つまりここでは、二つの方法しかない
我々は階段を順調に登っていく。彼が前だ。
自分は、自分の首から垂れる鎖を握りながら登る。これは体で覚えたことだ。最初、手ぶらで階段に足をかけたが、喉を絞められた――鎖につながれていたモノたちが、その存在を自分に再確認させた。ぐえ、と情けない声が出てしまい、インチキ哲学者はそれで笑い転げた。彼は、何か荷物でも引きずるように鎖を握って登っていたのだ。自分はそれに倣うことにした。
さて、我々はハイペースで塔を登っていく。じきに上からも下からも音がしなくなった。登っている間中、自分はインチキ哲学者の引きずる二つの遺体と顔を合わせることになった。彼が一歩登るたびに遺骸は段鼻にぶつかり、両手でセメントの壁を殴る音がする。
ねえ、と自分は言った。「あなたの名前は? そもそも名前はあるの?」
「もちろん」と彼は言った。
「なに?」
「本当に教えてほしい?」と彼は振り返る。
「別に強制するわけじゃないけど」
「ならいいや。その代わり、君も名前は教えないでね」
「どうして?」
「名前なんて意味がないし、有害だから」
いたずらっ子が母親から何かを隠すように、彼は笑っていた。
我々は登り続ける。何も語らない。我々の鎖と、頭蓋骨と遺体を除いて。
「どうして逃げているんだっけ?」と切り出してみる。
彼は数分間答えない。
「――僕は《彼等たち》を裏切ったんだ」と彼はやっと言う。「だからだよ」
「その……《カレラタチ》というのは?」
「《彼等たち》。グループだよ。僕たち――いや、彼等はお互いを助け合う。そしてその他の者は殺す」
彼によれば、この塔にはいくつかのコミュニティが存在している。この環境下なら、彼らがどのように付き合うのか(もしくは突き合うのか)だいたい想像がつく。
「他のグループも同じようなものだよ」と彼は肩をすくめる。「ただ、彼等のやり方のほうがもっと……ひどいんだ。彼等は上に使者を送ってくる」
「使者?」
「まあ狩人さ。人探し」
「人殺しでしょ」、と彼を糺す。
彼はまた肩をすくめる。「生き残るためさ」
なんとなく腰のあたりを掻くと、自分の着ているボロ布の中になにか鋭利な物を感じる。
「つまり君は彼等の一員だったわけだ」
「そうだね」
「そして裏切った」
「うん。そして裏切りが意味することはひとつ」
「それは?」
彼は、彼のひきずる二つの遺体と五つの髑髏を親指で示す。
「あまり良い人たちではなさそうだね」と言ってみる。
「僕たちは――いや彼等は、身内には優しい」
「で、君は人を殺してきたわけだ」
「殺し、解体し、食べていた」、彼は平然と言う。「でも、そうしない人はいない」
ここにいる、と言いそうになる。
けれど握っている鎖が手の中で揺れる――何者かの遺骸と、ふたつの頭蓋骨。
身震いする。これは自分の仕業なのか?
「それでどうして《彼等たち》から逃げたの?」
「忘れたいことがあったから」
「どういうこと?」
それは——、と彼が言いかける。「待って」
彼は欄干に寄って上を見る。
「雨だ」と満面の笑みで言う。「水」
見上げてみると、頂点のかすかな光が弱まっている。そして一・十・百・千の水滴が落ちてくる。
雨だ。
彼は鎖をおろして手すりの外に手を差し伸べる。彼の手の中に雨水が注がれていく。自分も彼を真似してみる。気づかなかったが、経験したことがないくらいに喉が渇いていた。手の中の液体を一度、二度、何度も飲み込む。
そして妙な音がする――膜に覆われたような、がやがやとした音。
「この塔の人達の音だよ。みんな喜んでるんだ」とインチキ哲学者が言う。
彼はにっこりと笑っている。彼も例外ではないわけだ。
そうして彼が雨水を飲んでいる間に、服の中に見つけたものを確かめる。それは太い紐で布につながれている。形状は桐に似ている。長さは自分の手首から中指の端ほどだ。骨でできていて、先端には血糊がついている。
(つまりここでは、二つの方法でしか水分補給ができない)
食人か、降水か。
そして後者は、稀な贈り物らしい。
(だからいつか彼を殺さなければいけないのだ)
(いつか殺さなければいけないのだ)
(いつかは)
「大丈夫?」と彼が訊く。髪はぐっしょりと濡れている。
「うん。この水が飲める水なのかが気になって」
雨は降り続ける。まるで空が泣いているかのように。
彼は微笑む。
「大丈夫。僕はこれでずっと生きてきたから」
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