それで、絶縁したんだ。

 闇が人を隠すというのは本当だった。少なくとも自分は隠された。

 手すりから体を乗り出すなどしてどうにか自分のやらなければならないことをこなしたのち、自分は思い知らされた。ここにトイレットペーパーや水はない。自分を衛生的にしておく方法などないのだ。

(どうやって他の人は綺麗にしているんだ?)

 しかし悪臭で知る。綺麗にしていないのだ。


 どうにか寝心地の良い体勢を探る。しかしどんなふうに寝ても、残酷なイメージを頭の中から追い出せない。体は緊張している。

 二つの考えが頭の中でぶらさがっている。

(彼をどう殺す? いつ殺す?)

 骨でできた例の桐で、彼の両目を突き刺すことを想像してみる。それとも彼の首を刺すか? 頭の中でシミュレーションをしてみるが、最後は自分が躊躇してしまい、彼に桐をひったくられて自分が逆に殺されて終わる。

「ねえ」と彼の声。「起きてる?」

「う、うん」、自分は凍りつく。「寝ないの?」

「寝れなかった」

「どうして?」

「わからない。僕はいつでもどこでも寝れるはずなんだけどね。今は無理なんだ」

「自分があなたを殺すかもしれないから?」

 彼の笑い声が聞こえる。「かもね」

「それであなたは殺すんだね。殺される前に」と自分は言う。

「いや、しないさ」

「じゃあ食料が尽きた時」

「しない」

「よくわからない」

 彼はまた笑う。「わからなくていいよ」

 でも、自分を殺そうと彼が企んでいたほうが余程ありがたかった。

「下で事が起きてからしばらく経ったなあ」

「何が起きたの?」

 彼のため息。「人を殺したんだ」

「でもそれは慣れているんでしょう?」

「慣れていた、かな」

「じゃあ何が問題なの?」

「自分にとって大事な人を殺したんだ。狩りに出ていたんだ。夜だった。今と同じ」

 あたりを見回す。自分の手すらまともに見えない。

「あれは僕たちの初めての夜狩だった。きっと全てうまくいくと思っていた。みんなそう思っていた。僕たちは、僕らの代のエースだったんだ。生まれた時から一緒の、最高のパートナーだった。獲物が僕たちのことを聞こえたときには、もう逃げられない。僕らは速かった。けれどそれが問題だった」

 彼は続ける。

「夜はこんなに暗い。自分も隠れられるけれど、自分だけじゃない。全ての人を隠すんだ。だから獲物に辿り着いたとき、ちょろい狩りだと思った。けれど、僕たちは知らない間に何者かの前を通り過ぎていたんだ。攻撃されるまで気づけなかった」



 うしろで気配を感じ取るや否や、彼は頭をぐいとどかした。何かがすれすれで耳を掠めた。代わりに、目の近くの皮がえぐられた。少年は痛みと驚きで叫んだ。

「なんだ――?」と彼の相方が言った。

 少年は、その相方が息を呑んだのが聞こえた。そして何度かの咳。

 相方と年かさの男がもみ合いになるのが聞こえる。空気が武器によって切られる音。鎖が嬉しそうに鳴る音。少年は助太刀の機会をうかがったが、味方に攻撃してしまう危険が大きかった。

 そして何より、

(怖い)

 相方が絶叫するのが聞こえた。すると少年は頭を打たれて体勢を崩した。

 鎖・頭蓋骨・遺体の音が彼を横切っていった。

(ヤツが逃げていく)

 しかし少年には彼を追えなかった。

(追跡の前に、傷の手当てを……)

 闇の中で、相方に駆け寄った。

「大丈夫か」と彼は聞いた。「無事か?」

 短い呼吸と泣き声が聞こえる。

「し、しっかりしろ」

 少年は相方を手で探った。髪・眉・目・鼻・口・顎、そして喉。(――まずい)

 何かが喉から飛び出している。武器のような何かだ。少年がそれに触れたとき――指先がさっと当たったとき――相方は鋭く叫んだ。

(これではもたない)

 事実、もたなかった。

 数分後、彼は死んだ。

 少年は彼の手を握って、頬に口づけして、身体を抱きしめて泣いた。

 少年はずっと言っていた。

「ごめん」



「それで、《彼等たち》とは絶縁したんだ」と元・少年は言う。

「どうして?」

「そうしないと、これをずっと忘れないで生きていかなければならなかったから」

 そこで彼は沈黙する。いや、沈黙じゃない。泣いているのだ。

「大丈夫?」

 すすり泣きの音。しばらくすると、ため息が聞こえた。

「ごめん」、と彼は言う。「誰かに話すのはこれが初めてでね」

「まったく初めて?」

 うん、と彼は言う。「もし誰かが狩りで死んだら、パートナーが下に連れて行く。それが掟だった。そしてその遺体を自分の首輪に取り付けて、一生そのままさ。僕たちなりの、死者への弔い。でも、僕はそれが嫌だった。僕は彼を忘れたかった。過ちを全部忘れたかった。何もかも忘れたかった」

 自分は小さく「うん」とだけ言う。

「さいわい、狩りの仕方は心得ていた。自分ひとりでも生きていけた。だから僕はそうすることにした。彼のことは、一欠片たりとも食べなかった。彼を下に落として、僕は塔を登ることにした」

「落とした? 彼を? 欄干から?」

「うん」

 遺体が塔の下に落ちていくところを想像してみる。塔の底で、様々な排泄物とともに遺骸が積み上がっているのだろうか。

 彼ははあ、と息を吐く。

「すこしすっきりした。そう思ってはいけないのはわかっているけれど」

「ううん」と首を振る。しかしこの闇の中では彼には見えない。慰めに鎖が鳴る。どちらかといえば、自分のためにしたようなものだ。「まったく問題ないと思う」

「ありがとう」と彼は言う。

 彼が笑う様子が、頭に浮かぶ。

 ああ、と彼が言う。「永遠に眠れたらいいのにね」

 数分後、インチキ哲学者はすでに深い眠りの中にいた。


 もうすでにこの塔全体が眠っているようだ。

 圧倒的な闇の中で、自分は独りぼっちだった。

「名前なんて意味がないし、有害だから」

 彼は前にそう言った。その意味がよくわかった。

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