第34話 失われたロンバケ
「ピエール、ピエール」とワタシは後ろから、肩をぐいぐい押された。
一緒にフランス語を選択していた石田先輩から呼ばれて目が覚めた。
講義中は本名で呼び合うことが禁止されていたため、石田先輩はニックネームで呼び起こしてくれた。
フランス語の加藤先生は、フランスの田舎にブドウ畑を持っているらしく、「人生に一度はフランスへ行った方がいいよ。あっちのは2か月くらい夏休みがあるんだよ。いいよね~。俺も、講義なんか止めて、フランスに移住したいよ。」と口癖のように言っていた。
ワタシの横に座っていた油絵科の背の高いロン毛青年「モンブラン」は、フランス語の上達スピードが異常に早かった。
ついには「加藤先生の仰る通りフランスに行ってきました!フランス人と違和感なく話せました。」とさらりと言ってしまう始末だった。
モンブランから「ピエールも早くフランス語を覚えて、フランスに行くべきだ。」と何回か助言をいただいたが、日本語も怪しいワタシには実現が難しかった。
★★
木彫制作を終え、学食で彫刻科の仲間たちと夕飯を食べていた。
ロン毛でゲッソリしていた、ニックネーム「キリスト」と呼ばていた彼が、食べていたうどんを残したまま、慌てた表情で食堂の薄暗い角で何やら携帯電話で話をしている。
皆で、食堂の薄暗い角で青い顔をしているキリストを見ながら「ほんまもんのキリスト様や!」と言っていた奴もいた。
キリストの背丈程あった観葉植物も、リアルさを演出していた。
キリストは独特な世界観を持ち、万人に優しく、彫刻科には珍しく他学科にも友達が多くいる顔の広いタイプだった。
皆、キリストが好きだった。
私立の美術大学は学費が高額なため、学生はアルバイトをしながら、日々の食生活を削り、制作費や生活費を捻出している。
特にワタシやキリストは地方から出てきたので、家賃や生活費で苦労をすることは多かった。
ワタシも痩せていたが、キリストは見ているこちらが心配になるほど痩せていた。
★
その後、キリストと学食に行っても、お茶しか飲まず「何か食べないの?」と聞いても、「うん、お腹一杯だから。」と言って、無理やり笑ってみせていた。
夕食後は、「じゃ、深夜バイトがあるから。」と言い、席を立って行ってしまった。
週5で、朝からバイトを入れ、ほぼ毎日深夜バイトを入れていたキリストは本家と見分けがつかないくらい顔や体形のキリスト化が進んでいた。
その頃、深夜バイトと言えば「ヤマザキパン」でベルトコンベアで移動するパンを仕分ける仕事だ。
給料はそこそこいいが、生活リズムが崩れるので体には悪い。
キリストがベルトコンベアの前に立っている姿は、祈りにしか見えないだろう。
キリストは講義や制作はおぼつかなくなり、常にふらふらで立っているだけでも辛そうだった。
いつも厳しい教授や講師たちもキリストには優しかった。
ワタシは隣で木彫制作をしていたモッキーに「キリストが最近辛そうなんだけど、何か知っている?」と聞くと、驚くべき返答が来た。
「ブーは気が付かないの?相変わらずドンカンだね。学食で青い顔してたところ見て、大概の仲間は気付いていたんだよ。彼女に赤ちゃんができたんだよ。」
「え!え!マジで!、キリストはお父さんになるの?凄いね!彼女って誰?」とワタシは持っていた彫刻刀を人体木彫の頭頂部に突き刺してしまうくらい驚いていた。
「彼女は誰なんだろうね。あたしも知らなーい。」
浪人生の頃、どこかのヨビコウの受付で働いていた人らしいと後から聞いた。
真実は分からない。
あれだけバイトしてヘロヘロになっても、文句一つ言わず、生まれてくる赤ちゃんのために頑張るキリストは素敵だった。
一度、キリストに、木製の大きな十字型をつくっていた韓国出身のオウさんの作品の前で、張り付けにされたキリスト像の恰好をして写真を撮らせてもらったことがある。
嫌な顔一つせず、サービス精神旺盛な、優しく寛大なキリストだった。
時が経ち、やつれ果てたキリストが、ぷりっぷりな赤ちゃんを抱っこして大学に見せに来てくれたときは、キリストの子として皆で崇め祭った。
キリストは見たこともないデレデレとした表情で、幸せそうに赤ちゃんを見つめていた。
キリストは彫刻をつくる前に命をつくった。
二十歳そこそこの若者たちからすれば、非日常的な出来事だった。
ロングバケーションを楽しむかのようにうつつを抜かしていたワタシは、リアルな世界を体現していたキリストの姿を見て、少し現実の世界へと引き戻された感覚があった。
ワタシたちは、アーティストである前に人間なのだ。
大学ではほとんどの人間が、のんびりとしているように見える。
アルバイトや制作に追われる学生は一部なのか。
長い夏休みが4年間続いているように見える学生は羨ましかった。
キリストにはロンバケがあまりなかった。
それは少し可哀そうだなぁと思った。
しかし、それは試練なのか、ちょっと早まった幸福なのかは時間が経たないと分からない。
★★
「シノブ!シノブ!」鉄工場の奥ででワタシを呼ぶ声がする。
もう一人、ロン毛のポニーテール、小牟田武三先輩が大きな声で「あの人が帰ってきたぞ!面白くなりそーだな。」と言っている。
この時期、ロン毛青年が割と増え始めていた。キムタクの影響だろうか。
バイト先の親方たちはヨシタク(吉田拓郎)世代で、毛があったころは皆ロン毛だったと言っていた。
大学内にいたロン毛でキムタクと呼ばれていた人は少数。キリストは1名。残りは「落ち武者」がいいところだった。
「落ち武者」と呼ばれ過ぎていた助手の島さんは、
ワタシの彼女もキムタクが好きだった。
ワタシは反発して坊ちゃん刈りかラーメンマンだった。
「え?あの人?」ワタシは小牟田先輩のヒールな物言いに嫌な予感がした。
「お前の苦手なあの人だ!やべーぞ!」
「まさか!」
確か、あの人もロン毛だった。
ただし、強烈なジジイのロン毛だ。
あの世代の、有名なロン毛野郎が思い当たらない。
ワタシは急に頭の中がグルグルと回り始めた。
「強烈だもんなぁ。あの人。絶対何か言われるか、怒られるかだ。」と・・。
周りの彫刻科生たちも、ざわつき始めた。
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