第35話 モガチャイルド

 ワタシは助手の須薄井さんに彫刻科研究室に連れていかれた。


「男神輿が中止になったにも関わらず、今年もやろうと企んでいる奴はこいつです!主犯格です!」


 例年、美大祭最終日、男性器を模した高さ3mあるご神体を、モヒカン、褌姿の彫刻科の男子学生有志で担ぎ、大学敷地内から普段お世話になっている近所の商店や食堂を練り歩いていた。女子学生も希望者は際どい服装で参加し暴れていた。


 練り歩くというよりは、大学の出店を破壊して回っていた。日本酒を一気飲みしてから出陣するので、中には泥酔する奴もいて危なかった。最終日なので、ある程度は無礼講だったが、昨年度、先輩の誰かが酔って暴力騒動を起こしていたため、中止の勧告が出ていた。

 ワタシが陰でご神体をつくっているという噂が流れていた。野外彫刻展で発表し、実家に設置したオブジェの形態がご神体に似ていたため、その噂を更に広げる元手となっていた。

 

「ワタシは主犯格でも何でもなく、今年の美大祭は参加するつもりがないんです。」


「お前、嘘言っても分かるんだぞ、陰で神輿、ご神体をこっそり作っているんだろ!」かなりしつこく聞いてくる。


 助手の須薄井さんは、普段からワタシに厳しい。


 ワタシは、やりたい放題、わがまま放題アトリエを占拠していたからだ。


 「いや~それは無いっすよ。ワタシはその日は参加しませんから。妙な言いがかりをつけないでください!」


 数十年前に彫刻科で初めて男神輿を発案し、男性器を模したご神体の歴史を創ったと言わている、当時彫刻科の学生だった、講師の浜真野先生は固く目を閉じていた。


 「浜真野先生の前で言うのも何ですが、新しい表現を創造する学生が、悪しき慣習に従って毎年同じことを繰り返すことに意味があるんですかね~」と須薄井さんは浜真野先生に直球を投げた。


 浜真野先生は目を薄っすら開き「もう辞め時かもね。」とボソッと言った。


 「最神先生!こいつどうにかしてくださいよ~!」須薄井さんは、最近、世界旅行から帰ってきたばかりの彫刻科主任教授の最神久雪もがみひさゆき先生に助けを求めた。


白髪混じりのロン毛でオーバーオールを着た最神先生はワタシをジロリと睨みつけた。


 「おう、お前か、ワシが研修(世界旅行)に行っているうちに、態度がデカくなったのう。神輿のことは助手の須薄井君に任せるとして、あの広場に置いてあるタイヤは何なんだ。」


 矛先が変わった。


 ワタシは謎のオブジェを制作した後、燃え尽き症候群になった。それから回復したころに、大学近所のブリッジストーン社から普通自動車、大型トラックの中古タイヤを無料で100本近く貰ってき広場に積み上げていた。

 今も昔も、気落ちした後にとんでもないパワーを出してしまう悪癖があった。


 「いや~。制作するんですよ。これから。」


 「ナ・ニ・ヲ、つくるんじゃ。」


 「・・・・。」ノープランだった。


 「ワシはお前と心中はせんぞ、責任もって作品にしなさい。いいな!」


 タイヤは夏場異臭を放ち、タイヤの内側に溜まった水に蚊が大量発生していた。他方面からクレームがきていたため、最神先生もイライラしていた。


★★

 最神先生はワタシが大学2年生になるころ、現在の海外アートを見渡したいしたいと、大学側にゴリ押しし、長期研修として約1年間海外に出た。


 やることがワイルドである。


 大学に入りたてのワタシに「先端の先端にアートは存在するんじゃ。物はつくるな!」とよく言っていた。


 要するに「ゼロになれ」というような事を言っていたんじゃないかと勝手に想像していた。


 遠回しに「お前に彫刻家の才能はない。」と伝えてくれていたのかもしれない。


 最神先生は若い頃はサラリーマンをしながら制作をしていたらしい。戦後のドタバタの中、リヤカーに鉄や木材を詰め込み、仕事が終わった後に制作をする生活を長い間行うような強者だったようだ。

 

 大学で教えるようになってから、美術史を徹底的に頭に叩き込んだと豪語していた。


 1960年頃、石、木、紙、綿、鉄板、パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて作品とする表現者が出てきた。


 もの派と言われている。それまでの日本の前衛美術の主流だった反芸術的傾向に反発し、芸術の再創造を目指していた人たちを牽引する存在の一人が最神先生だった。


 日本のあらゆるところに最神先生の野外彫刻が設置されている。実家の駐車場にオブジェを設置してぼんやりしているワタシとは住む世界が全く違う偉人だ。


 横浜みなとみらい地区に設置された、ジェットコースターのコースを彷彿とさせるステンレス製の巨大彫刻「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」 は有名な作品である。


★★

 日本美術界の巨匠であった最神先生だったが、学生からは陰で「モガちゃん」と呼ばれていた。愛される先生だった。

 

 モガちゃんの講評会が終わると、大概の学生は「くそじじい!」と呼び名が変わった。


 最神先生は講評会中に学生にケンカを吹っかけてくる。そのケンカにうまく乗せられた学生は泣いたりわめいたりする。


 巨匠は学生を扱うのがうまかった。谷底にも落とすし、べらぼうに褒めて勘違いもさせていた。


 いつも本気でぶつかってきてくれたが、ワタシたち子供と遊んでくれていたと言ったほうが適切か。


 関わった学生の、その後の成長ぶりを丁寧に見届けてくれる、マメな人でもあった。


 講師の浜真野先生は、大学を卒業して数年間、最神先生のご厚意により大学のアトリエを使用させてもらっていたくらいだ。


 最神先生は人を見抜く力があったので、才能豊かな浜真野先生を大切にしていたのかもしれない。


★ 

 痛烈な批判をされた後は、自分の作品の見方がガラリと変わり、今まで気づかなかった大事なものを見つけることができた。


 ワタシは「お前みたいな奴は、今はガシャガシャとバカでかいもん作っているが、そのうちモノはつくらなくなるだろう。でも、お前みたいなバカで変わった奴は今まで見たことがないぞ。いつか何かやりそうだな。」と言われたことがあった。


 突発的に何か仕出かしてしまう癖を案じてくれていたのかもしれない。


 残念ながらワタシは、今のところ大して何もしていないが、モガちゃんの「いつか」に期待したいと思う。


 モガちゃんが言っていた「物はつくるな」は、この世にモノはもう必要ないという嘆きだったのかもしれない。


 世界のアートを見た後も、更に強くそう語っていた。

 

 「もの派」の巨匠が言うんだから、きっと本当のことを言っていたに違いない。


 モノを作ってなんぼの精神で彫刻科に来たのに、物はつくるなとは理解し難いものがあった。


 同じことを繰り返す必要は無い。


 美術教育論の前衛アーティスト串田先生も言っていた。


 そんな的確な助言も、この頃のワタシには理解できず、過去と同じ過ちを繰り返す羽目になっていった・・。


 



 


 


 


 

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