空になった水筒を仕舞うと、俺は応急手当に取りかかる。こぼれた水で傷はある程度洗われたのでそのまま包帯を巻く。どうせまた替えるので、簡単に済ませると、俺は立ち上がって小窓から廊下を覗いた。どうも、ウルフはさっきの階段のほうにいるらしい。敵は俺に背を向けている。たぶん、そうなるようにウルフが誘導してくれたんだろう。
俺は扉を蹴り飛ばし、二本の刀を抜きながら敵の背中に斬りかかった。俺の顔を見る暇も与えず三人葬り去る。驚いて振り返る残りの敵をウルフが撃ち抜いた。
廊下はやっと静かになる。ウルフは敵が本当に死んでいるか確認もせず隊長の元へ戻った。仕方がないので代わりに敵の全滅を確かめると、俺はふと本部に何の連絡もしていないのを思い出し、慌てて無線機を取り出した。
『なに!? まったく、見つかったなら早く言え! ウルフは何してんだ!?』
会長の怒号が飛ぶ。俺は届きもしないお辞儀をしながら謝った。
「本当にスミマセン……」
『まあいい、応援を送る。医療班──ミツハってわかるか?』
「雀の人ですか? 〈フグ〉ってコードネームの」
『そう。あと俺も行く』
「会長……が」
『他の十五番隊もお前が呼んでおいてくれ』
「はぁ」
会長はそこで無線を終えた。俺は何だか緊張していたようで、ほっと胸を撫で下ろす。言われた通り、黒狐にも連絡すると、白い廊下を引き返した。
「すぐ助けられなくてすまない……」
ウルフが今にも泣き出しそうな声で呟き、隊長を自らの懐まで抱き寄せていた。隊長はされるがままだったが、やがてウルフの背中に腕を回すとこくりと頷いた。俺は何だかいたたまれなくなって、部屋の外に出ようと振り返った。が。
「また貴方たちなのね……」
「うわ!?」
とっさに刀に手をかけた。ウルフが立ち上がって銃を握る。隊長は壁まで下がった。
現れた人物は顔の下半分を布で覆っているが、すぐに誰だかわかった。マザーだ。
「こう何度も邪魔されるとさすがに頭に来るものね。いいわ、貴方たちは最重要処分対象に指定してあげる。十五番隊は元々重要処分対象だけど」
「こっちこそ、隊長をこう何度も連れ去られてたまるか!」
「イツキ、挑発するな」
ウルフが平たい声色で俺をたしなめた。
「……そんな挑発に私が乗るとお思い? むしろ貴方のほうが癪ね。貴方にフーマを盗られた気分だわ。醜く嫉妬する女、って感じで嫌だけど」
ウルフは少しだけ耳を動かした。
「確かにそうだ。貴女よりフーマといる時間は長いからな」
「嫌味のつもりかしら? 私にそんな口を利くなんて、なかなかの根性ね」
マザーの言葉を聞いたウルフは、歯を剥き出して嗤った。マザーを目だけで見下ろす。
「根性なぞ要らないだろう? 恐れてもいないのに」
マザーはキッとウルフを睨み付けた。ウルフは笑みを消してかっと目を見開き、前のめりになった。
「これだけフーマを傷つけておいて母親のつもりか? これ以上フーマに手を出すのなら、お前のその歪んだ愛情、俺は徹底的に叩き潰してやる」
どすの効いた巻き舌が空気を震わした。俺は気おされて思わず後ずさる。会長と言い争ったときより恐ろしかった。マザーも少し眉をひそめ、しばらく押し黙っていた。
「……言うわね。言葉通り、私を止められるかしら?」
マザーはレイピアを手にした。
「やってみろ」
ウルフは二丁拳銃の口をマザーに向けた。マザーは俺に向かって蛇を繰り出した。俺は左手の刀で蛇を切り裂いたが、蛇はその場で復活して腕に噛みつこうとする。
マザーはウルフにレイピアを突き出す。近接戦では銃は不利だ。ウルフは銃でレイピアを弾くと、マザーの頭上から腕を下ろして殴りかかる。マザーは難なく避けると、俺のほうへさらに蛇を寄越した。切ってもキリがない。
あえてウルフに近距離戦を挑むなんて卑怯だ、と思いながら黒い蛇を切り刻む。斬れたかどうかちゃんと見ていないと、手応えが全くないからわからない。
ウルフは銃を諦めて、蹴りでマザーのレイピアを弾いていた。後ろ手に何か隠している。
「無駄な小細工よ」
マザーはそう言ってレイピアを突き出した。そのとき、ウルフは足ではなく手の甲で攻撃を防いだ。
「小細工も何も、スタイルを近距離用に変えただけだ」
ウルフの手には鉄甲がはめられていた。そんなものを持っていたなんて知らなかった。
「好きにしなさい。どうせ貴方は勝てないわ」
マザーは容赦の無い攻撃を続ける。俺の方にも蛇が飛んでくる。
足で踏みつけようとしたとき、蛇が急に跳ね上がった。そのまま足を取られて無様に転んだ。その隙に蛇が一匹、まるで稲妻のようにウルフの方へ向かう。
「ウルフ、後ろ!」
しかし、俺が叫ぶと同時に何かが蛇にぶつかり、蛇は消滅した。その場に残っていたのは、手錠だった。視界の端で、隊長がもうひとつの手錠を拾い上げるのが見えた。
隊長の機転に心の中で感謝しながら、なんとか立ち上がって次に襲ってきた蛇の相手をする。
「やったわね」
マザーが俺でもウルフでもない所を睨んでいた。
「フーマ、邪魔をするなんて」
隊長は無反応だった。心ここにあらずな表情で虚空を見つめている。マザーの顔が歪んだ。
蛇が向かってくる。俺は一歩踏み出して蛇の進路を断つように刀を振るった。だが、蛇は空中を狙っているかのように、あらぬ方向へ牙を向け、俺を無視するかのごとく前進する俺はとっさに体をひねってギリギリのところで刀を蛇に突き刺した。が、もう一匹やって来た蛇には体が追い付かない。そいつは今突き刺したものと同じ方向へ向かっていく。──隊長の方へ。
俺は蛇を止めようと、つんのめりながら刀を突きだした。隊長は蛇を倒そうと両手を振りかぶった。そのとき、大きな影が隊長を覆い被さるように滑り込んできた。隊長はその巨体に跳ね飛ばされ、俺の足元まで転がってきた。
ずぶり、と肉が引き裂かれる音がした。
ウルフの体が壁に打ちつけられる。白い壁に赤い染みが飛び散った。地面にも赤い液体が広がる。
マザーの腕が、ウルフの腹部から引き抜かれる。その表情には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
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