『腸結び』編
第1話 腸結び
未明。
三日月の頼りない光源は、魚群のような雲に遮られて届かない。虚が満たす黒に一滴のシアンを混ぜた空は、地上の事象への一切の不干渉を思わせるほどに暗く、星灯すら浮かべない。
視界は闇一色で、一寸先の足元すら不明瞭だった。
淵上は、手持ちのスマートフォンを操作して、懐中電灯機能を作動させる。
「淵上ちゃーん、俺の方も照らしてくれよ」
淵上の後ろから、少し嗄れた男の声が聞こえる。同じ場所から、かつかつ、という杖をつく音も。
「……携帯電話、持ってないんですか? スペアなんて私持ってませんよ」
間を置いて、呆れたようにそう返す淵上。
「まじで? ……ってことは、俺だけお先真っ暗? なんとかしてくれよ、淵上ちゃーん」
男はにやつきながら、淵上に形だけの助けを求める。分かりやすくつまらない軽口に、淵上は苛立ちを隠しきれず嘆息した。
「……めんどくさい」
「すまんすまん」
先程までの(形だけの)敬語を忘れて上司への悪口を吐き出す淵上に、男は軽薄に謝る。
「……というか獅子雄さん、それ使えばいいじゃないですか」
「……あそっか。確かにねぇ」
惚けているのか忘れていたのか、男————獅子雄は、数秒後にはペンライトを手にしていた。
「最初からそうすればいいのに……からかってるんですか?」
「いや、淵上ちゃんが思いの外ぴりぴりしてたからさ。少しからかってやろうと思って」
「からかってるじゃないですか。真面目にやってください」
「すまんすまん」
「……真面目にやってください」
「……へーい」
テンポの良いやり取りが途切れ、歪んだ光注二つを頼りに、二人は歩みを進める。
両脇に家屋を連ねる、一車線の道路。等間隔で立ち並んだ電柱には、弛んだ電線が幾つかの橋をかけている。少し先にある十字路の手前の道路脇には、腰ほどの高さの柵があり、中は小さな公園になっているようで、花壇や電灯らしきものが見えた。
その景色は、どこにでもある住宅街。
だが、間違い探しのように、いくつかの要素が抜け落ちている。
「淵上ちゃん、止まって」
淵上が十字路に差し掛かったところで、後ろを歩く獅子雄が声をかける。その声に、先刻のような軽々しさはない。
獅子雄は続けて言う。
「……ここの公園、嫌な匂いがする」
「? 私は何も臭いませんけど……」
「嗅覚の方じゃなくてさ。勘、ってやつだよ」
獅子雄は公園の柵を強引に飛び越えて中に入る。淵上は柵の切れ目、本来の入り口から中へ進む。
敷地には、入口から見て奥側にシーソーや砂場といった遊具があり、右手にレンガで囲まれた花壇、残りは小さめの広場となっており、左脇に電灯が立っていた。淵上は奥の遊具の方を、獅子雄は手前の方を、それぞれライトで照らしながら、匂いの元を探す。
「淵上ちゃん!」
程なくして、獅子雄が声を荒げた。
淵上は声の出所の元に、瞬時に移動する。
獅子雄がいたのは、電灯の前。明かりを灯さない電灯の、ちょうど目線の高さあたりが、獅子雄のペンライトで照らされている。
淵上は、無意識に迫り上がる胃液を抑え、嗚咽を漏らす。紛れもない悪臭と、悪夢のような光景を前に。
「毎度毎度、悪趣味なこった」
そこに飾られていたのは、プレゼントのリボンのように電灯に蝶結びされた、人の腸。
赤黒いそれの片端は地に垂れて、用済みとばかりに無造作に置かれた人の外身に繋がれていた。
「これで、3件目……」
淵上は唇を噛む。そこには、後悔と怒りをないまぜにした感情が結ばれている。
「……あんまり気にすんなよ。淵上ちゃんのせいじゃない」
「分かってます。……そこまで、傲慢じゃないので」
あるいは、全て自分のせいと言えるほど傲慢に強い力を持っていたら、この殺人を防げたかもしれない——————淵上は、悔恨に塗れた願望を言外に込める。
腸結び。
悪趣味な
「最悪のプレゼントだよ……まったく」
獅子雄は口元から煙を燻らせ、そう呟いた。
「新しい手がかりは無しか」
二人は死体を調べ公園内を一通り捜索した後、外の十字路に移動した。
獅子雄の言葉通り、目新しい成果は得られなかった。被害者は女性、身元不明。首にロープで絞められた痕と腹部に大きな裂傷。十二指腸から直腸までが強引に千切られ、結ばれた腸の片端は腹部に無造作に突っ込まれ、もう片端は宙空にぶら下がっており、腸の中には形を保つための針金が通っていた。
今までの2件と、同様の手口。
「……淵上ちゃん、帰ろうか」
「でも、まだ何も——————」
「俺たちは警察じゃないし、科学捜査もできない。これ以上は無駄だよ。……それに、長居は良くない。淵上ちゃんも分かってるでしょ?」
「それは……そうですけど……」
「はい、業務終了。お疲れ様ー」
不服そうな淵上を置いて、獅子雄は手を頭上でひらひらさせながら『出口』へと向かう。
「ちょ……待ってください!」
追いかける淵上からは、獅子雄の表情は見えない。
二人は十字路から来た道を引き返し、数分歩くと幅の狭い踏切に辿り着く。
光を発さない警告灯の前で、獅子雄は短くなった煙草を地面に落とし、踏み締める。
「ポイ捨ては良くないですよ」
「どうせ消えるんだし、大目に見てよ。——————さて、じゃあさっさと開くよ」
獅子雄は暗闇に腕を伸ばし、不可視の領域に触れるために目蓋を下ろした。指先が揺ら揺らと何かを探し求めるように動き、やがて透明の壁に触れるように掌が硬直する。
息を鋭く吸った後、定形の作業が始まる。
「歪曲率——————同調。
事象地平——————確認。
空間接続——————確認。
断裂、開始。」
闇が裂け、その隙間から覗くのは虚空。
3次元空間を超越した、視認できない境界線。
その向こう側に微かに見える薄明かりだけが、現実味を帯びている。
「準備は?」
「できてます」
端的なやり取りでお互いの状態を確認する。
「行こうか」
そして二人は、深淵に消える。
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