三話

 「隊長ー?」

 俺は隊長の部屋の扉を叩いたが、返事は返ってこなかった。寝ているのかもしれない。

 俺は静かにドアノブをひねって少し中を覗いた。人の気配はしない。

「隊長?」

 もう一度呼んだが、部屋はしんとしている。俺はここで思い出した。さっき隊長は買い出しに出掛けたのだった。

 隊長が俺の部屋に置き忘れた携帯電話を返しに来たのだが、そもそも買い出しに行く前に自分で気付いて欲しいものである。俺は中に足を踏み入れた。

 隊長の部屋は学校の美術室のような匂いがした。絵の具と木の匂い。そしてかなり散らかっていた。窓のそばにキャンバスが立ててあり、その付近に絵の具のチューブや筆、鉛筆、図鑑、定規などが足の踏み場もないほど大量にばらまかれている。どこに何があるか到底把握できない。それよりも俺はキャンバスに目を惹かれた。

 色とりどりの生き生きとした花の間を、優雅に鱗粉を輝かせて舞う蝶の絵。背景はまだ手を付けられていない。蒼と翠の宝石のような羽が印象的だ。花弁の柔らかな質感や葉のみずみずしさが、本物と見まがうほどリアルに描かれている。鮮やかな色も自然に見えた。思わずため息がもれるほど美しい絵だ。

 俺はしばらく棒立ちでその絵に魅入っていた。花の甘い匂いが漂ってくる気がした。携帯電話が右手から滑り落ちてから、隊長の部屋に初めて入ったことに気がついた。

 隊長が俺を部屋に入れることは無い。他の隊員の部屋に入るときはまずノックをする。暗黙の了解だ。そしてたいてい、みんな扉を少しだけ開けて用件を聞く。開けずに扉ごしに会話することもあった。特に隊長はそうだった。今なぜ彼がそうするかわかった。絵を見られたくなかったのだろう。

 携帯電話を拾って机に置き、俺は部屋を見回した。机の隣に引き出しがあり、そのまた隣に本棚がある。図鑑や動植物の専門書ばっかり入っていた。本当に好きなんだなと感心する。机と反対側の壁沿いにベッドがある。布団は畳まれておらず、起きたときの形そのままであった。

 俺はベッドの下に箱があるのを見つけた。

「……ベッドの下って定番の隠し場所だよな。あいつ、エロ本持ってたりして……」

 そう思ってから、なんとなく黒狐のにやけた顔が浮かんで頭を振った。黒狐に侵食されてきている気がする。

 ともかく中身が気になるので、箱を慎重に引き出してみた。開けてみると、中身は本やビデオではなく、大量の画用紙であった。それもすでに絵が描かれている。

 猫や花、雑草、夕暮れ空、夏の雲、枯れた森……どれも自然界の生き物や景色であった。そして写真のごとくリアル。たまに星空のような模様のかぶと虫や青い薔薇など、ファンタジックな絵もあった。美しくどこか懐かしさを感じる絵だった。

「隊長って絵上手かったんだな。知らなかった……」

 「隊長展」を開けそうなくらい上手なのに、どうして見せてくれなかったんだろう。真っ先に「ね~見て~!」と自慢しに来そうなのに。

 俺は一番上にあった絵を眺めた。何の絵だろうか。赤い花の絵。見たことがあるような気がした。しばらく悩んで、隊長の花壇に似たような植物が生えていることを思い出した。しかし名前はわからない。

 俺は本棚を調べた。ここにある図鑑を見ればわかるだろう。適当に何か載っていそうな図鑑を二冊取り出した。意外に重くて落としそうになる。

「おっ……とっ?」

 俺は眉をひそめた。本棚の奥に何か見える。目を凝らすと、本の表紙であることがわかった。

「『龍王国神話と歴史』……?」

 俺はさらに本を引き出して、奥の本を取り出した。少し古い本であった。ふせんがついている。

「隊長、こんな本読むのか?」

 一番前のふせんのページを開いてみた。読んでみたが意味がよくわからなかった。まず言葉が難しい。

 別のふせんのページを開いてみた。ここは新たな章の始まりだったので、ある程度何の話かわかった。


「龍王国の神は普段、人間に姿を見せることはない。だが実際に存在はしている。そのことはこれまでに何度も説明してきたが、これを裏付ける証拠はまだお話していない。そこでとある物語を紹介しよう。

 昔、王国に暴虐非道の王が誕生した。王は民に重い税を課したり、ろくに訓練もさせず兵士を戦争に送り出したりした。それを見かねた龍神は、王族に〈龍神の使〉を送って警告した。しかし王は警告を無視し、さらにまだ赤子であった〈龍神の使〉を山に捨てたのだ! そこで龍神は幼い〈龍神の使〉を育て、革命を起こさせた。これが中学校の教科書に必ず載っている、『ドルーの革命』の真実である。……」


 伝説で神話を裏付けられるか、と俺は突っ込んだが、どうも隊長はふせんをつけるくらいこの話が気に入っているらしい。隊長はどこからこの本を手に入れたのだろうか。龍王国神話を知るのは王族関係者と貴族のみのはずだ。

 ノース教を信じる民の反感を買わないために、龍王国神話が書かれた書物は国立図書館の普段入れない資料室にのみ置いてある。龍王国神話は、あくまで昔の神話として、高度な教養として王族や貴族の子どもたちの通う学校だけで教えられるものだ。俺はじいちゃんから聞かされたけれども。

 やはり隊長は暗殺された元帥の息子なのだろうか。そうだとしたらこんな本を持っていてもおかしくない。

 俺はまた別のふせんのページを開いた。最終章であった。「滅び」という物騒な小見出しがつけられている。


「龍王国が完全に滅びるのは、次の〈龍神の使つかい〉が現れたときだろうか? はたまた百回〈龍神の使〉が現れた後であろうか? それはそのときになってみないとわからない。ただ一つだけ言えることがある。龍王国の滅亡には、必ず〈龍神の使〉が関与している

 何故なら、彼らはまさしく、龍王国の滅びを招く使者であるのだから。」


 滅びを招く龍神の使者。

 龍王国を創った龍神が、龍王国を滅ぼすのか? ありえない。矛盾にも程があるだろう。俺は本を投げ捨てたくなった。隊長が俺なら暖炉に放り込んで灰に変えているところだ。

 俺は図鑑を見る気もなくして全て本棚にしまった。どうして隊長はこんな本を気に入っているのだろう。わざわざ奥に隠すんじゃなくて、大好きな植物図鑑をもっと入れられるように捨ててしまえばいいのに……。

 なんで隠してたんだ?

 電撃が体を貫いたようだった。普通に考えて本を隠す必要など無いはずだ。ただ気に入っているだけなら。

 違う。気に入っているんじゃない。隊長にとって、何か重要なこと、そして誰にも知られたくない何かが書かれているからだ。自分を隠したんだ。

 俺はもう一度、「滅び」のページを開いた。滅び、滅ぶ、滅ぼす……。隊長の子どもみたいな無邪気で明るい笑顔が、なぜか真逆のイメージと繋がる。滅び。

 考えてもわからない。どうしてそんな思いつきが生まれたのかもわからなかった。しばらくして俺は考えるのをやめた。この本はただの神話だ。だから話が滅茶苦茶なんだ。矛盾が現れるんだ。本当に龍王国にあったことじゃない。何せドルーの革命なんて、1600年以上も前の話だ。

 赤い花の絵を箱に戻し、箱をベッドの下に押し入れた。ため息が出た。これ以上ここにいてはいけない気がする。俺はそっと部屋を出た。

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