第4話 冶金の邑

 チトフは再び旅上にあった。湿り気のある粘土質の土壌は足が沈みひどく歩きにくいがそれでも川に沿って歩き続ける。そうして木の実を採ったり川魚を獲ったりして空腹を満たした。飲み水に困らず、身を隠す植物にも事欠かず、木の実は豊富に見つかった。

「もう冬なのか」

 風が強いなと雲の様子を眺めていたら、白いものが落ちてきた。

 しかしヘレイが作ってくれた羊毛仕立ての服は実に暖かだった。

 幸せで、哀しい時間だった。

 ヘレイに耽溺する自分が怖くなった。僕には心に決めた人がいる。

 畜産の邑に来て、一つ確信したことがあった。

 生まれ育った集落より、住みよい地がある。行ける所まで探検した後、集落に帰ろう。

 やがて視界は湿地帯と沼に覆われた。それでも川の流れに沿って前進を続ける。見上げると丘の一角に家が集まっているのが見えた。

「見慣れない顔だな。羊の邑から来たのか?」

 突然質問が飛んできた。畜産の邑で覚えた言葉……に近い。ほぼ理解できた。槍を持った男がこちらを見下ろしている。

「……そうだ」

「羊毛は持ってきていないのか」

「旅をしている。しばし、この邑の世話になりたい」

「旅? どこにいくというのか」

 ここでチトフは少々悩んだ。

「己を鍛え見聞を深める旅だ」

 男はしげしげとチトフの風采を眺めて「そこで待っていろ」と呟くと邑の奥に駆けた。じきに男達が槍をぎらつかせ集まってくる。驚くべきことにこの邑の人々の髪はどういうわけか長さがバラバラだった。

「羊の邑より参った。農耕と畜産を教えよう。代わりに金属の扱いについて教えを賜りたい」

 中央に佇立していた白髪男が口を開く。

「儂の家に来るが良い。但し、冶金は危険極まりない上、主を遠慮無くこき使うが宜しいか」

「元より、覚悟の上だ」

「槍は預かろう」

 そしてチトフは木と草のような物が連なった奇妙な家に入った。目を見張った。うめいた。そこかしこで光が零れていた。金属については畜産の邑で聞いていた。この邑では金属を操り、ありとあらゆる物を造っていると。

 その術をチトフはどうしても知りたかったのだ。

 土器は簡単に割れてしまうが、金属器は欠けているのさえ見たことがなかった。ああ、これさえあれば。夢のような生活だ。

 家の中には白髪男の家族らしき人々が居た。

 チトフは叫んだ。

「トキアミ!」

 トキアミは一瞬体をこわばらせ、そっと目を伏せた。

 !? 目をしばたたかせる。

 違う。

 よくよく見るとトキアミより幼い。身につけているのも銀狼の毛皮ではなかった。首飾りもない。同い年の女が自分よりずっと早く背が伸びていったのを思い出した。女は成長が早い。

 チトフの様子を、白髪男は黙して眺めていた。やがて、口を開く。

「メーレ、この男の寝床を作ってやれ」

「はい」

 トキアミに似た少女――メーレは立ち上がると、家の外に駆けていった。

「では行くぞ」

 金属製の甕をチトフに渡し、自らも甕を担ぐと白髪男は歩き出した。

 

 二人は嶮隘な山道を登っていった。

 断層や褶曲が山中には数多く見られた。初めて見る奇怪な光景にチトフは目を白黒させた。山に転がる石は軽く、白い。白髪男の甕からは歩く度にガラガラ音が鳴り響いた。

「ここが金属の鉱床じゃ」

 白髪男は立ち止まると、大きく息をつき、チトフに武器のようなものを渡した。

「これでその岩を砕け」

 チトフはつるはしを受け取った。指差す方を見ると黄色と灰色が縞状に折り重なり層を成している。早速つるはしを使ってみた。

「違う。違う。つるはしは突くのではない。持ち上げてから振り下ろすのじゃ」

 白髪男はつるはしを振るってみせる。火花が散り黄色の石が崩れ落ちる。チトフも見よう見まねでやってみる。慣れると、「ああ、斧を振るう感覚か」と要領を得た。

「だらしない男じゃ。貸せ」

 肩が上がらなくなってくると、白髪男がつるはしを握った。打ち据えるたびに的確に鉱石を削っていく。背中は小山のように広く筋肉が隆起し、いや全身がはちきれんばかりの筋肉の塊だった。その体力は無尽蔵かと思われた。

 風が荒れ日も暮れ、鉱石を甕に詰めると、二人は坂道を降りていった。

 白髪男は大声で吠えた。ぎょっとして振り返る。そしてそれは何度か続いた。

「避けられそうもないな」

 白髪男が睨む方を見てみると灌木の林に寄り添うように黒狼がいた。一匹ではない。八匹。

「そこの崖に背中を預けるようにして待ち受けよう」

 狼の群れは足並みを揃え二人に近づいた。白髪男は甕から鉱石を取り出し、狼に投げつけた。当たらなかったが、構わず投げ続ける。と、狼は隊列を乱し駆けてきた。白髪男を守るように、チトフはつるはしを構えた。

「ごめんなさい!」

 白髪男はぎょっとしてチトフを顧みた。チトフのつるはしは狙ったわけではないが狼の長い前足を捉えた。

「ごめんなさい!」

 チトフは後退しながら続く狼にも器用につるはしを振り下ろした。頭を直撃し、狼はもんどりうって倒れた。遅れて血が噴き出す。口とは裏腹にチトフは勇敢だった。白髪男を守らねばならないという気持ちが強く作用した。つるはしは先端部が重く全力で振るうと体のバランスが崩れた。最小動作で振り切ろうと試みる。無我夢中。

「ごめんなさい!」

 脚が折れて動きが鈍った狼を介錯してやる。我に返ると、二匹の狼が尾を下げ逃げ去っていくのに気付いた。足元には六つの骸が転がっている。大きく息を吐き出し、膝をつく。

 後ろで見ていた白髪男は、チトフを眺めて無表情に突っ立っていた。やがて口を一旦開きかけて、その言葉を呑み込む。そして改めて。

「まったく、荷物が増えて困る」

 白髪男は鉱石を拾い集め狼を背負うと歩き出した。チトフも狼を担ごうとしたがひどく消耗しており諦めた。その日は珍しくあかあかと空が燃えていた。

「狼は徒党を組み獲物を狩る。包囲して背中から襲いかかり脚に噛み付き動きを封じる。厄介な相手じゃ。幸いこの狼はまだ若く、人間を喰ったことがないようじゃな」

 頷ける所があった。一匹ではあったものの、以前出くわした虎の方が手強く感じられた。虎は動きが読みづらく、変則的で自分の槍への対応ができていた。きっと人間の味を知っていただろう。

 

 思いがけずその日の晩餐はチトフを歓待する豪勢なものとなった。帰るとすぐに狼を回収し、宴と相成った。

 チトフは広場の中心、篝火の側に座らされていた。一応、歓迎されているのである。しかし居心地悪そうに身を竦め、おとなしくしていた。

 そうして焼き上げた肉を取り分ける女にじっと目を向けていた。

 やはり似ていた。

「しっかり食っておけよ。明日も忙しくなる」

 白髪男はそう言って炎を眩く照り返す金属の皿を差し出した。

「メーレ、この男の世話を頼む」

「はい」

 メーレはしかしチトフと顔を見合わせようとはしなかった。けれどもこれは白髪男を除いた皆がそうだった。とは言えチトフはこんな状況には慣れっこだった。生まれた集落でも厄介者だったし、畜産の邑では当初意思すら伝達できず家畜のような扱いを受けた。しかし畜産の邑における太陽、ヘレイが土偶と化した僕に尽くしてくれた。

 僕には、いつか報いが下るに違いない。ああ僕はヘレイを黙って置き去りにしこんな遠くまで逃げ出したのだ。目頭が熱くなる。ああ、今ここで泣いてしまったら、きっと怪しまれる。耐えろ。泣くんじゃない。お前はあくまで部外者なのだ。

 与えられた寝床は白髪男やメーレと同じ屋根の下にあった。僕がここに眠ってもよいのだろうか。しかし断るわけにもいかない。早くも白髪男が隣で横になり大鼾を響かせる。家の中央が凹んでおり、その中でトロ火が燃えていた。火をこんなに雑に扱っていいものなのだろうか。眠りに入った振りをしながらメーレの寝床を見遣ると、メーレは寝返りを打って背中を向けてしまった。旅の疲れが睡魔を呼び込み、チトフは暖かな家に幸福と一抹の不安を感じながら眠りに落ちた。


 翌日も朝から白髪男の指導は行われた。

「これは日干ししておいたクヌギだ。これを窯に詰める」

 良い薪になりそうな木片を、見よう見まねで窯という装置の中に並べていく。入り口に雑木と木っ端等燃えやすい物を詰め、金属の容器から火種を取り出し火を点けた。チトフは中の様子を見ていたが、突然逆流した煙に巻かれ咽せて目を痛めた。

「もうじきもっと煙が出る。そうしたら焚口を塞ぐ」白髪男は涙を流すチトフを見てにやにやした。風が強く吹き付ける場所に窯は作られており、焚口から風が吹き込む仕組みになっているようだった。煙の噴出が本格化すると石版で蓋をして隙間を土で埋めた。焚口と反対側の排煙口も同様に塞ぐ。中はかなり高温になっていると思われた。

「なぜあいつばかりが優遇されているのだ。俺がかねてより教えを請うても未だ一顧だにされないのに」

 覗きに来ておいてわざと聞こえるようにそう言った者がいる。チトフは聞こえないふりをするしかなかった。

 昼になり窯が冷めるとまた雑木と木っ端を詰め、火を点け、先の作業を繰り返した。晩秋の高台は風が冷たく、窯に寄り添うようにして寒さをしのぐ。窯の熱が感じられなくなると石版を除けて中の物を取り出した。

「これが炒炭じゃ」

 それは真っ黒になりひび割れた木片だった。

「炒炭がなければ金属を熔かすことはできぬ」

 真っ黒に焦げているのにある程度の硬度を保っているのが不思議だった。

「おぬし、温泉に入ったことはあるか?」

「温泉とはなんです?」

「行ってみれば解る」

 それは邑からごく近い所にあった。大岩の間からもうもうと煙が立ち上っている。白髪男は毛皮を脱ぎ捨てると、大股でその中に入っていった。

「危ない!」

「何も危ないことはない。おぬしも来い」

 なおも様子を伺っていたが白髪男は平気な顔をして煙に巻かれている。慎重に進むと足下が濡れているのが判った。

「お湯か……」

 恐ろしい量のお湯が沸いていた。少し触ってみるとそこまで熱くはないようだ。チトフは倣って服を脱ぎ湯に浸かった。寒い日にはいいかもしれない。

「温泉に浸かると疲れが取れ、病にも効く」

 なんということだ。お湯は白濁しており、ぬるぬるしている。


 その日の晩に供されたのは鮭という魚だった。よくもこんなに捕まえられるものだと感嘆する。器に盛られた焼き鮭が配られる。気を抜くとメーレに目がいってしまう。自分の視線に気付かれるとメーレを不快にさせてしまうかもしれないと考えるとチトフには辛かった。メーレのことを考えないようにして鮭にかぶりつく。

 衝撃的だった。

「味が……濃い」

「塩で味付けしているのじゃよ。昨日の狼汁にも入っておったぞ」

「塩……」

 魚はチトフが生まれた集落でも食べたが、あまり味がしないので獣肉の方が人気があった。考えてみると昨日の狼も味が濃かったように思う。昨晩は極度の緊張で味など分からなかった。

「川を下った先に大きな邑がある。そこで塩を作っている」

 その日、チトフは初めてこれ以上食べられないというほどたらふく食った。 


 この邑は野獣などものともしなかった。金属武器は野獣も易々と撃退した。

 チトフに対する風当たりは日増しに強くなっていた。どうやら白髪男が人にものを教えることは非常に希有らしい。チトフが暇乞いを白髪男に告げると、

「どんな危険に遭うか判らん。武器を持っていけ」

 そう言って白髪男は短剣を渡してくれた。初めて手にする金属武器にチトフの心は躍った。邑を出るとチトフは雪のそぼ降る中を木を見つけては切って回った。枝などは容易く切れた。チトフは愉快な気分に浮かれながら気の向くまま雪原をふらふら逍遙した。


 チトフは立ち止まり、耳を澄ました。奇妙な音がする。走り出す。

 山羊の群れだ。

 何百頭になるだろう。雪原を身を寄せ合うようにしてひたすら進んでいく。

 チトフは今日来た道をひた走った。邑へ戻る坂を駆け上がる。

「山羊の群れがいたぞ。みんなで捕まえよう!」

 邑の人々にチトフは触れて回った。長である白髪男の号令の下、直ちに男達がチトフの背中を追いかける。大量の足跡から山羊の群れは容易に発見できた。

 槍が煌めく。山羊に深々と突き刺さった。続々と槍が唸りを上げる。山羊は逃げ惑う。チトフは慌てふためき色を成した。

「違う。殺すんじゃない。捕まえるんだ!」

 チトフの言葉に耳を貸す者など誰もいない。歓呼の声が輪唱となって跳ね回る。チトフはようやく到着した白髪男に泣きついた。

「お前等、一旦止めぃ!」

 白髪男の声は山々に反響し、延々と木霊した。白髪男には逆らえず、暴れる山羊を引き摺ってどうにか十数頭の山羊を捕獲した。やはりチトフは白眼視をその一身に浴びた。

 こうも早く邑に戻ることになるとは。チトフの口から白い息が絶え間なく漏れる。

 これは獣神がまだ行くなと言っているに違いない。

 チトフは岩場に入っていった。温泉には先客がいた。眩い髪に白い肌の持ち主だったので白濁した湯と湯気に紛れ、風呂に入るまでまったく気がつかなかった。

 目が合った。

 トキアミ……いや、メーレだった。

 心なしか、雪の粒が大きくなったように思った。見上げる。上半身は冷えるが下半身は熱くなっていていつまでも浸かっていられそうだった。横目でメーレの様子を窺う。その時丁度メーレもチトフを見遣ろうとしていた。水音が弾ける。まったく対称的な動きで二人は弾かれたようにそっぽを向いた。二人ともまだ一言も発していない。

 また水音がして振り返る。メーレが湯の中に潜った。潜ると何かいいことでもあるのだろうか。チトフは何か掛けるべき言葉はないかまだ考えていた。

「メーレ?」

 何かおかしかった。躊躇したがおずおずと手を伸ばしメーレを湯から抱き上げる。

「メーレ!?」

 メーレは目を覚まさなかった。ひとまず湯から上げ寝かせ、うつ伏せにし体をさすり湯を吐かせる。

 間もなくメーレは目を開けた。まだ激しく咳き込んでいる。

「落ち着いて、なるべく吐き出すようにして」

 看護の末、もう大丈夫だろうと安心するとチトフはメーレを意識した。何度も、何度も、トキアミかと錯覚する。今僕の腕の中にいるのが、トキアミだったなら。

 メーレの体を、まじまじ眺めた。衝動的なものがチトフを突き動かす。唇を結んだ。抑え込む。

「のぼせちゃったみたい。チトフさんが介抱してくれたのね。ありがとう」

 まだメーレは夢現にあるようで虚ろな目で微笑んでみせた。急に恥ずかしくなり、チトフはメーレを放り出すと駆け出してしまった。


 明くる日、斧を借りたチトフは木を伐っては邑に運んだ。それを見ていた白髪男に命じられたのだろう。邑の男衆がチトフに続いて木を運び出した。木材が集まると、チトフはそれを組んで囲いを作り、山羊を放つと雌山羊の乳を搾った。山羊の乳は羊の物より濃厚で滋味に富んでいた。放牧に役立つ犬は見つからなかったがこの邑には金属器があった。雪に埋もれ、見つけるのは容易ではなかったものの草を刈って山羊に食べさせることができた。次第に人々はチトフを手伝うようになった。

 この邑の人々は斧で簡単に木々を伐採できたが、森林の保全に関して極めて厳重に管理されていた。森林は動物の住処になる。また、食用植物の苗床になる。森林を減じるということは食料を失うに等しいと、親は子に諭す。

 時折、地面が揺れた。山が咆哮し、灰を降らせるときもあった。邑の者達は総出で山の神に怒りを鎮めるよう禱った。

 春になると草も芽吹き、畜産も楽になり働きづめだったチトフも余暇を得た。人々を連れ、畜産の邑から持ってきた籾を蒔いた。

 ある人が言った。

「髪を切ってみないか? もうじき暑くなる。髪を切っておくと涼しいぞ」

 そもそも髪を切る、という発想がチトフにはなかった。生まれた集落にはもちろん畜産の邑にも刃物はなかった。しかしなるほど、そう言われてみるとこの邑のほとんどの者が髪を切っていた。

「どのようにすればいいだろう?」

「メーレが髪を切るのがうまいんだ。頼むといい」

 メーレはほとんど家から出ることがなかった。今はチトフの目を見て話せるようにはなっていたが、生来内向的なのだろうかやはりぎこちない。

 チトフは川に入ると沐浴した。メーレの細い手を想った。

 違う。かぶりを振る。彼女はトキアミではない! 懊悩に胸が詰まって荒く息をつく。


「髪を切って欲しい」

 メーレは俯いた。そして、耳を赤くして微かに頷く。

 二人は家の裏手に出た。

「座って下さい」

 まだ濡れた髪をメーレの手が梳かす。そして刃を入れた。メーレは丁寧に短剣を動かし、チトフが覚悟していたような痛みは全くと言っていい程なかった。

「あっ……」

 メーレは呻いた。

 チトフは振り返った。メーレの白い指を赤いものが伝う。チトフは目を丸くしたまま硬直する。

「大丈夫です……」

 チトフの髪質が太く硬くなかなか切れなかったのが一因ではあった。

「もういいよ。……ありがとう」

 メーレの額に汗が滲んでいた。しかしチトフはメーレの労苦に報いる術を知らなかった。

 その日を境にメーレがチトフに接する機会が多くなった。晩餐などもメーレが皿に盛りつける。 

「今日は私が……味付けしたんですよ? 山羊の乳を加えてみたんです」

「ああ、それは楽しみだ」

 彼女の手に刻まれた傷を見ると自分の指が疼く。

 

 野は万緑に満ちた。夜も熱気は冷めなかった。

 夏に向けて作り貯めておいた炒炭と鉱石を大量に鍛冶場に運ぶ。鍛冶場は谷の手前に造営されていた。ここも風が強く吹き付けた。

「これが坩堝だ。石英を削って作る。どんな熱さにも耐える」

 白髪男は坩堝を持ち上げて見せた。坩堝は赤ん坊の頭部ほどの大きさをしており、左右に穴が空いている。白髪男は坩堝を窯に取り付け、中に鉱石を入れ炒炭に火を点けた。この邑には火を簡単に熾す技術があった。黒い金属を白い石に打ち付けるのだ。炒炭は炎を出さず赤くなって輝いた。

 もうチトフに文句を言う者は現れなかった。ただ遠巻きに二人を見守って、業を盗もうと食い入るように見つめている。白髪男もチトフも汗でずぶぬれになった。

 やがて鉱石が熔け始めた。  

「ここが最も危険な作業になる。下がっておれ」

 白髪男は地面に石英の板を置く。

「これが鋳型じゃ。作りたい物によって様々な鋳型を使う」

 羊毛に水を良く含ませ、先端に鈎のついた金属棒に巻き付け二本、それぞれ右手左手に握った。

 やがて鉱石は完全に熔けた。金属棒の鈎を坩堝の穴に引っかけると棒を廻す。棒と坩堝が固定される。坩堝を持ち上げると慎重に傾け、地面に置かれた鋳型に流し込んだ。はみ出た金属をこそぎ取ると白髪男は一息ついた。

「あとは待っていれば固まる。そうしたら仕上げとして刃を叩いて鋭く磨き上げ、完成じゃ」

 チトフはその日から冶金の修行に努めた。

 ここの所、白髪男は自身の体力に衰えを感じ始めていた。金槌をチトフに預け、指導に当たった。チトフは一を教えると十を学んだ。目を細め見守る日々だった。

「手はもう治ったからまた髪を切りたいの」

 ある朝、メーレはそう告げた。チトフには人の髪を切りたいという気持ちがよく理解できなかった。二人はまた家の裏手へと行き、メーレは今度こそ慎重に髪を切り始めた。

「メーレの髪は長いままだね」

「そうね。でもあたしは長いのが嫌いじゃないの。暑いのも好きだし」

 メーレの声音は弾んでいた。まるでトキアミの生き写しだとチトフは思った。

 夢見心地のうちに、短刀が髪を削る音だけが静かに響く。

「終わったわ」

 メーレは放心したようにつぶやいた。

 頭が軽くなった。チトフは生まれ変わったように思った。周りもよく見え、涼しい。

「ありがとう!」

 衝動的に、メーレに抱きついた。短刀が地面に転がる。

「ああ、ト……」

 チトフは息を呑んだ。その手から力が抜けるのをメーレは感じた。メーレはゆっくりと目を閉じる。

「ねぇ、チトフ……」

「うん?」

「周りに誰もいないときは、私のこと、トキアミって呼んで?」

 なぜ心が読まれてしまうのだろう。

 これは、なんだ?

 その涙の種類を何と呼べばいいのか、チトフには判らなかった。

 声が、震える。

「メーレは、メーレだよ」


 川上から羊毛を積んだ筏がやってきた。

「今年も暖かな冬を迎えられる」

 人々が浮かれ騒ぎ出す。冶金の季節である夏になると金属器目当てに交易の使者が訪れるようだ。

「武具の類は交換に応じられぬ」

 白髪男が交渉に立っていた。畜産の邑の男がチトフを目敏く見つけた。

「こんな所にいたのか。なあ、うちに戻らないか。お前がいなくなってヘレイが伏せってなぁ……。お前に会いたがってるぞ」

 チトフは答えなかった。体を何か鋭いもので貫かれたように思った。


 今日は目の調子が悪かった。まだ白夜の季節だったが白髪男は勘を頼りに重い体を引き摺るようにして家に戻った。食事も喉を通らなかった。

 もう、自分の命が長くないことは解っていた。

 チトフを前にすると自然と無理をしてしまう。少し祟ったかもしれない。  

「メーレは?」

 ほとんどの時間を家で過ごすメーレが見当たらなかった。妻は答えた。

「さあ? こんな遅くにどうしたのかしら」

 目に入れても痛くないほど溺愛している娘だ。そもそもメーレが箱入り娘になり内向的になってしまったのは自分のせいだ。そう、考えていた。

 白髪男は我が家に眩い光が射したように思った。

 

 その時は突然に、いや当然の如くやってきた。

 チトフは鏡を研磨していた。もっと鮮やかに映らないか思案していた。永訣の鏡と同じ物が作れないだろうか、荒唐無稽だと思いつつも試行錯誤を続けていた。

 邑が騒がしかった。チトフも手を休め様子を見に向かった。

「なんだこの女は?」

「会わせればいいのか?」

「離して!」

 チトフは歩みを止めた。すぐに判った。

 ヘレイの声だ。

 会いたいという気持ちと会ってはならないという気持ちがせめぎ合った。そして振り返ると駆け出した。

「お願いがございます」

 いきなり白髪男に切り出した。

「今、羊の邑から参った者がいるのですが、その者を決して邑に入れぬようにしていただきたい」

 白髪男はくわっと目を開くとチトフを睥睨する。大抵の男は気圧されるが今のチトフは身動みじろぎもしなかった。白髪男はそして穏やかな目で「分かった」と答えた。

「どうしたの?」

 メーレがすがるようにチトフに尋ねる。

 チトフには決めかねていることがあった。

 彼女はトキアミに似ていた。似ているだけではなく美しかった。似ているだけではなく優しかった。似ているだけではなく自分に尽くしてくれた。似ているだけではなく気高さを持っていた。似ているだけではなく才知に長けていた。似ているだけではなく自分を愛してくれた。だが体力は乏しかった。だから。

 チトフは悪戯をするような目で微笑みながらメーレに告げた。

「しばらく家の中にいて欲しい。僕はその間に姿を隠すから。今日は良く晴れている。西日が見えたら僕を見つけて御覧。びっくりするようなことがあるから」

「わかったわ」

 メーレの胸は初恋に燃えていた。

 チトフは鍛冶場に駆け込むと斧を手に取った。鍛冶場を眺め渡した。ヘレイの声が微かに聞こえると我に返り、そして甕やら鏡やらを抱えて一目散に駆けだした。

 

 果たしてヘレイはかつて相対しなかったほどの強敵だった。いかな鍛冶の大家白髪男もこのじゃじゃ馬にはほとほと手を焼いた。

 チトフは一体なぜこの女を遠ざけろと言うのじゃろう。一度会ってやってもいいだろうに。

 口数では到底敵わず、すっかり弱腰になった白髪男は額に汗を滲ませ、一目会ったらすぐ羊の邑に帰ると承諾させて解放してしまった。

 チトフの名を呼びながら二人の女が邑を探し回った。

「まだ見つからんのか」

 白髪男は豪放磊落安逸に構えていたが晩餐の時になってもチトフが現れないのをみるとさすがにいぶかった。

 あしたは平然とやってきた。木をへし折らんばかりの大風が夏の終わりを告げていた。

 白髪男も邑を出、娘と共に捜索に出た。

「ライ麦が、こんなにも……」

 畑に青々と茂った穂がこうべを垂れ、風に翻弄され右往左往し、ざわめいていた。メーレはチトフが手を振っているように見えた。メーレはチトフの髪を抱えていた。吹き荒ぶ風に流されぬよう必死に握り締めていた。

「どこに行ってしまったの……」

 白髪男には思い当たる節がないわけではなかった。しかし飛んでいきそうな愛娘を見て今は忍び、ぐっとはらに収めた。

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