7月22日 7
暑い。この暑さは耐えられない。たまらず俺は飛び起きた。よく知る自分の部屋だ。窓から強い日差しが差し込んでくる。盛夏の朝。まだぼーっとしている。
何かとても良くない夢を見た気がするが、思い出せない。ふとスマートフォンを取り出してカレンダーを見た。
七月二十二日。ああ、そうだ。今日は終業式の日。
まただ。思わず心の中で悪態をつく。
階下から誰かの声がする。急いで身支度をして階段を下りると、玄関先に幼なじみが立っていた。おはよう、と彼女ははにかみながら言った。
ああ、俺はこれを知っている。デジャブの感覚を覚えながらも、俺は
程なくして、学校の目の前の交差点で俺たちは止まった。ああ、これも知っている気がする。だけど、何だっけ? 肝心なところが思い出せない。
交差点の斜向かいに猫の姿が見えた。それを見て、なぜか心が
すると、どうしたの、と少し心配そうに幼なじみがこちらを伺った。何か言葉に出したいことがあるのだが、出てこない。大丈夫、と生返事をした。
信号が青になり、交差点を渡った。
「おはよう、猫ちゃん」
幼なじみは後ろから付いてくる猫に挨拶した。にゃあ、と返事をくれる。その姿を見て、俺の中でさらに焦燥感が高まっていった。
ちらりと野猫を見ると、白い毛並みの外側を覆うように、薄らと黒いモヤが見えた気がした。頭を振って二、
黒いモヤは見えなかった。口の中に苦い唾液が溢れ、吐きそうになったが、何とか飲み込んだ。
そのまま、喉に魚の小骨が引っかかったような心持ちが晴れることはなかった。俺たちは校門前の横断歩道で止まる。その横に野猫もちょこんと止まった。俺はえも言えぬ不安を抱えたままだ。
信号が青に変わり、俺たちは歩き始める。白黒の地面を一歩一歩進むごとに気分が悪くなる。
このままではいけない。
信号を渡りきる頃、右側に圧を感じた。ふと、身をよじる。
「……運転手、スマホいじってやがる」
俺と幼なじみはそれに気づいて、慌てて横断歩道を渡りきった。
ぶちり
その不快な音に青ざめて後ろを振り返ると、横断歩道の黒い部分に真っ白な塊がぺしゃんこになっていた。
「ん? どうしたの? 」
幼なじみが言うと、
「見るな! 」
と俺は彼女の視界を
後ろから甲高い悲鳴が聞こえた。
「……え? 今、すごい悲鳴が……」
「早く行くぞ」
彼女の両目を
終業式は淡々と終わった。校長の話はお経のようだった。さっきの光景が頭に張り付いて離れない。人形のように後片付けを始めると、朝から感じていたあの既視感が甦った。
何かが自分の体に乗り移る。湿った空気と不快に響く椅子の音。生徒の会話。一度や二度ではない。浮かない顔で椅子を片付ける自分を、俺は斜め上の空間から見ていた。
その瞬間、視線を感じる。思わずそちらの方を振り向いた。体育館の二階の物見から、黒い塊が俺を見ていた。二つの不穏な光が時たま
「ねえ」
幼なじみの声がして俺は我に返った。
「なに」
答えながら、背中に冷たい汗が流れる。
「……あのさ、何か、視線を感じるんだけど」
「気のせいだ、忘れろ」
俺は振り切るように片付け作業に戻る。
「あれ、猫ちゃんだよね」
それを聞いた瞬間、
「やめろ! 」
訳もわからず俺は叫び声をあげた。驚いた幼なじみが目を大きく開く。かなり大きな声だったのか、周りにいた生徒たちも驚いてこちらを見た。一瞬、空気が凍る。何も起きない。だが、体を包み込もうとしていた冷気は
そして、俺は思い出した。そう、盛夏の夏を俺はループしている。回っている訳ではない。そのまま、ループだ。焼け付くように暑い七月二十二日を、もう何度繰り返したのか。
これは何度目の七月二十二日だ? 朝、幼なじみが迎えに来て、野猫と出会い、
そして、どうなるんだっけ?
だめだ。ノイズが入って思い出せない。体育館の時計を見ると、水彩絵の具をかき混ぜたように時計板が歪んで見えた。視界がおかしい。
見れば、椅子を片付けている生徒たちの背から、蒸気のような「モヤ」が立ち上がっている。視界に入る生徒全員だ。だんだんとそのモヤが厚みを帯び始める。
よく観察すると、色が付いている。ある生徒は赤、ある生徒は緑、ある生徒は青。
「ねえ」
突然話しかけられて俺は心臓が飛び出そうになった。
「なんか震えてるけど大丈夫? 」
そう幼なじみの声が聞こえてきた。
「大丈夫」
俺はそう言って彼女の方を振り返ると、彼女から白い湯気のようなものが出ていた。
「お前こそ、大丈夫か? 」
動揺する心を悟られないように平然としたまま声をかける。
「ん? なにが? 」
終業式が終わると俺たちは食事に行った。覚えている。何かに操られるように昨日と同じものを頼んだ。
「さっきの、なんだったんだろうね? ……猫かな」
このセリフも知っている。
俺は呆然としたまま、何で、猫だと思うの、と尋ねた。
「クラスメートから聞いたんだ。あの……付いてきてた猫ちゃん……」
俺はその台詞をほとんど聞いていなかった。
なぜならば、虫のように小さい白い猫が見えたからだ。それも、彼女が、まさに口に入れようとしているハンバーグの肉片に。
「そんなのあるわけない…… 」
小さな猫が彼女の口の中に消えていく。
俺はずっとそれを見ていた。彼女が何を言っているのか、分からなかった。
その帰り道、悲劇は繰り返された。
そうだ。そうだった。この悪夢はこうして続くんだ。
その場に立ち会った時、俺は全て思い出した。ああ、また視線が赤く染まる。轟音に気付き玄関から飛び出してきた彼女の母の泣き叫ぶ声が頭蓋骨を叩く。その顔は、水彩絵の具をかき混ぜたように歪んでいた。
この後、俺は死ぬだろう。だが、一つ覚えておくことがある。あの猫は、きっと、敵だ。俺から全てを奪う敵。もし次があるなら、これだけは覚えておくんだ。
どうか、神様、お願いだ。この延々と続く地獄から、俺を救ってくれ。願わくばあの猫のいない日々に。祈りを捧げながら、俺の意識は霞み、淀み、溶けて、そして電池が切れた。
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