第6話 弓の邑

 東の空が一条の光を放つ。

 踏みしめる地面さえ確認できればそれで十分だった。暁闇に乗じて邑を出る。

 帰路に冶金の邑や牧畜の邑を選ぶことはできなかった。地図によると南西にも邑があるようなので、そこを目的地に定めた。町に向かうときは川があったので迷いようがなかった。無事に着くか不安を感じながら歩き続ける。


 森がチトフを待ち構えていた。それもかなり木と木の間隔が狭く鬱蒼としている。しかしここを迂回するともうどこに着くか判ったものではない。チトフははらを決め足を踏み入れた。地面は悪戯に尖っており、足がちくちくと痛んだ。

 何時何に襲われてもおかしくなかった。神経を尖らせ、そして進路を一定に保ち進む。昼のはずなのに夕暮れかと錯覚する。

 縦横に獣道が森を横切っている。ああ、やはりここにも野獣の類はいるのだろう。だけど、この森の向こうにトキアミがいる、そう思うと足が自然と前に運ぶ。

 冶金の邑の白髪男は野獣が棲むような所に出ると、激しい音をわざと出して動物に人間の到来を知らせていた。しかし動物が人間を食料と認識している場合は有効ではない。ただ、偶然の遭遇は避けられるようだ。チトフは大声を張り上げながら進んだ。イイムが渡してくれた包みを開けると白胡麻が沢山詰まっていた。チトフにとって初めて見る食べ物だったが躊躇せず口に含む。なんと刺激的な味だろうか。森の中は果物も豊富に見つかった。どこかうろが見つかったら、そこで眠ろう。

 !? 痛みを感じて立ち止まる。

 足首に傷ができていた。そこが焼けるようにズキズキと痛む。

 毒か。

 じきに痺れも襲ってきた。足が膨れる。しばらく留まるしかなかった。

 足下を這うものは他にもいた。見慣れない虫がそちこちを這い回っていた。どれが毒虫か知れたものではない。むなしく斧を振り回す。

 痺れが癒えると、足を引き摺るようにして旅路を急ぐ。

 間もなく見つけた湧き水を浴びるように飲み、傷を洗うと幾らか足もましになった。チトフは一睡を取ると歩き続けた。トウヒが密集して生えており森は暗くなり、足下は腐葉土に満ち足が沈み込む。


 振り返った。

 闇が揺らめいている。

 闇が立ち上がった。

 熊だ。

 今は自分の力だけが頼りで。チトフは大きく息を吸い込んだ。

 戦闘開始。

 真正面から殴り合いで勝てる相手ではない。木の陰に隠れる。しかし熊の機動力も侮れなかった。大きな体を器用に御しチトフを追い詰める。

 参ったな。何一つ有利なところがない。加えて手にしているのは決して戦闘向きとは言えない斧だった。邑では柔らかい金属しか扱えず武器を新調できなかった。今、恃みとするのは密に生えている木々だけだ。

 頻繁に大声を出してここまで来た。それでも僕に姿を見せたと言うことは、お腹が空いているんだね。僕を食料としたい、というわけだ。

 後退。隙を見つけては背後の具合を確認し、ひたすら逃げた。策はなかった。あの爪を耐えられる自信も、避ける自信もない。熊が疲弊するか木の間にでも挟まるか……奇蹟でも待つとしようか。

 お腹が空いてるのは僕も同じだ。知ってるかい? 君の肉は本当に美味しいんだよ。……僕の肉は君のお気に召すだろうか。

 踵に草の絡みつく感触があった。

 君と僕、生き残った方がお腹を満たす。尤も、僕の体じゃ満腹にはしてあげられないかもしれないけど。

 体勢が崩れる。

 僕には会いたい、会わなきゃいけない人がいるんだ。……君も、恋をするのかな。

 熊が迫る。チトフは大きく息を吸い込み、重心を後ろの右足に傾けた。

 だからね。

「ごめんなさい!」

 だから。

 熊の振り下ろす腕に、チトフの振りかぶった斧が直撃した。熊の右前足が跳ね上がる。しかしもう一方の腕が唸り、チトフの左肩を抉った。両の傷から血が噴き出す。

 父が言っていたよ。生き物を食べればその血肉は則ち食べた者の血肉になる、とね。

 ここで逃げたら負けだ。チトフは痛みも忘れ斧を振り上げた。

 君は生きるんだ。生き続けるんだ。

 怯んだのは熊の方だった。チトフの様子を見て、逃走するか思案している様子だった。

 畜産の邑で、僕は沢山の生き物の営みに接した。君にも親がいたのだろう。愛情を享けて育ったのだろう。

 隙が生まれた。チトフは伸び上がり、その頸に斧を振り下ろした。

 強い者が、勝って、生き残る。実に単純な理だ。僕が生き残るにふさわしいかどうか判らないけど。 

 手にずしりと手応えが残った。夥しい血が止めどなく迸り、熊は咆哮した。

 ごめんなさい。

 チトフは飛び上がって、頭部にもう一撃を加えた。腹部に。後ろ脚に。胸部に。チトフは真っ赤に染まり狂ったように斧を振るい続けた。

 死んだ、のか?

 熊はぴくりとも動かなくなった。信じられなかった。熊は神に並び称せられ、崇められる。

 今襲われたら子狼にすら喰われてしまう。だがそれも獣神の思し召しなら仕方ない。木にもたれかかる。傷の痛みもすべて忘れ、わずかな達成感を枕にチトフは眠りに就いた。


 

 冷たい。

 左肩がひりひり痛んだ。雨が降っている。

 起き上がり、熊に齧り付いた。冬を目の前に必死だったのだろう。秋の熊にしては脂が少ない。そして、かなり小柄な熊であることに気づいた。

 チトフは叫び続けた。野獣たちの腹具合を祈りながら。迷いが晴れ、その声は思いの外、清聴で張りがあった。その声を畏怖したのか、活きが良く手強いと考えたのか。何日か、チトフを襲うものは現れなかった。しかしチトフの声は嗄れた。幸いにも間もなく暗い森は終わり、眼前になだらかな丘陵が横たわっていた。

 乾いた音が響く。振り返ると楢の木に小さな槍が突き刺さっていた。

 投槍器アトラトルか。どこから投げてきたものか姿が見えなかった。そしてまた飛来してくる。チトフは岩に隠れ叫んだ。

「待ってくれ! 敵意はない!」

「出て行け。此は神聖なる土地ぞ」

 訛りがひどいが理解できないほどではない。

「塩を持ってきた。君等に進呈しよう」

「ならお前を殺せば手に入るということだな」

「私は技術者だ。きっと君等の生活を改善するだろう」

「……そこで待っていろ」

 失敗したかもしれない。チトフは歯ぎしりした。寄り道などせずに真っ直ぐ帰るべきだったか。仲間を呼ばれ、一斉に攻撃されでもしたら。

 逃げてしまおうかとも思う。でも、未知の邑に興味があった。なるべく多くのものを吸収して集落に持ち帰りたかった。

「武器をその場に捨てろ。そうしてここまで来い」

 裸の男達に囲まれ、チトフは連行された。男達は変わったものを持っていた。細い棒と縄と槍が合体している。槍はそれぞれチトフに向けられていた。 

 見上げると、丘にへばりつくように家並みが見えた。

 

 邑君邑の代表を始め、邑の男達は皆筋骨隆々としていた。

「我々は世界の覇者になると運命づけられている。我々は戦争を始めようとしている。遠距離戦では優位に立つが近距離でも優位に立ちたい。其方が技術者と言うなら、何か策はないか」

「武器を見せて下さい」

 様々な武器が持ち寄られチトフを取り囲んだ。ざっと見回す。石器が雁首を揃える中、一際異彩を放つ禍々しい槍が目を惹いた。漆黒の金属でできており先端にピッケルと突起がついている。

「これは……」

「お目が高い。『慚愧せし嘴』と言う祭器だ。南から来たと言う連中から奪った」

 チトフは答えた。

「私には金属の武器を造る技術があります」

 目を輝かせる男達を見て、やはり武具は好まれるのだな。と、チトフは少し複雑だった。

 明日にでも戦争を始めたいらしい。急かされるようにしてチトフは鉱石を採掘し、炒炭を作った。平地に露出していた金属は冶金の邑で扱ったものに似ていた。様々な石を試し、どうにか金属が熔けるまで耐えうる坩堝が完成した。


 この邑の主食はトナカイだった。近隣にトナカイが『無尽蔵に湧く』森があるらしい。邑の周辺に生える植物も豊富で、果物、茸、山菜が目も眩むばかりに食卓に並んだ。また女達も活発で、狩りに出てはリス、ミンク、テン、クズリ等の毛皮と様々な珍味を獲て戻ってきた。

 邑の奥には誰も足を踏み入れなかった。人に訊いても「聖域だ。決して入ってはならぬ」としか教えてくれなかった。チトフは生まれた集落の洞窟を思い出した。あそこも長老の眷属以外は禁じられた場所だった。

 剣や槍を造ってみせると、チトフの待遇は劇的に変わった。

「たんと食え。食わねば力が出ん」

 この邑の人々は血の気が多く感情的で喧嘩が絶えなかった。よく歌い、よく踊った。トナカイの腱を張った楽器やトナカイの角笛が音楽を奏でた。基本的に裸で過ごしていたが、季節が冬に向かうとようやく毛皮や草の服を着る人が現れた。邑の外見は粗野ではあったが、居心地は悪くなかった。そしてどうしたことかチトフへの厚遇は日々度を増していった。豪華な家を与えられ、飽食に加え身の回りのこまごまとした家事一般も瞬く間に片付けられ、夜には女達が代わる代わるチトフの部屋に忍び入った。

 他の邑との交流はないようで孤立していたが、豊富な資源を背景に生活は豊かだった。


 その日、外に出るとザクザクと足下から音が鳴った。初霜だ。

「ロデア様のお出ましぞ! 崇めよ! 称えよ!」

 振り返ると、全身に様々な色彩の毛皮を纏った者が静々しずしずと緩歩していた。

 仮面に手を掛けると口が覗いた。

 女声が溢れ出、チトフを絶え間なく満たして、溢れ、弾けた。奇異な風采もあったのだろうが、この世の人とは思えなかった。この邑の男女が歌うものとは異なり、旋律があった。ただ口を開くだけで歌声は零れ天上天下この世の果てまで届くように思われた。

 人間が歌を生んだのか。

 神が歌を与え給うたのか。

 歌うために人間が生まれてきたのか。

 歌が人間を創り出したのか。

 すべてが出会うべくして宿命づけられていたのか。

 解らなくなった。

 チトフは、この歌に出会うために今日まで生きてきたと悟り、拝跪して空に感謝した。


 男達はチトフに告げた。

「ロデア様のたまはく『其方に我らが秘技を教えても構わぬ』と」

「他言無用にお願いしますぞ」

「参ろうか」

 森の木々は少しずつ葉を落とし、冬の眠りに就こうとしていた。今は常緑樹のみ葉を残す寂しい森の風景だった。どこにも動物の姿はない。と、男達が奇妙な声を出し始めた。

「雌鹿の鳴き真似をしている」

「うん、解ったよ」

「これはトリカブトだ」

 男は槍を取り出した。槍の穂先に何か液体を塗っている。そして縄に引っ掛ける。縄は軋んで、良く伸びた。手を離すと槍が手から飛び出していった。「キューン」と何か生き物の声が響く。

「今のはなんだ?」

「これは弓という武器だ。弦に矢を番え引いて手を離すと矢が飛んでいく。チトフ殿には弓を改良してもらいたい」

 行ってみると矢と呼ばれる小さな槍はトナカイを見事に射貫いていた。恐るべき魔術だった。

「自信があれば鹿の頭部を狙う。無理なら胸の上の方を狙うといい。息が出来ずやがて倒れる。また、矢には誰の放ったものか判るように印をつけておく。そうして誰の獲物か争いが起こらぬようにする」

 この邑を非文明的だと考えていたチトフも考えを改めた。こと、武具に関しては様々な創意工夫が見られた。


 弓と矢を一揃い貰い受けると、チトフは構造を調べていった。調べても調べてもなぜ矢が飛んでいくのか解らなかった。試しに弓を金属で造ってみたが、重くなるばかりでよく飛ぶようにはならなかった。仕方ないので矢に目を向けた。鏃を金属にすると、飛距離は低下したが威力は上がった。

「素晴らしい! これで人も一撃で殺せるだろう」


 ロデアは占いでこの邑の全てを定めた。冬にしか人前に現れず、それも必ず毛皮で全身を覆っているという。主に天幕の中で過ごし、女の世話人だけが接することができる。

 戦争の準備が始まった。男達は右手に各々の武器を持ち、左手に盾と呼ばれる防具を構えて訓練を始めた。

「これも金属にできないだろうか」

「容易にできるだろう」

 木製の盾より金属製の盾は堅く、これも喜ばれた。

「もう、我らに勝てる者などありはせん」

 男達はそう豪語した。

 冶金について一通りの行程を人々に教えると、チトフは弓術を学んだ。これは狩猟をするのに非常に便利だった。耳が敏く、嗅覚にも優れた獣たちは近づくと機敏に逃げてしまう。しかし弓は近づかずとも狩りができる。

「ロデア様が御辺に会いたいとの仰せです」

 唐突だった。日も暮れようとしていた時である。

「上がっていいのか?」

「特別にとの仰せです」

 丘の頂上に着くと、眼下に朱く染まった池が広がり、そして三つの火がその中央に揺らめいていた。池の中央へと至る突堤が延びており、チトフは神妙な心地になって歩を進めた。

 中心には、二つ、人影があった。

「下がっておれ。なるべく離れた所に控えておれ。できるだけ遠くにだぞ」

 声だけ聞くと普通の人間とそんなには変わらない。ただ、胸にすっと溶けていく耳障りのいい声だった。従者の女は黙って足早に歩み去る。

 池は憂いを湛え、群青に色を変えた。そこに半月が泳ぎ、遊んだ。

 チトフは色々なことを考えた。でも何から話し出せばいいか、なかなか結論を出せずにいた。何せ目の前にいるのは神の娘なのだ。

「占いはどのようにして行うのです?」

「唄に森羅万象は応えるのじゃお。実に雄弁にな」

 そしてまたチトフは黙ってしまった。

 根負けしたのはロデアだった。

「寒いのぅ。近う寄れ」  

 チトフはその言葉の意図を考えようとした。しかしさっぱり解らなかった。だが、寒いのであれば、と近づくとロデアはすっと体を寄せた。チトフは手を伸ばした。肩に手を掛けた。肩をさすった。

 二人はまた黙した。チトフはロデアの体はさほど冷えていないように感じ怪訝に思った。何しろ、艶やかな毛皮で全身は埋め尽くされている。むしろチトフが温もりを感じていた。

「邑の男にわらわの姿は見せられぬのじゃお」

 やはり意図が解らなかった。しかしチトフはただ無心にロデアを抱きしめた。こうしてしまえばロデアは一介の女子のように思えた。ロデアはチトフの胸に顔を寄せた。水面はからかうように月を細切れにして、光を乱反射させた。それに合わせるように何かが跳ねる音も囃した。

 チトフはロデアの仮面を外した。

「何をするのじゃお!」

 予想外の行動だった。チトフ自身にとってさえ。そしてロデアはチトフの手から仮面を掴み損ね、池に落としてしまう。

「ああ!」

 大声を出してしまい、ロデアは慌てたように丘を睨んだ。無反応なことに安堵すると今度は顔を背ける。

「醜いと思っておるのだろう? ほら、もう、離せぃ。妾は……」

「そんなことはありません。可愛いですよ」

 か、わ……い、い。

 頭の中でチトフの口から発せられた音が駆け巡る。チトフがよく見えない。力が抜けてしまった。チトフの手が抱き留めてくれる。ああ、の子はこんなに力強いのだな。

 チトフ。

「汝、もうじきこの邑を離れようと考えているのだろう?」

 霊験、というものに初めてチトフは触れたように思った。やはりロデアは只者ではない。大きな目、吸い込まれるような錯覚。何でも見通してしまう。

「止めた方がいい。この邑を離れれば汝の命は長くはない」

「いつの間に唄ったのです?」

「……唄わずとも解るほど明らかじゃお」

 解らないな。チトフはやはり考えれば考えるほど解らなくなった。チトフは腕に込める力を強くした。よりロデアの体がチトフに密着する形になる。ロデアは為すがままだった。

 女は、新しいものを見せてくれる。

 恋のかけらが前後を忘じ、転がり、弾んだ。

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