終わりと始まり
その日は終業式だった。夏の朝、一学期の最後の登校日。
暑さに
あと一日で夏休み。そう意気込んでなんとか体を持ち上げて、制服に着替える。大きく伸びをするが、なんだか胃もたれのような感覚が残っている。
胃袋が萎えてしまっているのだろうか。だからというわけではないが、七月に入ってから朝食は取っていなかった。
ほら、早く行きなさい、という親の声に従って玄関に向かう。開いた扉の前には、幼なじみが立っていた。
「今日は終業式だよ、さあ、行こう」
彼女は元気いっぱいに俺に呼びかけてきた。ああ、毎日顔を合わせているが、活力を分けて欲しい。そんなことを考えながら
「わかった。いってきます」
と言って俺は家を出た。
通学路はまた焼けた鉄板のような暑さだった。温い風を受けながら俺は学校に向かった。幼なじみはそんな俺の様子にやや気の毒そうな顔でぼやいた。
「ああ、全く。男の人って暑いの苦手だよね。うちの兄貴もだけど。かわいそう」
彼女は愚痴を漏らしながら少し前を歩いていく。
「一緒にするなよ」
彼女との付き合いは長い。腐れ縁もいいところで、生まれた時から一緒だった。新生児の頃から隣のベッドにいたというのだから笑えない。
呪いなのか祝福なのか。男女の違いはあれ、似たような背格好に体型。男としては少し恥ずかしい。
幼なじみと談笑しながら歩いていく。学校の近くの交差点に来た。赤信号で俺たちは止まった。交差点の斜向かいの角に小さな猫が見える。
こいつとはよく通学路で出会う知り合いだ。真っ白い毛並みにところどころ茶色い毛が混じっている。しっぽの先だけ黒。まあ一応、三毛猫? 歳の頃は3歳くらいだろうか。まだまだ好奇心旺盛な年頃で、危なっかしい。
そんなことを考えていると、信号が青になった。足を前に進める。野猫は器用に左右を確認し、素早く横断歩道を渡った。まだ横断歩道を渡り切れていない俺たちに近づいてくる。
俺はいつものように、やあ、と声をかけた。気づいているのかいないのか、一瞬こちらを見上げたかと思うとにゃあ、と挨拶をしてくれた。
こいつはいつも、すれ違った俺たちの後ろをなぜかついてくる。ちらっと振り返ると知らないフリをしながらトコトコとやはりついてきた。なんだか微笑ましくなる。
幼なじみとたわいもない話をしながら、俺たちは通学路を歩いていく。あと三分くらいで学校だ。最後の横断歩道の前でまた信号に捕まった。ああ、かったるい。もうすぐ檻の中か……。
そんな邪念を見透かしているのかいないのか、野猫は俺たちの隣にすました顔でちょこんと座っている。
「ふふ、今日はなんだかずっとついてくるね」
幼なじみが嬉しそうに笑う。俺もつられて口元を
ふと見れば、二トントラックがじわじわとこちらに進んでくる。思わず仰天する。
「……運転手、スマホいじってやがる」
俺がそう言うと幼なじみも気づいたのか、慌てて駆け足で渡った。俺もそれに倣う。
ぶちり
ものすごく嫌な音が後ろから聞こえた。俺は振り返った。野猫がぺしゃんこになっていた。
「ん? どうしたの? 」
幼なじみが吊られて振り返ろうとする。
「見るな! 」
そう言って彼女を制すとけたたましい悲鳴が後ろから聞こえた。
「え? 」
青ざめた彼女の視線を覆うように体を被せ、足早に校門に歩みを進めた。
「……え? 今、すごい悲鳴が……」
「早く行くぞ」
振り切るように俺は校舎の玄関に入った。
その日、俺は平静ではいられなかった。朝の光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。退屈な校長の話はお経のようだ。幼なじみとは事故から何も話していない。彼女があの光景を見なくて済んだことだけが僥倖だ。
ずっとうなだれていると、終業式が終わった。後片付けの当番だった俺と幼なじみは、意識してかどうかわからないが、顔を合わせず椅子を片付けた。二列目の椅子を片付けようとした時、不思議な感覚が走った。
ずしり。肩と背中に妙な重さがかかる。顔に出さなかったが、今まで感じたことの無い感覚だ。まるで、何かが乗り移ったような……
服を貫通し、皮膚の上に生ぬるい水がまとわりつく感触が走る。それは一瞬ねっとりと体を覆ったかと思うと、すり抜けた。
そして、俺の意識にも不思議な感覚が訪れた。まるで夢の中のように、自分が自分を俯瞰している。そんな感覚。しばらくして、既視感を感じた。
椅子を一つ一つ片付けるその仕草、体育館の空気、盛夏の気温と湿度。自分はこれを知っている。何度も何度も経験した。
浮かない顔で椅子を片付ける自分を、それが自分の体であると感じながら、中空に浮いた別の目が見下ろしている。気持ちが悪い。謎の焦燥感が吹き上げる。ああ、気持ちが悪い。
遠くから視線を感じた。俺はその冷えた眼差しに怖気立つ。なぜならその視線は、椅子を片付ける自分でなく、それを中空から見ている俺のもう一つの目に向けられているからだ。
思わず斜め後ろを振り返った。黒い妙なものが俺を見ていた。それは小さく、ハイハイをする赤ん坊のような動きでもぞもぞと動いていた。
ふと視線の端に見える彼女の細腕が小刻みに震えている。俺は何も言わず目を閉じた。徐々に浮かんだ目はあるべき高さに高度を下げ、体に現実感が戻る。俺は嫌なものを振り払うように作業を進めた。
「何か帰りに食べていかない? 」
終業式の後片付けが終わると、突然彼女は切り出した。俺は承諾した。
帰り道にあるファミリーレストランに俺たちは入った。今月の小遣いは厳しいが、こんな時は仕方ない。幼なじみは何かに脅えた様子で、口数は少なかった。レストランに入り、奥まったボックス席に彼女を導く。
店員がオーダーを取りに来た。ドリンクバーを頼み、たわいも無い夏休みの予定の話をする。段々と笑顔が増えてきていた。俺たちはハンバーグセットとスープを頼んだ。
しばらくして、食事が運ばれてきた。肉の香ばしい香りとデミグラスソースの芳香が鼻をくすぐる。途端にお腹が空いてきた。箸が進む。
三分の二くらいを食べた頃だろうか、彼女が呟いた。
「さっきのなんだったんだろうね」
俺は箸を止める。あの時のざわめいた感覚が蘇った。思い出したくない視線。あれは、きっとこの世のものではない何かだ。
「……猫かな」
その発言に俺ははっとして幼なじみの顔を見た。彼女は不安げな瞳を何度か瞬きさせて、僕を見ていた。顔色が悪い。
「なんで猫だと思うの? 」
俺は尋ねた。
「クラスメートから聞いたんだ。あの……付いてきてた猫ちゃん……」
彼女は肩を震わせていた。目の前のグラスを見ながら、ふと俺の方に視線を上げてきた。
「そんなのあるわけない。というか、本当に視線を感じたのか? 」
そう訊くと彼女は頷いた。
「もう気にするのはやめよう。食事中にする話じゃないよ」
俺はあえて感情を殺した声でそう彼女に言った。
「だって! 」
そう言いながら、彼女は思い詰めた瞳で俺を見つめる。青ざめた怯えた顔が瞳に映った。
そしてその背後に、野生動物の夜目のような光点が見えた気がした。その視線が彼女を捉えるように動いたその瞬間、振り切るように立ち上がる。
「帰ろうか」
そう言って俺たちはレストランを切り上げた。
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