開拓

第10話 再会 前編

 ずっと、死なない人だと思っていた。

 君も、人間だった。

 正直に言えば、憧れていた。

 チトフは自分が死んだように思った。カンドゥクに貰った沢山の食べ物、知識、精神、集落の秩序。


 取り返しのつかないことをしてしまった。勝利したチトフは必死に正当化して、現実を見ては恐ろしくなって、おろおろと集落を出て彷徨った。

 そんなチトフに目もくれず、議論は紛糾した。チトフはそれには関わろうとはしなかった。そして己の信頼感の乏しさを痛切に実感した。チトフは「自分は変わった」と思っていた。けれども過去のチトフ像は強固だった。「たまたま・・・・、カンドゥクに勝ってしまった」チトフを長として認める者は皆無だった。以前巡った邑ではチトフは常に賓客だった。先入観などなかったのだ。


 旅人のほうがよかったかもしれない。チトフはここ数年の行程を追想することが多くなった。そして自分は人の上に立つような性質ではないことも痛感した。

 そんなチトフに一つ、幸いなことがあった。

「君はどうする?」

 トキアミとの距離が却って果てしなく遠くなった。どれほど僕を恨んでいるだろう。

「行くわ」

 トキアミはそしてまた花を摘んだ。カンドゥクの墓に供える。

 トキアミと二人だけでどこかへ移り住みたかった。指導者の地位など投げ捨てて。でもそんな無責任なことはできない。何よりトキアミが許さないだろう。

 カンドゥクみたいな、圧倒的な声量、見上げるような威風堂々とした体躯、適切な判断力を僕は持たない。

 火が消えた。火守かがみの過失ではない。雨と風だ。出発の日になって嵐になった。春雷と雹が降り注いだ。明くる日になっても、また日をまたいでも、嵐は吹き荒れた。

「カンドゥクが行くなと言っている」

「死すべきはチトフだった」

「祟りじゃ。カンドゥクが泣いている」

 一向に収まらない嵐に耐えかねチトフは空を睨み扼腕し、そして出発を決意した。制止する者もあったがチトフは頑として聞かなかった。参加者は若者ばかり、集落の半分にも満たなかった。


 凄惨な旅だった。地面はぬかるみ足は重く、獣に怯えながらの行程が続いた。夜は寝床に苦労した。トキアミは様々に心配りをして皆を支えてくれた。初夏に入り凍える心配をしなくて済むのは幸運だった。更に集落を離れれば離れるほど食べられる植物が見つかった。チトフは弓で次々と獲物を仕留めた。


 その日、不思議なものを見た。狐が岩を舐めているのだ。チトフは矢を放つのも忘れてそれに見入った。結局、狐には逃げられてしまったがチトフはそこに行って、膝をつき同じように岩を舐めてみた。

「塩だ!」

 見回すとそこは岩塩の宝庫だった。皆に舐めさせる。一行の体に力が漲った。

 岩塩からあまり離れない所を住処としたい。――チトフは塩の邑で見た地図を思い起こし、進路を修正する。じきに嵐も収まった。

「到着だ……」

 大量の水が流れていた。歓声を上げ飛び込む。

 どうしてもチトフは川の側に住みたかったのだ。川は交通手段になり、食料も得られ、農耕に必要な水を確保できる。


 その日から開拓は始まった。動物の骨を加工し釣り針を作って魚を釣った。川魚を焼き、塩を振るとえも言われぬ旨さだった。粘土を固め干して煉瓦を作り、家を建てた。仕上げに火山灰を水に溶いて煉瓦に振りかけ漆喰とした。これは塩の邑で学んだものだ。

 動物の腱を利用し弓を張り、狩りに役立てた。付近を探索すると鉱石が見つかったので窯を造り、金属器の量産体制に入った。続いて野生馬が見つかると飼い慣らし、牧草地を作って繁殖させた。

 年月は飛ぶように過ぎた。誰もが脇目も振らず働いた。栄養事情が改善し、子供が産まれた。もう誰もチトフに文句を言う者はいなかった。時はトキアミとの間にたゆたうわだかまりを氷解させた。笑顔を見せるようになったトキアミが視界に入る度、自然と気持ちが昂ぶり拳を熱く握りしめた。トキアミはチトフの手助けを積極的にしてくれるようになった。

「カンドゥクを殺してまで、移住したかったんだね」

 どきりとした。振り向けなかった。微塵も動けなかった。

「それとも私のこと、そこまでして手に入れたかったの?」

 煉瓦の家は人々に閉鎖された空間プライバシーを与えた。今なら、他人に話を聞かれることもない。

「君は怒っている」

「そんなことない」

「僕を許してくれるのかい?」

「あなたは勝ったのよ。なのにまるであなたも死んだみたいじゃない」

 自分が許せなかった。

 久しぶりにトキアミに出会ったとき、正直に言えば愕然としたのだ。面影こそあれ、かつての美貌は見る影もなかった。そして。

 神娘ロデアに、より惹かれていたのが偽らざる気持ちだった。しかしロデアは集落の者の手にかかり薨ぜられた。

 今日のトキアミは多様な食物を摂り、肌艶が良くなり日を増す毎に魅力を増していた。だけど僕のどこに君を手に入れる資格があるだろう。


 チトフはカンドゥクの慰霊碑を建造するべきだと考えた。

 せめてもの罪滅ぼしに。未来永劫子孫が安逸に暮らせるように。煉瓦で作ると耐久性が問題だった。金属で作るには鉱石の量が心許ない。そこで石に注目した。比較的柔らかく、くさびを打ち込み鑿で穴を開けていくと四角形の塊が取り出せた。石塊を総出で運び出し、並べ積み上げ組んでいく。

 その年から、地震が頻発した。チトフは慰霊碑を度々見上げた。見る度に状態は悪化していた。じきにひびが入り、無惨に崩れ、瓦解した。途方に暮れ、見上げる。

 こんなものでは僕の罪は贖えない、ということか。

 やはりカンドゥクの亡骸を安置する墓を作らなければならない。しかしそのためには彼の墓を暴かなければならない。集落に帰るのも抵抗があった。代々受け継いだ土地を棄て逃げ出した者が、今は悠々と生活を送っているのだ。口には出さなかったが誰しも、少なからず負い目があった。そうして遅疑逡巡しているうちに、また雪の季節を迎えてしまうのだった。

 少しずつ開拓地が邑の体を成すと、北から異民族の者が様子を見に来るようになった。その身なりと体格からチトフはすぐに畜産の邑の者だと察しが付いた。

「やあ、こんにちは」

「お前……チトフか?」

「そうだ。……ヘレイは元気か?」

「チトフが帰ってくればいくらでも元気になるだろうな」

「それはできない。ところで塩は要らないか? 交易をしよう」


 羊毛よりも先に開拓地に到達したものがあった。ちょうど、チトフが新しい大型動物を捕まえ、牧草地に戻った時のことだ。

「チトフ!」

 もう逃げる気はない。為すがままに抱きつかれた。しかしその痩せた体に手を触れることは禁忌だと思われ、泥人形のように立ち尽くしていた。

「もう離さないわ。絶対に離さない」ヘレイの爪が首に痛いほど食い込む。「よかった。……本当によかった。あなたは幻でもない。夢でもない。精霊でもない。正真正銘の、私と同じ、人間なんだわ」

 背後に気配を感じた。振り返らずとも誰か判った。

 来るべき時が来たのだ。

 そして真剣な目になった。そんな目で見つめられるだけでもう、ヘレイは夢見心地になってしまうのだった。チトフは両の手をヘレイの肩に置いた。

「僕にはね、好きな人がいる」

 (そしてそれは私ではない)と、ヘレイは心の中で付け加えた。

「確かにきれいな人ね」

 ヘレイはチトフの表情を伺った。チトフは目を逸らす。

 ヘレイの手から力が抜ける。そして、ヘレイは歩を進めてチトフの視界から消えた。

「あなたの名前は?」

 ヘレイの質問の後、沈黙が訪れた。

「なぜ答えないの?」

 ヘレイは語気を強めた。

「なぜ!?」

 ヘレイはトキアミに掴みかかった。

「やめてくれ」

 そう言っておいて、チトフは振り返らなかった。

「ヘレイの、君達の使っている言葉は通じないんだ……」

 ヘレイは少し、チトフの言ったことを理解するのに時間を要した。

「じゃあさ」ヘレイはチトフの背中に呟く。「チトフが教えてよ」

 風が吹き抜けた。もうすぐ冬が来る。

「それは……できない」

「どうして?」

「ねえさっきから何を話しているの?」

 トキアミの声は涼やかで良く透った。

 ヘレイはトキアミを指差して言った。

「トキ、アミ」

 トキアミは目を丸くした。チトフはやっと振り返った。

「やっぱり、そうなんだ? この人でしょ? チトフが好きなのは……」

 ああ。チトフは振り返ってしまったことを悔いた。トキアミという名前をまだヘレイが憶えていたことに驚き呆然と立ち尽くしていた。

「それに」

 ヘレイは身を翻し、チトフの体に身を寄せて。

「私は構わないわ。チトフがこの女をどんなに愛していても。私もここに住む。そして……私にも愛情をほんの少し、分けてね」

 トキアミは無表情に、無感情に二人を見守っていた。少なくとも、チトフはそう解釈した。

「雄は……男の人は、たくさん恋をしていいのよ?」


 チトフはヘレイを連れて自分の家に入った。

「今日はここで休んでくれ。水や食ベ物もある」

 チトフはそして背中を向けた。ヘレイが体を預けた。

「出て行っちゃ嫌」

 ヘレイの手は、心をぎゅっと掴む。

「五年よ。五年待ったの。待ち侘びていたの。今日を」そして引っ張るようにして向き合う。少女だったヘレイは成長し大人っぽくなっていた。しかし頬はこけ、体も女性特有の柔らかさを感じられない。「今日だけは私だけのあなたでいて」

 恋とは罪かもしれない。

 しかし僕は抗えなかった。ヘレイの言葉はチトフの胸をぐさぐさと幾度も貫く。痛みに叫び出したくなる。

 チトフは集落の人々にのけ者にされていた。心の痛みを知っていた。

 チトフはヘレイを抱きしめた。

 その時、ふっとチトフの胸に湧いてきた気持ちがあった。チトフは突然走り出した。余りにも突然だったのでヘレイは反応できなかった。

 外に出て、トキアミの住処に飛び込んだ。

 トキアミは振り向かなかった。寝床に打ち伏していた。

「今こんなことを言っても信じてもらえるか解らないけど」

 チトフはトキアミにそのとき初めて抱きつき、体を起こした。

 トキアミの泣き腫らした顔がそっぽを向く。

「僕は今でもカンドゥクと闘っている。絶対に勝ってみせる。君が欲しかったからだよ。君を愛しているという気持ちだけは解って欲しい。やっぱり、君なんだ。それが今、解ったんだ」

 口だけなら何とでも言える。信じてくれなくてもいい。

 証明してみせるから。

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