第2話 クロアゲハの乖

 日が昇り、光の満ちた物理空間。

 淵上は、労働者で満ちる駅前の喧騒で一人、あてどなく歩いていた。日課の散歩である。

 ダボついた黒一色のパーカーにダメージジーンズとスニーカーというラフな格好は、制服やスーツなど規格的な服装の中では少し浮いていた。

 「あなたも死生の呪縛から解放されませんか?」

 淵上の視界外からチラシが差し込まれる。反射的に受け取った藁半紙には、『クロアゲハの乖』と書かれており、怪しげな文言の並ぶ文章の後ろに大きく蝶のシルエットが描かれている。どうやら、宗教団体らしい。

 「……解放されたら、死ななくて済むってわけ?」

 「少し違います。私たちの死生は、浄土に穢土、天国、輪廻転生など、どんな宗教観においても世界に縛られてしまいます。私たちクロアゲハは、これを呪縛と捉え、呪縛から解放されることを教えとしております」

 チラシの主である若い女性は、透明感のある声でそう説明する。恍惚的な微笑を添えて。

 「じゃあ、なんでクロアゲハ?」

 「そもそも、蝶というのは人の死や再生を象徴し、魂を運ぶと言われております。中でもクロアゲハはその色合いから魂との結びつきが強く、私たちの教義ではクロアゲハが魂を乖離世界——————完全な消滅へと連れて行ってくださると考えております」

 クロアゲハ。蝶。その言葉に、淵上は深夜の出来事を思い出す。

 「へぇ……ありがと。参考になった」

 「入信いたしますか?」

 「申し訳ないけど。私、無神論者だから」

 取ってつけたような理由を聞いても、女性は微笑みを崩さない。

 「そうですか……それでは、あなたに解放があらんことを」

 そう言って、女性は雑踏に消える。騒々しい群衆の中で、彼女の声は違う位相から流れるように鼓膜に反響していた。



 「ここら辺……昨日来たところか」

 ふらふらと彷徨っていると、深夜に訪れた『出入口』の近くまで来ていた。住宅街の中にある、小さな踏切。『出入口』は、その片端にあった。

 「……さすがにもう消えてると思うけど」

 獅子雄が行っていたように、目蓋をゆっくり閉じた後、片腕を伸ばす。

 意識を不可視に集中すると、やがて掌に別世界の感覚が宿る。

 宿るはずがないという、想像に反して。

 「——————消えてない⁉︎」

 淵上はすぐさま眼を見開き、懐のスマートフォンを取り出した。通話履歴から、『獅子雄敦賀ししおつるが』に電話をかける。

 『お早う、淵上ちゃ——————』

 「獅子雄さん、昨晩の歪曲空間がまだありました——————今から入ります」

 獅子雄の寝ぼけた声を遮り、淵上は焦りを滲ませそう告げる。

 『昨晩っていうか今日……って、ちょ、待って待って』

 「空間から帰還してから、既に6時間以上経ってます。誰もいないのならとっくに消えているはずです」

 『つまり誰かが中にいる、か……だったら尚更、一人で行くのは危険だ。俺が到着するまで待機だよ』

 獅子雄は意識が覚醒しきったのか、冷静にそう伝える。だが、淵上には届かない。

 「もし『腸結び』だったら、今! 誰かが殺されているかもしれないんですよ!」

 『ああ、分かってる。でも、相手が誰かも、歪曲律が何かも分かってない。一人で行くのは、無謀だよ。それこそ——————傲慢だ』

 「…………それなら私は、罪人でいい」

 獅子雄の返答を待たず、淵上は電話を切る。

 焦燥に身を浸し、早る心拍を抑えつけるように目蓋を閉じる。

 そして、伸ばした掌に滲む汗が杞憂であれと願いながら。

 「歪曲率——————同調。

 事象地平——————確認。

 空間接続——————確認。

 断裂、開始。」

 虚無に、全身を埋没する。

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