第3話 畜産の邑

「ね! 手を繋ごう!」

 どう答えようか思案する前にヘレイは僕の手を握って意気揚々歩き出した。

 犬もつれて歩き出す。すると羊もそれにつられてぞろぞろと歩き出した。犬の尾は左右にぶんぶんと勢いよく振れ、殊更目を惹いた。犬が羊を挟む形で左右に控え、一団の隊形を乱さないよう見張っている。

 見渡す限り雪景色でなかなか草原は見つからない。

 じきに、いくつかの家が視界に入った。故郷の集落を思い出す。

 粘土や石を固めて作られた家はほとんど崩れかけていた。

「ここはね、二年前、私達が襲って滅亡させたんだよ! 凄いでしょ!」

 屈託なくヘレイは微笑む。

「……ああ。凄いね」

 チトフは戸惑いながら答えた。家の中に入り、どんな生活をしていたか、何か学べることはないか、目を凝らす。

 床が黒く汚れている。煤だ。酋長が火を使えるのはうちだけだと得意気に話していたがこれを見ると疑わしいものだ。どこの人々だって火をつかっているんじゃなかろうか。更に探索していくとひび割れたかめの中に麦らしきものが付着している。

 チトフは家を出るとヘレイを連れ、また草を求めて歩き出した。お腹が空いているのか、若い羊は気が逸って我先にと駆け出す。それを犬はまたぶんぶんと尻尾を振るって駆け寄ると叱って逸脱しないようにたしなめた。犬の習性は興味深いものがあった。まるで人間に尽くすために生まれてきたような動物だ。

 冬の日照時間はわずかだ。急がねばならない。

「……やはりそうだ!」

 突然チトフは走り出した。

 雪を掘る。するとそこから焦げ茶色の草が現れた。凍ったままで腐っていないものもあった。先端にずっしりと種を付け、すっかり枯れた麦穂がその重さに堪えかね身を屈している。そうして、チトフを待っていた。

 

「この湿原にどこから水が流れ込んでいるか分からないか?」

「……ここに流れ込む小流がある」

 水源は程なく見つかった。チトフは水の流れを崩し、拡げて水路を作った。畑に簡単な灌漑をしつらえる。雨が降らない時期には人工的に水を与えた方がいいのではないか。畑にある程度の水分があった方がよく生育するという推測がチトフにはあり試してみたかったのだ。

 以前集落にいたときにもこの考えはあった。しかし酋長に意見するなど考えもしなかった。

「これね、チトフの為に作ったの」

 ヘレイはそして初めて作った服をはにかみながら差し出した。チトフはその場で着替えてみせた。このむらの女達は羊の毛を毟っては棒に巻き付けて糸を紡ぎ、骨製の縫い針で様々な布製品を編んだ。

 しかしヘレイは紡織のような細かい作業が苦手だった。

「ありがとう」

 不格好な服ではあったが、純粋に嬉しかった。

「ねぇ、チトフ、縄の綯い方を教えて?」

 チトフは邑の誰も知らないような知識を持っていた。狩りはからっきしだったが邑人の一部には聖人のような扱いを受けた。

 ヘレイは、いつもチトフに付き添った。羊たちの面倒を他人に任せ、何かとチトフの世話を焼いた。ヘレイは変わり者だった。男に言い寄られてもみんなすげなく断り、小さな体で邑外を出歩き男の仕事もみんな自分でこなしてしまった。チトフを村に連れてきたのは他ならぬヘレイだ。


 この邑の者は動物を飼育し、従わせる術を知っていた。いくつかは食べるために飼育されており、豚肉の旨さには驚かされた。とてもこの世のものとは思われぬ濃厚な味わいには感動すら覚えた。羊は肉も美味しく乳も出してくれたが、特にその体毛は固めて布にすると保温性が高く冬の寒さも気にならないほどだった。兎は飼ってみるとなんとも愛らしく、殺すのがかわいそうに思えた。人間にとって美味しいとは思われぬ物を食べ栄養とし、野生にあっては得難えがたい肉と成す。なんと素敵な仕組みなのだろう。犬は狼とは異なり人に従順で、聴覚と嗅覚に優れ、信頼を置く人間の言うことを理解し助け、猛獣には勇敢に立ち向かった。人間の赤ん坊が泣き出すと長く吠えて慰め、面倒を見た。ただ、家畜の排泄物のおかげで邑の放牧地や畜舎はひどく臭った。これにはチトフもなかなか慣れなかった。


 畜産を手伝う際に、十進法というものを習った。この方法を使うと沢山の動物を数えることができ、十の位さえ覚えておけば一の位は指を折って数えることができ動物の管理に役立った。また、この邑は川と隣接しており大変便利だった。川上からいつも新鮮な水が流れてくる。筏を造り下流の邑に羊毛を運ぶと、帰りには硬い輝く素材で造られた壺や竈を担いで帰ってきた。


 不思議な感覚だった。

 生まれた集落ではいつ殺されてもおかしくなかった。男女問わず陰口を叩かれチトフは嘲笑の的だった。しかしこの邑では人に指導する立場だ。自分がの酋長になってしまったかのような錯覚を覚え怖くなる。

 僕は何も変わっていないのに。生まれ変わったかのような錯覚。


 動物達は生まれたその日から生活するための方便を知っていた。人間であれば親から教わるようなことも誰から聞いたわけでもないのに理解し、実践した。それとも、彼らの言葉で何か話していたりするのだろうか。 

 もしかしたら、人間も動物もそう変わらないのかもしれない。

 そう、チトフは考えるようになった。動物も交尾をし、やがて子を成した。恋もしているかもしれない。どの生き物も恋をして、そうして代を重ねるのかもしれない。雄と雌は恋をするようにできている。恐ろしいことだ。もちろん僕も。

 こんなにも簡単に人を好きになってしまう。 

「ねぇー、チトフぅ! すごいよ!」

 ヘレイがぐいぐいチトフを引っ張っていく。その笑顔は愛くるしく、胸を鷲掴みにされてしまう。活発で躍動的な一挙手一投足は微笑ましく、危なっかしく、何をするか不安にさせられ目が離せなかった。

「ほら!」

 チトフはそっと安堵した。チトフが麦を草原に蒔くのだと話したときの、邑の住民の唖然とした表情がまだ脳裏にこびりついている。

 たわわに実り頭を垂れて、麦畑は橙色に染まっている。夢見心地になったチトフにヘレイが体当たりを食らわし、チトフは呆然と斜面を転がり落ちた。

「もう! 無視しないで!」

 どうやらヘレイが何か僕に喋っていたのだろう。気がつかなかった。

 山脈の稜線が黄色に縁取られ、夏の夜を彩っている。空は真っ白で麦はいつまでも光を受けてすくすく伸び、色を濃くしていた。

 二人は残り少ない暑気を噛みしめるようにしながら、寄り添っていつのまにか寝息を立てていた。

 

「おおい! 竈の準備をしてくれ!」

 邑に帰って来るや否や男達は叫んだ。

「ちょっと待って欲しい。これを食べてしまったら来年はどうする? 今は食べるものに困っていない。備蓄しまた春に蒔いて殖やすことを考えるべきだ」

 男達ははぐらかすように笑って言った。

「毎日肉ばかりで飽きているんだ。今日ぐらいはいいじゃないか」

「今回穫れた分は決して多くない。十分な量を収穫してから贅沢はするべきだ」

 と、ここまで言い渡すともう、チトフに口答えしようとする者はいなかった。

 複雑な気分になった。

 ああ、自分はますます酋長に近づいていく。

 酋長の先祖が収穫したライ麦を管理した、それが酋長の一族が指導者になったきっかけだったという。その人が人格者だというのは確かだったようで、人々が農耕をするために集まり暮らし始めたのもその代かららしい。


 この邑の者達は親戚一同が寄り添い同じ家に住む。しかしチトフは余所者だった。独り、邑外れの掘っ立て小屋に暮らしていた。来たばかりの頃は狼にでも喰われるのではと怯えていたが、犬達が報せてくれるので存外安全だということも判った。

 今年も秋は駆け足でやってきた。空は相変わらず不明瞭で今宵も月は霞んでいる。虫の声は去年と比べてもおとなしい。寂しい夜空はかつての集落から見えるものと何も変わらない。一人、晩餐を平らげると寝床から初秋を楽しんでいた。

 ここでも夜空は故郷と変わらなかった。南には故郷でもよく眺めていた星が輝いており、チトフの心を支えてくれる。

 いっそのこと、この邑にずっと住んでしまおうかとも考える。生まれた集落よりずっと快適だし食べ物に困ることもない。

 でも。

 やはり生まれ育った地には特別な感情があった。夢にさえ見る。

 そして、トキアミがどうしているだろうか、酋長亡き後の集落はどんな様子だろうか、思いは募る。

 何より、幸福は恐ろしいものだった。

 ざすっ。

 物音がして驚き立ち上がった。……長方形の影が玄関に立っていた。

「入って、いいかな?」ヘレイの声だ。

「うん」

 ヘレイは何か大きなものを抱えていた。

「新しい布団ができたからさ。これ使って?」

「ああ、ありがとう」

 こんな夜更けに……。チトフは何か掛ける言葉がないか思案していた。

「今晩はここに泊まっていこうかなあ」

 チトフが何も言わないと見るとヘレイは悪戯をするときの顔で跳ねるようにチトフの隣に座り込んだ。

 チトフは相好を崩さなかった。ヘレイは急に神妙な顔をして。

「ねえ、トキアミって誰?」

「えっ!?」

 必死で記憶を手繰る。

「僕、いつトキアミのこと喋った?」

「呟いてたの」

 一体、いつ口にしていたのだろう。言われてみれば、いつも呟いていたような気もするし、しかしそんないくらなんでも口にしているのだろうか? チトフは頭を抱えた。

「女の……人?」

「……うん」

 でも、少なくとも人前でトキアミのことを話したりしないはずだ。狼狽し、目を白黒させているとヘレイがふっと頭をチトフの胸に乗せた。そして、見上げる。

「あたしを、トキアミの代わりにして?」

 もし、チトフがもっと後の時代に生まれていたら、チトフは理性ある行動を取ったに違いない。チトフは先天的にそういう性質だったからだ。しかしこの時代、宗教も確立されていなければ学校も警察もなかった。いわば各々が人間としての本能で判断を下し、生活していた。夫婦、という概念もなかった。恋の定型セオリーもなかった、もしくは曖昧だったため誰もが手探りだった。

 ヘレイと出逢ったとき。彼女が身に纏っていた服が初めて見る羊毛だったから、体中に毛が生えているように見えた。……まあ、気も動転していたし。こんなに小さな体で、羊たちに草を食べさせるために、草原を駆け回って。


 邑の男には興味が湧かなかった。彼らの手を撥ね除けて邑の外に飛び出した。

 チトフは、邑の男とは明らかに違った。腰回りが細く、四肢は長く色が白く鼻梁が高い。一目で彼の虜になった。言葉は通じなかったが、すぐに意思疎通ができるようになった。おまけに彼は博識で、色々なことを教えてくれる。何より優しかった。

「ねぇ」

 チトフは微動だにしなかった。その胸に頬を寄せる。

「好き、だよ」


 ヘレイは夢の中で、まだチトフの腕の中にいた。夜が明け、微睡み、そして大きな双眸を開いた。

「チトフ?」

 仕立てたばかりの羊毛布団はチトフがまだそこにいるかのような錯覚をヘレイに与えていた。

「チトフ!?」

 チトフの住んでいた小屋はヘレイの他に誰もいない。私はまだ夢を見ているのだろうか。それとも、チトフの存在自体が夢だったのだろうか。

 チトフの槍はなかった。嫌な予感がした。

 ヘレイは走り出した。

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