六話

 「本当に申し訳ないよ、でもひとつ、誤解しているみたいだから、言わせてな」

 龍神は人ひとりぶん開けて右に座っていた。何とか落ち着いた僕は、横目で彼をきっと睨んで、そっぽを向いた。

「お前の全てを操ってるとかじゃないんだよ。まずもって、普通の使い魔だって、そんなに命令は聞いてくれないしね。行動全てを操るなんて無理だ。俺はな、お前を呼ぶことくらいしかできない。それ以外は何もできないよ」

 龍神の言葉全てが僕の神経を逆撫でする。僕は三角に立てた足の間に顔を埋め、もう何も聞く気は無いと暗に示した。しかし龍神は喋り続ける。

「あのな、こんなこと言うのもあれだけど、もう既に一つは役目をこなしてもらっているんだ。これ以上は何も頼む気は無いんだ。一回きりだよ。今までだってそうだったろう……今までの〈龍神の使〉の話を知ってるなら、わかるだろ?」

 僕は尻尾でぴしゃりと水浸しの地面を打ち、顔を上げた。龍神はぎくりとする。

「どうしてみんな僕に嘘をつくの? 僕を何も考えず行動している馬鹿だとでも思ってるの? 僕は子どもじゃないの! 騙そうとしないで! まだ何か僕にやらせようとしているんでしょ、どうせ。何もする気がないなら、わざわざ『呼ぶことしかできない』とか言わない。契約を解除したって言うはずなの」

 龍神は硬直している。図星のようだ。僕は肩で息をしながら、虫を払うように手を翻して言った。

「あっち行って。もう話すことは無いの。二度と僕に関わろうとしないで」

 一気に喋ったせいか、どっと疲れが押し寄せてきて、再び顔を伏せた。眠れるだろうか、と思ったが、ふとここが現実世界ではないことを思い出す。ここは僕の夢の中なんだろうか。だとすれば、龍神が去ってくれないとたぶん僕は目覚められない。いや、目覚めてもまた地獄が始まるだけなんだけれど。

「契約を解除できていないのは、お前に直接会えていないからだよ、たまたまなんだ。どうかわかって……」

「うるさい! 早くここから出ていけ!」

 噛みつかんばかりに怒鳴ると、龍神は渋々立ち上がった。悲しげに僕を見つめてから、とぼとぼと歩きだす。僕は最後までその後ろ姿を睨み続けていた。

 突然、がちゃんと金属音がして、地面が揺れた。びっくりして、振り返った瞬間、僕はあの白いレンガの部屋に戻っていた。頬にざらざらした土っぽい感触がある。

 身体を起こすと、目の前にマザーがいた。もはや何の感情も湧かなくなっていた。鈍い痛覚がよみがえる。鎖の耳障りな音は、僕が囚われの身であることを嫌でも思い出させた。

 蒼玉がマザーの隣で作業をしている。またか、と頭の遠くで思った。彼女が来るたび、僕は絶望に引きずり込まれ、その暗い水の中で無茶苦茶に暴れていた。けれども、もうそんな感覚さえ無くなっていた。僕は空っぽなのだ。ただの傀儡なのだ。何をされようともうどうだっていい。

 「今日は大人しいのね。私が来たから行儀よくしてくれているの?」

 マザーはにこやかに言った。昔見た写真の中でもこんなに笑顔じゃなかったなぁ、と微かに思った。マザーは顔を寄せ、僕の頬を撫でた。

「もし貴方が、私の下で戦う気になったら、いつでも言ってね。すぐにここから出して幹部に組み込んであげる。そうね……好きなこと何でもしていいわ」

 それもいいかもしれない、とぼんやり思った。どうせ、何でここに来たんだったかよく思い出せないし、何だか今までいたところも大して良いところでは無かった気がする。そうだ、僕は誰かに裏切られてここに連れ去られたんだ。誰だっけ。


 後頭部がずきりとした。


 誰かがしきりに叫んでいる。

 マザーの言うことなんか聞いちゃだめだ、と。

 お前には帰る場所がある。

 思い出せ、仲間の顔を。

「だれ……」

 彼はお前を助けようとしていたじゃないか。

 聞いたじゃないか、あの言葉を。

「いちど……」

 マザーの手が再び僕の頬に触れた。

「言いたいことがあるなら、何でも言って」

 黒い靄のかかった頭が一瞬だけ晴れて、不思議なことに、ぼんやりと楽しい気分になる。誰かの顔と共に、そんな感情が湧いてくる。

 夕陽を見た。

 雪の中を転げ回った。

 あの笑った顔が、どこか懐かしかった。

「一度……一度仲間として戦った」

 嬉しかった。

 全く動かない身体を引きずられ、薄れていく意識の中で、確かに聞いた言葉。

「誰と戦ったって?」

 マザーが僕の呟きを聞き返す。その瞬間、再びどうしようもない絶望感と怒りで何もかもわからなくなってしまう。頭がかっと熱くなって全身が強張る。僕に何か大事なことを叫んでいた心の中の声も、僕を置いてけぼりに消えてしまった。

「だれなの、教えて!」

 掠れた声で叫んだ。しかしさっきまでのイメージも明るい感情も戻ってこない。むしろ僕の意識は赤い闇と真っ暗な音で埋め尽くされていく。激しい怒りが血流と一緒に流れて、大しけの海のように暴れ狂う。

「あら、聞きたいのは私の方よ……」

「僕を離せ!! 僕の居場所はここじゃない!! お前みたいなクズの下で戦うものか!!」

 痛みをものともせず僕は中腰になって、右腕を精一杯伸ばして上から下に降り下ろした。折れていない爪がマザーの鼻にひっかかり、そのまま斜めにその皮膚を切り裂いた。

「くっ……」

「マザー!?」

 鼻を押さえるマザーの指から血が流れる。

「ここじゃない……僕は……僕はぁ……」

 蒼玉がマザーと僕の間に割り込んだ。僕は肩で息をしながら蒼玉を睨み付けた。

「大丈夫よ、大したことじゃない」

 少々険のある口調でマザーは言い、蒼玉の手を振り払った。

「でも……」

「戻るわよ。今日は一段と調子が悪いようね、フーマ。いいわ、そのうちにまた来るわ。暇はいくらでもある」

 マザーは蒼玉に小声で何か言うと、再び僕に向き直った。

「今度王宮に行くの。……懐かしいでしょう? もし貴方も行きたいのなら、一ヶ月半後くらいまでに考えをまとめておくといいわ。〈桜〉で働くか否か、ね」

 マザーは高圧的に微笑むと、蒼玉を引き連れて部屋を出ていった。取り残された僕は扉を忌々しく睨み付けていた。


 

 足音で目が覚める。どうやらまた眠っていたらしい。夢は見なかった。マザーは懲りたのか、それともさらに嗜虐的な遊びでも考えているのか、この部屋に戻って来ることはなかった。

 捨て鉢な気分だった。動くのも何かを考えるのも億劫だ。

「え? まだ先なのか? どんだけ奥に……」

 話し声が聞こえる。聞いたことのある声だなと思ったが、すぐに興味を失って目を閉じようとした。が、扉が開いて誰かが入ってきたために二度寝は阻止された。

「よー。会いたかっただろう? 俺に」

 入ってきた少年が倦怠感を引きずるように笑った。僕はその少年を知っていた。──彼が本当は「少年」と呼べる年齢ではないことも。彼が今首から下げているアクセサリーが、彼の大切なものであることも知っている。ああ、誰だっけ、名前が思い出せない。

「しかしひどい有り様だなあ。容赦ないぜ、マザーは」

「……マザーを知ってるの?」

「はぁ? 当たり前だろ。やっぱり気が狂っちまったのか。俺のこと忘れたか?」

「忘れてない。でもわからない」

「それを忘れたって言うんだよ、悲しいなぁ」

 彼はおどけたような口調で言ったが、内心傷ついているのはうっすら感じ取れた。

「じゃあ、仲間のことは? 十五番隊の」

「じゅうご……?」

「おいおい、それはダメだろ。俺のことはともかく、自分の部隊もろとも仲間を忘れるのは」

「ウルフさん……なら」

「……」

 彼はなぜか黙りこくった。それから後ろにいる蒼玉を振り返った。

「てか、蒼玉。こいつの鎖、伸びたままだけどいいのか?」

「ええ。近づくと引っ掻かれますから」

「マザーみたいにか。はは」

 彼は再び僕に向き直った。

「なんで俺が今までここに来なかったと思う?」

 彼はじっと僕を見つめた。その目が怖かったけれど、あの楽しい気分がそこにある気がして離せなかった。

「苦しかったよな? 痛かったよな?」

「……決まってるでしょ」

「誰か助けてって思わなかったのか?」

 僕は耳を塞いだ。嫌だ、聞きたくない。しかし、ぼんやりと感じるこの暖かさを、今度こそ逃したくなかった。

「耳を塞ぐな、聞け。お前には信じるべきものがあるんだ」

 蒼玉が訝しげな顔をして彼の肩を叩いた。

「死神、あなた何を考えて……」

「なんだよ、うるせぇな。すっこんでろ」

 死神。

 ああ、そうだ。彼は……。

 死神は蒼玉の手を邪険に払い、肘鉄を食らわせた。蒼玉は腹を押さえてうめく。

「ここは俺と〈龍〉の世界なんだよ、今は。邪魔すんな」

 そうだ、僕は〈龍〉と呼ばれていた。

 でも本当の名前じゃない。

 頭が痛い。

「……マザーに言いつけますよ」

「ああ、何とでも報告しに行けよ。俺はマザコンじゃあ無いんだ」

 シッシッ、と死神が手をひらひら振ると、蒼玉は渋々といった様子で部屋を出ていく。しかしどうやら扉の外で聞き耳を立てているようだ。

「……あのままどっか行ってくれればなぁ」

 死神がぼやいた。

「どうして僕に構うの。もう辛いのは嫌なの。これ以上痛いこと増やさないで」

「俺は痛めつけたりしない」

「してる」

「それはお前が自分を痛め付けてるんだろ?」

「そんなわけない」

「……助けてくれるはずの『誰か』がいるって、認めたくないんだろ。認めたら、なんで助けてくれないのって、余計に辛くなるから」

「あ、あ、」

「いないことにしたんだろ。だから忘れてるんだ」

「誰……」

 白い光。

 頭痛。

 死神の瞳を見つめる。

「ああ、僕、どうして忘れようとしたんだろう」

 一筋の光がぼやける。

 喉の奥が締め付けられる。けれども込み上げるのは嗚咽でも悲鳴でもない。

 傷付いた手に雫が落ちた。ひどくしみたけれど、もう止まらなかった。

「ごめんね、イツキくん……僕はまだ何もしてないのに……」

 息が苦しくなる。

 初めて会ったときから、彼の目は、煌々と生に輝いていた。しかし、ただ生にしがみつく者とは違った輝きだった。不思議だった。あんなにも明るい目をする人がいるなんて。だから僕は彼を引き入れた。どうしても、そうしなければならない気がした。そしてきっと、僕にとって、彼は希望になると思った。

希望なんて持たない方がいいと知っているのに、持ってしまったのだ。

「死神くんは、どうして僕に……」

「俺のエゴだよ」

 死神はニヒルに笑って、いきなり僕の首に手を回し、顔を近づけた。僕は一瞬身を引いた。ほぼ抱きつかれているような格好になる。

「お前の仲間にここを教えた」

 死神が呟いた。合わさった胸に響いてくるような低い声だった。僕は黙って目を見開いていた。

「いつ助けに来るのかは知らない。そもそも来るかどうかも」

「どうしてそんなことを」

「蒼玉やマザーの前ではおくびにも出すなよ。バレたら俺の首が飛ぶ。お前の仲間も死ぬ」

 質問には答えず一気に言うと、死神は僕を突き放した。僕は勢いで後ろの壁に背中を打ち付けてうめいた。

「……嘘ついてないよね?」

「こんな嘘は言わない。まあ信じるなら俺じゃなく〈狐〉くんだね」

 死神は妖しげに嗤うと、くるりと回れ右をして扉に手をかけた。

「死神くん!」

「なんだよ」

 思わず呼び止めて少し迷った。

「君は、何を信じているの」

「……は? またおかしくなったのか?」

「違う。君がなぜ人を信じろと言うのかがわからないから」

 死神は無表情に僕を見つめた。

「俺が恃むは己が技倆ぎりょうのみ……だ」

 彼はぽつりと呟いた。僕はきょとんとする。

「君の言ってることは時々意味がわからない」

 僕が苦笑いすると、死神は鼻を鳴らした。

「理解されたくないね」

 今度こそ扉を開くと、彼はニヤリと意地悪な笑いを僕に向けた。

「じゃあな、俺のお馬鹿な

 僕は一瞬、彼が今何と言ったのか理解できず、硬直してしまった。

 僕が再び呼び止めようとする前に、バタンと扉が閉まった。彼を引き留めようと思わず伸ばした宙ぶらりんの腕を下ろすと、僕は深いため息をついた。

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