第5話 塩の邑

 川の流れは次第に緩やかになり、停滞していった。

 チトフは筏を一旦降りると、木を伐ってかいを作った。見よう見まねの櫂ではあったが、川を遡る訳でもないのでこれで十分であった。

 また逃げた。

 罪の意識が、チトフを苦しめていた。

 では一方を選んで邑に永住でもしろと? 

 そんな決断もまた、後悔を伴うだろう。トキアミを諦め、故郷を棄てて生きる人生なんて。

 でも、メーレはトキアミの代わりにはなったかもしれないな。などとふと、考えてしまっている自分がいて恐ろしくなった。彼女と過ごす日々は楽しかった。何度錯覚していたか判らない。ああ、トキアミ……トキアミ。

 いや、ヘレイこそ命の恩人だ。他の者に出逢っていたら殺されずとも邑に引き入れられるなんてことはあり得なかっただろう。こちらの言葉を学ぶ機会もなかった。

 湾曲部での櫂の使い方を覚えてしまえば、今までに比べて緩慢な旅と言えた。野獣に襲われることもなければ、足腰を酷使することもない。筏の上で悠然としているだけで進んでいくのである。でも待てよ、水中に巨大な怪物が棲んでいないとも限らない。

 流れは穏やかになり、チトフは景色を眺めるのも飽きてゆっくりと櫂を漕ぎ出した。当初は数えていたがもう幾日を経たか憶えるのも面倒になっていた。

「これか、塩を作っている邑は……」

 家の集まりが何層にも連なっている。何でできているのだろう。見たこともない材質の家だった。それにしても数が多い。驚きの余り呆然としていると前を顧みてまた愕然とした。

おおきな、沼だ……」

 川の終わりは見渡す限りの水だった。流れは激しく水面は荒れ狂っている。これが世界の果てだろうか。慌てて邑に筏を寄せる。荷も降ろして一息ついた。

「其処なお前。何用か?」

 監視されていたのだろうか。誰何の声が飛んできた。

「冶金の邑より参りました。少ないが金属製品を持ってきました。是非献上したく思います」

 槍を携えた兵士を背後に連れて、チトフは邑に入った。

 地面には線のようなものが沢山引かれていた。家並みは色彩豊かで、丈夫そうに見える。邑中央に巨大な岩があり、それにへばりつくように家が設置されていた。近づくにつれ、それ全体が巨大な建物を成していることに気づいた。岩は中が空洞になっており、言われるがままに中に入ると生活感のない空間が広がっていた。更について行くと岩を重ねて上に行けるようにしつらえてある。そこを上ると固めた粘土で造られた壁が岩に乗るように設置されており、今度は生活感のある家のようだった。その中の一つに入っていく。中には身なりのよい男達が待ち受けていた。

「遠路ご苦労であった。褒美を取らせる故しばしゆるりと過ごされよ」

 違和感が、あった。

「おお、これは水注ぎか。見慣れぬ形よの。これは盆かの?」

 年配の男の目がチトフの斧に向けられた。

「そろそろ武器も欲しい所だな」 

「今日僕が参上したのは冶金の邑の使者としてではありません。私個人としてです」

 男は真意を測りかねたようにチトフを眺めていた。

「僕は農耕と牧畜と冶金の術を知っています。代わりに塩の作り方を教えていただきたい」

 男はまだ値踏みするようにチトフを眺めていた。そして幾人かと言葉を交わし、相談しているようであった。そして。

「技術者というわけか。……ではしばらくの間指導に当たってもらうが宜しいか」

「構いません」

 チトフは屋敷の一室に通された。常に物々しい兵士の目があったがチトフも慣れたもので一向に気にしなかった。

 今思えば白髪男は剛胆そのものだった。会ったその日に鉱石を掘りに行き、晩餐を共にし、同じ屋根の下で眠った。何時凶行に走るか知れたものではない外部の者を恐れなかった。そうだ。むしろこれが正常なのだ。

 食事は魚ばかり出されたが、初めて見るものばかりだった。色が派手で大きい。やはり、塩の味がした。

 明くる日になるとチトフは早速『仕事』に取りかかった。

「この邑の近辺で、金属があるところはないか?」

「金属? ……キラキラ石のことか」

「それでいい」

 光る石は掘り出され、様々な人の手に渡っているらしい。炭焼き窯を造営し炒炭を作り、今度は金属を熔かす窯を造営する。集めてもらった鉱石を坩堝に入れ、炒炭に火を点けた。鉱石はまだらで、黒と灰色が混じっていた。

「もう、熔けるのか……」

 火を点けて間もなく、灰色の金属はみるみる液状化した。そのまま熱していると坩堝が割れ、チトフは危うく火傷を免れた。

 白髪男の使っていた坩堝でなければ熱に耐えられないようで様々な石を使ったが坩堝に適した石はなかなか見つからず、結局、灰色の金属が熔けた時点で加熱を止めるしかなかった。

 試しに鋳型を作って一振りの剣を造り、石を斬ってみるが切れ味が悪い。剣の方も無事では済まず、小さくない傷がつく始末だ。

「おお、これは見事な武器ができましたな!」

 遠巻きに見ていた男達は歓声を上げた。この金属は柔らかいのだけれど。チトフは内心不満足だったが、一連の工程を人々に教えていった。

 一定の成果を挙げたことで、チトフも人々の信頼を得た。人々はこの集落のことを邑ではなく『町』と呼んでいた。町を自由に出歩くこともできるようになった。金属武器は野獣との戦闘を有利にし、行動範囲を少しずつ広げていった。近隣の邑との交易も盛況を極めた。

 町には奇妙な者がいた。人の為すべきこと、生きる意味、神の教えなどを毎日説くのだ。彼らは岩を利用して造られた寺院と呼ばれる建物の中で、毎朝説教を行っていた。寺院には僧院と呼ばれる神官の宿舎も併設されており、町の最高権力者である長老もそこに暮らしていた。

 この町の建造技術は素晴らしいものがあった。大きな家には壁でしきりが造られ、それぞれが部屋と呼ばれた。長老の住んでいる部屋の外部壁面には張り出した手すりつきの場所があり、バルコニーと呼ばれていた。そこを晴れた日に見上げると見たこともないような素材の布が翻っているのが見えた。

 チトフは神官に尋ねた。

「あれは何?」

「天地総攬という御旗にございます。神に選ばれし者のみが所有でき、万民を塗炭の苦しみから救済しまた遍く人々の忠誠を得る紛う事なき天与の逸品です」

 チトフは深く息を吸い込んだ。なんと神々しい輝きだろう。恍惚としながらいつまでもいつまでも眺めていた。言われてみればあの長老も、ただの人には見えない。

 他には町の警護を専門とする者もいた。彼らは他の仕事をしない。食べ物や必需品などはそれでも他の人から貰える決まりがあるようだった。また、恋人達は顔と顔を近づけては唇を合わせた。これは深愛の情を表す行為のようだ。


 町では既に農耕が行われており、ライ麦が栽培されていた。この町ではライ麦の籾を粉砕して中身を粉にし、粉に水と塩を加え練ってしばらく放っておいてから棒に刺して火で炙り、パンと呼ばれる固い食べ物を作った。火を使わずとも食べられ、携帯性に優れある程度保存も利くので取引に重宝されていた。


 塩の作り方を教えてもらえることになり、チトフは巨きな沼の側に来た。

 どれだけ目を凝らしても渺茫と霞む水と空が続き、世界の縁らしきものは見えない。嘴の先が赤い真っ白な鳥が盛んに甲高く鳴きながらあちこちを飛び回っている。

「お前だな、製塩を学びたいという奴は」

 決して似ているわけではない。だが、自信と活力に満ちあふれた鋭い目つきはカンドゥクを想起させた。櫛歯状のもので模様が刻まれた陶器とたくさんの木片を小脇に抱え、肌はよく日焼けして浅黒く、胸板は分厚く、真っ赤な布きれを頭に巻き付けていた。おそらく、齢はチトフとさほど変わらないだろう。

「俺はルフォートだ。宜しく。早速始めよう。海から水を汲め」

「海?」

「海も知らねえのか。目の前にあるこれだよ」

「海……」

 海を陶器に入れる。そこにルフォートが海が滴る真っ黒いつやつやした物を突っ込む。

「海藻を入れると塩が早くできるし、また滋味深く、まろやかになる」

 チトフは海に入った。地面は脆く、足がめり込むがすぐに波が洗って足跡を隠してくれる。ルフォートに言われるがまま、海を掬って飲んでみた。

「塩の味だ……」

 なんということだろう。海には塩が溶けている。海で料理すれば味付けなど簡単だ。

「飲み過ぎるなよ。塩を摂り過ぎて死んだ者もいる」

 チトフはぎょっとして咽せた。波にルフォートの笑い声がとけていく。

「何、塩造りなんて実に簡単だ」

 ルフォートは壺の中から火を取りだして木片に点け陶器をくべた。

「今日は不思議なものを見たよ。人が引っ張る台に人が乗り、台が転がるように道を進むんだ」

「ふん。お前は面白い奴だな。それは車だよ」

 チトフは不思議そうな顔をしているとルフォートは縄を取り出しその両端を掴んで見せ、地面に押しつけた。そして縄をぴんと張ったまま一方の端を引いて弧を描く。

「ある地点から等距離に線を描くとこのように円ができる。この形を利用したのが車輪だ。車輪に軸をつけて廻すと前に進んでいく仕組みができあがる。これが車だ。重い物を乗せても小さな力で運べる」

 ルフォートがカンドゥクと明らかに違う所は、その饒舌ぶりだった。そして声が異様に大きい。何か言葉を発する度にチトフの体はぶるぶると震えた。

「俺が思うに世界は全て回る。車輪のようにな。例えばこの太陽だってそうだ。毎日飽きもせず東から西へと周回する」

 チトフにとって、太陽は神だった。今までずっと、そう教えられてきたからだ。事実その通りだと思えたからだ。少なくとも、万人に光と温もりと豊穣を賜る至高の存在だった。それがどうしたことだろうルフォートは、有象無象の、一個の人間でも論じるかの如く太陽を語る。 

 尊崇の念を感じない。

「この景色をよく憶えておけ。さて、待つのも暇だ」

 チトフはルフォートに教わりながら漁労に取り組んだ。海には多種多様な色彩の生物が豊富に潜んでいた。鱸や鰯、鰊などの魚だけでなく海老、蟹、貝、昆布などが山のように積み上がった。火が消え、海水が蒸発した陶器の中には塩が残っていた。

 ルフォートは残照雲焦がす海を眺めて言った。

「何か気付いたことはないか?」

「風が、止んだ?」

「それも正解だが……海面に注目してみろ」

 広い砂浜を、巨大な甲虫のような白い生き物が徘徊していた。よくよく見ると大きな爪を持ち真横に動いており非常に気持ち悪い。

 ? 広い……。

「海が、小さくなった?」

 波は彼方に留まり、昼間のようにここまで寄せて来ない。ルフォートは鼻で笑った。

「そんなところだな。この状態を干潮と言う。さっきのが満潮だ。見ろ。月が出る」

 足の速い雲を突っ切るようにして、満月は姿を現した。波が砂を洗う音だけが、絶え間なく反響し心を落ち着かせてくれる。ルフォートは鍋に海水を汲むと火に掛けた。そこに今日の獲物を豪快に投入する。

「満月や新月の日は干満の差が激しくなる。そして半月の日はさほどでもない。知ってるか? 月が新月からもとの新月に戻るまでのおよそ三十日ほどの周期を一月と言う。春が来て、また春になるまでほぼ十二ヶ月かかる。この十二ヶ月が一年だ」

 チトフは黙っていた。瞬きも忘れルフォートの言葉を反芻していた。

 チトフの頭の中で一つの小さな革命が起きていた。

「尤も、異論もある。どうも宗教家は太陽を中心に考えたいご様子でね。太陽暦とか言う数え方を推している。まあ俺らにとっては魚がどう動くかが肝心要。太陰暦以外眼中にないがね」

 次にルフォートは蛤を火にくべた。熱に耐えられなくなったのか、次々に泡を吹き、口を開ける。そこにできたばかりの塩を振って。

「さ、喰おうぜ」

 と言ってルフォートは牡蠣の殻をこじ開け、生のまま食べ始めた。チトフがうまく開けられないでいると、ひったくって開けてしまう。

「動植物の多くは春に生まれ夏に成育し秋に実り冬に死ぬ。月も星も太陽も、循環し人はそれに付き従う。繰り返す。あらゆる命も。植物も寿命がある。永遠なんてない。まあ、北極星だけは……例外のようだな。頑なに動きゃしねえ」

 星もやはり繰り返しているのか。チトフは牡蠣を受け取って食べた。不思議な味に顔をしかめる。

 海風が吹きつけた。珍味佳肴、昆布から染み出る出汁、滋味に富んだ海産物の数々、チトフは夢中で貪った。現代の海と異なり海水は限りなく澄んで、人工的な化学物質や不純物を全く含まず、どんなに美味だったか知れない。

「思うんだが」

 月を指差した。指は弧を描く。

「今俺はこの月のように天を目指して昇っている。でも歳を取り、体も衰えていつか下り、失せる。おそらく、この先五十年と生きられねえ」

 チトフは口を動かすのを止めてルフォートの言を聞いていた。相槌も打たなかったがルフォートはまったく気に留めていない様子だった。月光を受けてルフォートの目はぎらぎらと異様に光った。只ならぬものを覚えてぞっとした。気圧されたように口を開く。

「でも、君の月と僕の月は違うだろう?」

「何を言ってるんだ」

「だって、月は一人一人が動く度にその人の後をついて行くじゃないか」

「それは……そう見えるだけだろう。月はこの世に二つとない唯一無二の存在だ」

 わずかに、沈黙が忍び寄った。チトフはまた口を開いた。

「死ぬのが怖い?」

「怖えなあ。だが俺が死んでも連綿と人は命を繋いでいくだろう。俺が死んでもそこで本当に終わりじゃねえ気がする。まぁ、取りあえずはてめえをどうするか考えるべきなんだろうがな」

 ああ、僕には見えていないものが見えている。チトフは嘆息した。

「どうせ落ちるんなら、できるだけ高いところを通ってからにしてえもんだな」

 満天の星々を掻き分け、月は悠々と空を泳いでいく。

 

 チトフは海に夢中になった。行く度に発見があった。特に漁労に没頭した。一つ残念な事はここで得た知識は集落に帰っても活かす機会がないことだった。

 ここでは、こんなに簡単に食べ物が手に入る。海は素晴らしい。チトフは食料に関してトラウマがあり、食べきれないほどの魚貝を捕っては、処理に困って近所に配っていた。

 大地と空の世界と同様に、いや海の世界はそれ以上かもしれない。多様な生物と不思議に溢れていた。

 四六時中食料の心配をしていた故郷と比べるとまるでここは楽園だった。だからこそ町の規模も大きく、文化も発達しているのだろう。余剰生産力のおかげで娯楽や、学問を生業にすることができる。

 執政官の元にチトフが毎日海で遊んでいるという情報が届くと、すぐにお喚びがかかった。もちろん拒めるわけがない。いそいそと参上すると寺院に官吏が待ち受けていた。

「そなたの知識を是非書物に書き記しておきたい」

「……書物?」

 まだ僕の知らないものがあるのか。この町は恐ろしい所だ。

「君の教師になる者を紹介しよう。イイム、ここへ」

 イイムは髪を後ろに束ね、俯いてばかりの女だった。

「イイムは図書館の司書だ。君の書いたものもそこに蔵書されるだろう」

 何を言っているのか解らず、何から訊ねるべきかすら不明だったのでもうチトフはただ黙っていた。

「……ではついてきてね」

 イイムは先に立って歩き、町の中心部、ある屋敷に入っていった。

 その青白い指が松明に火を点けた。中を見回す。

「ここが図書館。文字を石版に書いて保存しておくの」

「文字って?」

「文字は言葉を目で見て理解できるようにしたものよ」

 何十もの石版には絵のようなものがぎっしり書かれていた。

「これらの文字には一つ一つ異なる意味があり、読み方もあるの」

 ああ、集落でもやっていたよ。やっていた。数や方向を表すのに印を地面に書いたよ。

 頭がおかしくなりそうだった。今までチトフはどんな技術を目にしても「それでも我が集落の技術が先を行っている」という自負を持ち続けていた。

 しかし今日、秘かな矜持は脆くも瓦解した。

 そうだ。考えてみれば生まれた集落の言葉には数詞は三つしかない。

 一、二、それ以上は『沢山』。三も四も五も沢山。

 世界は広かった。もしかしたらまだ見ぬ人々は、更に先のとてつもない技術に到達しているやもしれぬ。

「これは何?」

 壁一面に描かれた不可思議な絵が目に留まり、チトフは振り返った。

「地図ね。世界のあらましが描かれているわ。まだまだ未探査の部分もあるだろうけど」

 中心に今チトフが立つ町が描かれているのだろう。左には広大な海が広がる。右に冶金の邑らしきもの、更に右に行くと羊の絵で畜産の邑だと判る。川も側に描かれている。ということはここに描かれているのは……。

「これはどんな集落?」

 イイムがのぞき込む。せまい室内に肩と肩、手と手が触れあった。チトフはどぎまぎした。

「ああ、蛮族が住んでいるわ。言葉も通じないみたい」

 ……僕は蛮族だったのか。

 そりゃあね、ここに比べれば非文化的な生活なのかもしれない。でもね、僕らだって芸術品を創り出すし、規律も定めていたし農耕だって始めた。なのにこんな怪物みたいな絵で表さなくてもいいじゃないか。

 イイムはチトフの知的好奇心に満足したように微笑んだ。

「さ、文字について学びましょう」


 これこそがチトフの本領であった。チトフは先天的に言語能力に優れていた。この町の識字率も一割に遠く及ばない。体系化されず野放図に字数が増えていった原始的な象形文字であるため習得は困難であり、知識人のためだけに存在していた。

 しかしチトフは二ヶ月も超えずに習得してみせた。

「またここにいたの?」

 書を読めるようになってチトフは文学、歴史、地理、哲学、数学、化学、生物学、工学といった学問の産声を耳を欹て、渇きを癒やすように音を立てて飲み干していた。

 何がこの男をそうさせるのだろう。イイムにとってチトフは神秘そのものだった。

 体つきも、まるで違う。他の世界から迷い込んだのか、ひょっとして人間ではないのかもしれない。

 町の男達は今、新しい飲み物に夢中だった。ライ麦や葡萄を集めてきては甕に入れ腐らせ酒を醸造した。酒色に溺れ、町には千鳥足が溢れていた。

 イイムは真新しい石板と尖筆スタイレスをチトフの目の前に置いてみせた。

「まだ書けないよ」

「習うより慣れろ、だよ」

 いざ記述する段になると話は違う。読むように書けないチトフを見ると、イイムはチトフの背中から腕を伸ばし、チトフの手を取った。そのたおやかな動作はトキアミを想起させた。イイムの手は瑞々しく、柔らかでチトフの体はこわばった。体の奥からこみ上げる気持ちに戸惑う。今まででさえ幾度も懸命に堪えていたのだ。

「ほら、こうするの」

 今日まで、イイムには男心など知る術も機会もなかった。この時代、ただ体験だけが物事を知る方法だった。

 世界は清新に満ちていた。

 

 チトフは弱かった。臆病だった。同時に繊細だった。故に多くの情報を知覚した。認識した。応用した。

 風雪が緩むと、チトフは石版を頼りに遊学に出かけた。

 石版に拠ると生物は人間に危害を加える生き物と、そうではない生き物の二つに大別されていた。そして馬という生き物は後者に当たる。チトフは馬を捕まえては町に連れて行き、牧畜を開始した。

 それまで馬は馬肉のためにのみ存在していた。しかし飼育してみると、極めて従順だと判った。犬に匹敵するかもしれない。頭は犬ほど良くないが、体が大きく力強い。

 チトフは馬に車を引かせる実験を試みた。試行錯誤の末、御者を乗せ走る馬車を完成させる。そして近隣の邑とを結ぶ道の工事が始まった。石を退け、凹凸を埋めならしていく。続いて葡萄の栽培も始まった。

 集約した研究結果をイイムと共に石版に記し、チトフは充実した日々を過ごした。イイムは博学でチトフは多種多様な知識を受け取った。イイムはこの町ではかなりよい出自であるようで、おそらく計らいがあったのだろう、チトフの下には毎日パンと魚介が届けられた。学問的知識に秀でる一方で無頓着で生活力に乏しく、目が離せない、保護欲を掻き立てられる危なっかしさがあった。イイムの言葉は甘美で、チトフの胸を強かに打った。しかし一方で、憂慮すべき事態も起きた。この邑と冶金の邑を結ぶ道路が繋がったのである。邑と邑の距離は劇的に縮小し、交易が頻繁に行われるようになった。チトフはメーレを思った。僕のことなど忘れていて欲しい。忘れているに違いない。南の空を眺める。しかしヘレイのように追ってきたらどうしよう。ああ、それも何もかも僕が悪いのに。


 自分の記すべきものは全て記した、つもりだった。乾いた粘土版を図書館に運び、棚に収納する。少なからず感慨深いものがあった。

 結論づけるしかなかった。

 だから。

「この町を出る時が近づいているんだ」

「理由を教えて。詳細に」

 詳細に? それは……できない。

「故郷に帰らなければならない。僕は蛮族の生まれなんだ」

 イイムは大きな瞬きをした。

「あなたは月。私は星よ」

 太陽のように至高の存在ではない。しかし星は暗黒の夜に道標を掲げる。僕は図書館に漕ぎ出し、君のおかげで様々な知識を獲得した。ささやかな光だけど不思議と惹きつけられる。愛おしくなる。

「今宵は新月だ。でもまた現れるよ。だからその時まで待っていて欲しい」

 ああ、女とは恐ろしい。僕は女に縛り付けられている。トキアミ、ヘレイ、メーレ、イイム。みんな好きになってしまう。

 恋ってこういうものなのだろうか。……それとも僕が異常なだけなのだろうか。

  

 その夜、チトフはイイムと食事を共にした。

 イイムは慣れない料理に悪戦苦闘し、皿が埋まったのは夜更けだった。

 スープは固いパンを浸し、柔らかくして食べるためにこの町では最も一般的な料理だ。

「ん!?」

 奇妙な味がして呻いた。舌が燃え上がる。よく見ると黄土色のものが浮かんでいる。

「何が入っているんだい?」

肉桂シナモンね。南国で育つ香辛料よ」

 まったく、この世界はどこまで続いているのだろう。海をちょいと避ければまだ南には大地が続いているらしい。未だ見ぬ南方への興味に胸が疼く。

「でも、心残りもあるんだ。沢山の馬車が通過すると土が削られてどうしても轍ができてしまう。整備に手間がかかる。この問題はどうしたらいいか解らない」

 ああ、僕はイイムに沢山のものをもらったのに、僕は何を返せただろう。そう思ってせめてこの町の改善に尽くしてきたけど、対価に見合うものになるかどうか。

 チトフの目つきが変わる。立ち上がる。イイムはぴくり、身動みじろぎした。

 チトフは松明を片手に部屋を出た。

「どうしたの?」

「物音がしたんだ」

「スープが冷めちゃう……」

 チトフはそのままイイムの家を出た。まだ住み始めて二ヶ月しか経っていない新築だ。イイムの両親の命で造られたものだという。

 ぎらり。松明の光を反射して輝いた。短剣を持った男達が、家に寄り添って一塊になっている。縄を持っている者もいた。

 チトフは横目でイイムを見遣った。

「戻ろうか」

「え?」

 意外な言葉にイイムはあっけにとられた。チトフは踵を返し家の中に消えた。

「お嬢様……どうすれば、いいでしょうか?」

 男は遠慮がちに訊いた。

「散って。もう終わり」

 イイムはチトフの気配がないのを確かめてからできるだけ声を潜めて囁いた。チトフの後を追う。

 あらゆる手を尽くした。自分が自分じゃなくなってしまうくらいに。チトフの翻意を期待して。そしてこれが、最後の、禁忌の手段だった。

 私の中にこれほどの熱情が潜んでいたなんて知らなかった。

 ああ、どうしたものだろう。イイムはどう取り繕うか懸命に考えた。

 チトフはイイムを困らせたくなかった。部屋に戻ったイイムを見ると、唐突に抱きしめた。

「えっ!?」

 イイムは空っぽになった。しかし間もなく現実に引き戻される。チトフの腕が、肩と、細腰を、きりきりと締め付ける。呼吸ができない。

 ああ、そうなんだ。

 チトフは私を怒っている。何もかも解ったんだ。ごめんなさい、チトフ。ありがとう、チトフ。さようなら、チトフ。あなたの腕の中で――。 

「じゃ、元気で」

 荒い息をつく。

 朦朧とする意識の中で、イイムは、今チトフに殺して貰えないと悟った。

 チトフと交わした口づけは身悶えしそうになるほど甘かった。そして闇に溶ける背中をイイムは黙って見送った。

 私は、チトフの中にいる誰かに負けたのだ。

 じきに、父の部下が息巻いて駆け込んできた。散ってと言ったはずなのにどこかに潜んでいたのだろう。

「目標が出て行きました。今ならまだ間に合いますぜ」

「もういいの」

 意外そうな顔をして、がっかりしたように肩を下げ男達は下がっていった。

 心を手に入れなければ、体を手に入れてもきっと幸せにはなれないだろう。また、チトフに軽蔑されるほどつらいことはない。

 まだ、チトフの感触が、唇と体に残っている。まだ、そこにいるみたいに。

 満月の夜、チトフは現れるのだろうか。そう、迎えに来てくれるんだ。

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