第6話 月夜の命令

 ニナが分けてくれたウサギの炙り肉を食い、骨の髄まですするとアスロは小屋の中で寝転がった。

 埃が舞い上がり、天井を見つめる視界に降り注ぐ。

 外は薄暗くなり、ニナはそれでも細々と用事があるらしい。

 作業音を外に聞きながらアスロは思考を巡らせた。

 

 今からニナを手土産に投降するのがせめて人民の義務だろうか。

 ボージャ隊長を殺害した以上、死刑は免れないとしても。

 それとも、ニナは逃がして一人で行くか。

 彼女は人民ではなく、革命の尊さも理解していない。

 それなら孤高の矜持につき合わせることもないだろう。

 考えは脳内をグルグルと巡回し、答えは出ない。


「アスロさん、白湯でもどうですか?」


 他の小屋に寝泊まりするニナがブリキのカップを片手にやってきた。

 

「貰う」


 ぶっきら棒な態度でカップを受け取ると、白湯に口をつける。

 空腹を紛らわすにはこれしかないのだ。

 

「ねえ、アスロさん。まだ後悔しているんですか?」


 ニナの声はころころと鈴が鳴るようにアスロの耳朶を打った。

 耳をふさげ。魔女の声だ。アスロは心の底で、毒づいた。

 崇高な革命に怪しげな奇術など必要ではない。何が聖女だ。

 しかし、思いとは裏腹にその手が耳をふさぐことはなかった。

 長く集団生活を送った少年は人との触れ合いに飢えていたのだ。

 

「あなたはあの場でためらいもなく大勢殺したじゃありませんか。いっそのこと一思いに自らの命を絶てばよいのです。命を消すのは得意なのでしょう」


 ニナはさらりと苛烈なことを言った。

 この集落に逃げ込んで以来、時間はたっぷりあったものの、核心に迫る会話はアスロの方から避けていた。だから、彼女の年齢も育ちも、なにも知らない。

 雪のように白い肌と、鼈甲の様に艶のある髪。ボージャが悪くないと評したのできっと美人なのだろう。

 しかし、物心ついた時から軍にいたアスロは、ゆっくり女性と話したことがなく、何を話したらいいのかさっぱりわからなかったのだ。


「お……俺はまだ死にたくない」


 情けない答えを返し、アスロは頭を掻いた。

 逆の手はそっと拳銃の銃把に伸びる。

 ボージャを殺し、一目散に逃げだしたとき身につけていた唯一の武器だ。

 常に武器を持って生活してきたアスロの心は、その手触りでわずかに慰められた。

 と、腰を落としニナが距離を詰めてきた。

 身を強張らせるアスロに顔を近づけ、その手が拳銃を握るアスロの手を触った。

 作業で荒れた掌と、甘い体臭にアスロは全身の毛を逆立てる。


「私は、あの場で死んでもよかったのですよ。今だって、ほら」


 アスロの手を引っ張り自分の胸に押し当てた。

 手のひらと乳房の間を黒い鉄の塊が隔てている。


「やめろ、弾丸が入っているんだ」


 アスロは喘ぐように言って首を振った。

 拳銃に安全装置などついてはいない。引き金は重く作られているが、だからといって戯れにやっていいことではない。

 

「私を撃ちなさい。そうすればあなたは飢えて死ぬか、軍に出頭して死ぬか、それとも残弾で自らの頭を撃ち抜くか。いずれにせよ方針は定まり迷いは消えるでしょう」


 明り取りの窓から月明かりが差し込み、ニナの横顔を照らす。

 本当にこの娘が『聖女』なのだろうか。

 アスロは戸惑い、胸に向けた拳銃もどうしていいのかわからなかった。

 自らの上にまたがるこの女はボージャが言ったとおり魔女ではないのか。

 しかし、アスロの鋭敏な感覚はニナの指先のかすかな震えを察知してしまった。


「君も怖いの?」


 ニナははっとした表情でわずかに視線が逸れる。

 

「あ……当たり前でしょう」


 アスロはこの数日で初めてニナの顔を見た気がした。

 魔女のように自分を圧倒したこの少女も、やはり死を恐れていたのだ。

 

「でも覚悟は決まってるの。もうずっと前からね。馬鹿どもにいいようにされて、最後に殺されるくらいなら一思いにね。司祭様だって、私のためを思って撃ったでしょう。それをアンタは邪魔したんだから、代わりに私を撃ちなさいよ」


 馬鹿丁寧な物言いがどこかへ消え、ニナの目つきは鋭くなった。

 いつの間にか拳銃を持つアスロの手も震えていた。

 自分も、この少女も死を恐れながら、それと対峙しているのだ。

 と、アスロの聴覚が犬の唸り声を拾った。

 遠く、微かでも間違えようがない。

 同時に、無数の人間が立てる隠しようのない気配にも気づき、アスロは正気を取り戻した気がした。

 アスロは銃口を天井に向けるとニナを突き飛ばす。


「痛ッ、なによ急に!」


 床で腰を痛打したニナが上げる抗議を無視して、アスロは立ち上がった。

 全身が冷静と興奮に塗り固められ、空腹も遠のいていく。

 

「たぶん、追っ手だ。戦ってくるから、ちょっと待ってて」


「はぁ? アンタが負けたらどうすんのよ」


 不満そうに言うニナに、アスロは精いっぱいの朗らかさで笑い返した。


「その辺の棒きれを銃みたいに構えて飛び出せばいいよ。すぐ殺してもらえると思うから」


 しかし、ニナは唇を尖らせてそっぽを向く。


「私はアンタに殺される覚悟をようやく決めたの。顔も知らない兵士たちに殺させないでよ」


 なんとなく、この少女が普通の同世代に思え、アスロは声を出して笑っていた。

 『聖女』でも『魔女』でもない。普通の人間じゃないか。

 

「できるだけ帰ってくるから」


「絶対に帰ってきなさい」


 心の底から忠誠をささげ、長年尽くした上官からはついに一度も聞くことができなかった命令に、アスロは苦笑で返すのが精いっぱいだった。

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