チトフの旅

第2話 優しさは弱さと似ている

 震えが止まらなかった。

 見上げる。

 今日も太陽は姿を現さなかった。灰のようなものが空から降ってくる。

 長老は譫言うわごとのように災厄という言葉を吐き出した。

 我らの行いのせいじゃ。太陽かみの怒りを鎮めねばならぬ。

 今日も贄を。今日は年老いた男を。

「助けてくれ! 俺はまだ健康だ! まだまだ生きられる! 狩りもやれる!」

 男は四つん這いで転がるように駆け出した。それを長老の眷属達が悠然と追い回す。そして男は僕の足を掴んだ。

「そうだ。チトフだ。役立たずのチトフを代わりに殺そう!」

 男は大きな石を手に取った。僕は黙然と立ち尽くす。

「いい加減にしろ」

 棍棒が唸りを上げた。微かな悲鳴が漏れ、やがて断末魔の声と頭部が穿たれる音が響き、じきに動かなくなった。人々がそこに群がる。


 酋長が望むままにしても一向に空は晴れなかった。むしろ日をして体は冷える。

 闇に白い息がとけていく。そして横目で男が解体される様子を眺めながら葛を撚り合わせ、縄を綯い続けた。役に立たなければ、殺される。

 せめて、この縄が狩りの役に立てばいい。

「どこか行けよ。お前の分はない」

 痩せこけた屍などでは到底皆の腹は満たされない。僕にはひとかけらも与えられそうになかった。痩せた顔もあってか人々の目は皆、尖って見える。僕は人間として認識されていない。

 肉だ。肉として見られている。

「焼くと肉が小さくなる。生焼けで食べた方がいい」

 男達が僕を睨む。僕は一人、いい匂いが漂い始めた火の周りを離れる。ただひたすら唾を飲み込む。悄然と泣き濡れた。ここに留まってはいられない。跪き、森の精霊に祈りを捧げる。棒を担ぐ。木の陰、草の茂み、懸命に目を凝らす。


 実のところ、誰よりも危険な敵は同じ集落の人間達だった。

 事故死が多発していた。いや、事故ではない。

 殺されているのだ。死体はもちろん同じ集落の者に食べられる。こうやって単独行動するときは細心の注意を払わねばならない。

 肉が食べたい。

 チトフの頭の中で肉の味が延々と駆け巡っていた。歯を立て、脂を舐め、血を啜りたい。チトフだけではない。誰もが日頃から肉が食べたいと口々に言っていた。四六時中、肉のことを考えない時はない。

 暗がりに鈍い音がした。こんなところで死んでたまるか。チトフは走り出した。まただ。誰かが僕に石を投げつけている。

 獲物の数が減ったと男達が言っていた。酋長曰くこれも我々が犯した罪が原因らしい。兎一匹見当たらない。鬱蒼とした森の中に分け入る。

 闇の中で茸が白く仄光り、穏やかな燐光を放っている。思わず手が伸びそうになるが、この茸を食べて何十人も死んでいる。生唾を呑み込んで堪えた。

 また何か光る物が見えた。二つ。目だ。茶色の毛。チトフの身の丈二倍ほどもある巨軀。前足だけでチトフの全身を超える大きさだった。前屈みになり僕を見つめる。真っ赤な舌が覗く。吠えた。空が震える。木々がかぶりを振る。僕の腹に振動する。響く。畏怖と畏敬で胸が一杯になり、呆然としたままただただ見上げる。


 熊だ。生きているのを見たのは初めてだ。

 身を屈める。小枝がか細く哀願しながら折れ落ち、熊が近づいてくる。

「ごめんなさい! もう来ないから許してください! 許して……」

 言葉が通じるはずもなく、熊は四つ足で迫り右腕を振り上げた。

 最期に脳裏に浮かんだのは、そう――。

「チトフ! 伏せてッ!」

 トキアミだ。空気を切る音。僕は驚きの余り硬直したまま動けなかった。

 熊の頭に木が生えた。赤いものがどくどく流れ落ちる。いや、木ではなかった。槍だ。熊はしばし立ち尽くしていたかと思うと前のめりに倒れ、痙攣し始めた。

 振り返ると木々の間からカンドゥクの顔が覗いていた。眉と切れ長の目と薄い唇が吊り上がり、手から投槍器アトラトルがぶらさがっている。

「がぁ……ありがとう」

 緊張から変な声が出た。カンドゥクは僕を一瞥もせず熊の腹に剣を突いてとどめを刺し、掻っ捌く。

 カンドゥクの漆黒の剣は誰が見ても異質だった。切っ先は鋭利で妙に光沢があり刀身は水面のように顔が映った。解体された熊肉を担ぐとカンドゥクはさっさとその場を去った。

「だいじょうぶ?」

 熊の血の臭いに紛れて、甘い匂いが漂う。いつの間にかトキアミが側に立っていた。たおやかにしゃがみこみ、僕の顔をのぞき込む。それだけで胸が高鳴った。冷や汗をかいた体が熱を帯びる。


 トキアミはいつもカンドゥクの隣にいた。

 僕は無言のまま立ち上がった。何か言葉にすべきだと解ってはいた。しかし気恥ずかしさが先に立ちトキアミに背を向けた。熊の腕を抱え、集落に戻る。 

 カンドゥクは英雄だった。口数は少なかったが言葉には不思議と説得力があり誰もが耳を傾けた。良い兄貴分であり、狩りの達人であり、類い稀なる戦士だった。

 肉を裂き毛皮を剥ぎ棒に刺し、火に向け炙る。炎は毛を剥ぎ取り、肉汁が溢れ輝く。

「山の神をはじめとする精霊達からの贈り物じゃ。神々に御礼申し上げる」

 一人カンドゥクは立ち上がり、夕暮れ迫る森中に消えた。酋長は何も言わなかったが目が吊り上がった。

 しばしの中断の後、カンドゥクの姿が見えなくなると酋長が広場に一枚の鏡を携え、厳かにやってきた。集落に代々伝わる秘宝『永訣の鏡』。両面は真っ青に輝き、明るい時分なら完璧に姿を映す。鏡を祭壇にしつらえると祈祷が始まった。酋長の眷属が上座を占めた。皆やせ細る中、一族の者だけが肌艶良く、酋長の言葉をひたすら大声で追い、礼賛し、拝礼し続けている。

「太陽の子よ我らに姿を見せ給う。我ら其に永遠に遣えん。願わくは早くお姿を顕現なさいませ……」

 生唾を呑み込む。もう何日も碌に食べていないのだ。チトフを今日まで生き永えさせていたのは十四歳の若い生命力だった。祈祷はまだまだ終わりそうにない。しかし感謝を怠ると二度と肉が食べられないかも知れない。チトフも額ずき、開手を打ち、大声を張り上げた。意識が揺らぐ。景色が霞む。ああ、これが神の恩寵か。チトフはふかく大地に畏った。

 祈祷が終わると人々は熊に群がる。熊肉は瞬く間に消費された。この時ばかりはチトフも幾ばくかの肉片にありつくことができた。

 腹が満たされると男達は女達の手を引き暗がりへと消えた。じきに嬌声があちらこちらから木霊こだました。チトフは膝を抱えてぼんやりと夜空を眺めていた。

 沢山の人がいればいるほど孤独感に苛まれた。


 ああ、空が近い。この時期、空が闇に閉ざされるのはほんのひとときだ。あっという間に空は白み、東の空は朱色を長く留め、見る見る間に太陽が出る。秋が近づくと南の空に一際明るい星が現れ、チトフの目を捉えて放さなかった。青白く、地表に近い位置で異彩を放つ。空を眺めるのにも飽きて、すっかり緊張した首の筋肉を弛ませ視線を降ろすと。

 女神が、座っていた。

 トキアミ。

 男であれば誰の目にも彼女は魅力的に映った。透明感の強い水色の澄んだ瞳、手を触れただけで一生残る傷がついてしまう、そんな錯覚に襲われるような白い肌、乳房は狼の毛皮を押しのけ図らずも驕慢に主張をし、トキアミは楚々とした佇まいでただ座して次々と薪を貪る火を見つめていた。トキアミの首元がちらり光を放った。遙か北方から交易を次いで来た貝殻の首飾り。それはカンドゥクがトキアミに求愛する際に送ったという話だ。それは女達の羨望の的だった。

 チトフは火を挟んでトキアミの反対側に腰を下ろした。トキアミは炎に煽られ揺らめき長老の物語る冬の女神かと見紛う。そこに自分がいるだけでひどく申し訳なく思われた。

「つい引き込まれるように見つめてしまうわ」

 トキアミの声が転がる。

 ようやく、ああ火のことかと気づいて恥じ入り、トキアミと一緒に火を見ていた。


 一瞬が永遠だった。トキアミとこうして二人でいるだけで空も飛べるような気さえする。

 今日の火守かがみはトキアミだった。火は暖を取る上でも調理の上でも光源としても野獣を遠ざけさせる上でも決して絶やすことができない。

 トキアミは誰の目にも魅力的に映った。しかしトキアミには誰も手を出さなかった。

 カンドゥクの、女だったからだ。


 ようやく男達から解放されたのだろう。年端もいかない少女が跳ねるように戻ってきたかと思うと装身具でも造ろうとしているのだろう、闇の中で真っ白な滑石に細工を施している。

「そんなものいじる暇があるなら茸の一本でも探してきな」

 母にたしなめられ、少女ははたと手を止めた。動きが止まりうつむいたまま、細い指が冷たい石をなぞる。

「チトフ」

 酋長が、僕を見下ろしていた。その背後に酋長一族の者が控え、無表情にこちらを見遣る。トキアミがぴくり、震えた。

 酋長の一族だけは皆肌艶良く、一人としてやせ細った者はいなかった。集落の人間が今で言うと二十歳を超えずに死んでいく中、酋長は実に齢三十を数えた。「誰よりも敬虔に神々に帰依しているからだ」彼らは口を揃えた。

ぬしに、使命を託したい」

 チトフは身じろぎもしなかった。驚きの余り、驚いた顔をするのさえ忘れて。

「近いうちに動かぬ星に向け探検に出よ。我ら誠心誠意の祈祷にも関わらず皆の不信心故、木の実は食べ尽くされ生らず、麦は不浄のものに冒され息を顰めてしまった。新たな住むべき土地を探せ」

 酋長は神々の代弁者だった。すなわちその言は絶対的だった。「この地は先祖代々受け継がれてきた神聖な土地じゃ。離れることまかり成らん」と酋長は事ある毎に言っていた。

 チトフは暗澹とした思いに苛まれ、黙りこくっていた。その沈黙は了承と解釈され、長老の一族は住処たる洞穴へとさがった。

 トキアミはチトフの隣に座り直した。

「行くの?」

「……拒否なんてできるわけないよ」

「……そうだね」

 どんな表情かおをしているか気になったが、チトフは俯いたまま、怖くて暖かな火に無表情に目を遣っていた。気が触れそうだった。火に飛び込みたい衝動にひたすら駆られていた。

 周辺から響き渡る声が、チトフを変な気分にさせた。いい匂いがした。いっその事攫って逃げようか。しかしトキアミの顔すらまともに見られないのにそんなこと、できようはずもない。

 こんなに近くにいるのに、決して手に入らない。

「でも、長老も酷だよね」

 チトフはトキアミの次の句を待ちながら自分の双肩にかかる使命を思い、身震いした。そしてトキアミの期待に応えたいと決意を新たにした。理想郷を発見し、悠々と凱旋して見せればトキアミだって或いは――。

「……口減らしなんてさ」

 ?

「貴方が一人で生き残れるほど、外の世界は甘くないわ」

 チトフは臆病者だった。男の癖に碌に狩りもできなかった。女に混じって縄を編んだり木の実を採って生計を立てていた。しかし近隣の植物は採取し尽くされつつあった。

 ……勘違いを、していた。

 顔を上げられない。

 悪気があったわけでは……。

 トキアミはきっと僕を思い止まらせようとしている。僕が、敢えなく死ぬと思っている。

 僕のことを、狩りもできない役立たずだと思っている。

 確かに口減らしなのだろう。そしてより住みよい土地を見つけるべきなのも確かなのだろう。もう、ここは限界だ。

 炎が膨張する。その輪郭が曖昧になり、崩れた。チトフの目が熱くなり、やがて冷える。

 チトフはトキアミに背中を向けて立ち上がると、隠れるように岩場に駆けた。もう明るい夜明け、チトフの姿を隠してくれない。

 

 仄暗い太陽が上る。

 チトフはまだ岩場に留まっていた。手頃な大きさの石を見つけると、持ち上げては地面に叩きつける。時折、持ち上げた石に誰かの顔が浮かんでは消えた。剥片の中から具合の良さそうなものを選び、葛縄で括り付ける。

「しっかり削った方がいいわ」

 いつの間にかトキアミが側に立っていた。その目が今完成したばかりの槍に注がれる。

「こうやって岩に擦ると鋭くなって、しっかり獲物に突き刺さるわ」

 トキアミの知識一つ一つに、カンドゥクの影が覗く。そうしてできた穂先は神の被造物を思わせる滑らかさでしかし先端だけは鋭いのだった。

 トキアミに何のお礼の言葉も掛けられず重い足取りで集落に戻ると、深く深く胸の奥に溜まった息を吐き出した。

 集落はちょっとした騒ぎが起こっていた。

「狩りから戻って来ない者がいる」

「猪にやられたようだ」

「死んだのか? 遺体は残っているのか?」

「カンドゥクは一緒じゃなかったのか?」

 不穏な集落の空気が一変する。振り向くとやはりカンドゥクだった。老若男女十重二十重に輪を成し狩りの成果を尋ね、狩りに出てくれとせがむ。しかしカンドゥクは一瞥もくれず大股に歩みどこかに行ってしまった。いや、カンドゥクは一目チトフを見遣った。チトフはどきりとした。眼光の鋭さに身が竦む。

 久しぶりに意思の宿った目だな、と感じた。最近のカンドゥクは悲壮感に打ちひしがれているように見えた。昔、カンドゥクが岩場で見つけたという光り輝く石を見せてくれたことがあった。カンドゥクは聡明で、子供ながら陥とし穽をこしらえ、獲物を捕まえた。あの頃は僕もカンドゥクもみんな等しく仲間だった。今は何だか遠い人になってしまった。昔は見るもの全て輝いて見えた。誰かが死ぬのを内心喜んだりはしなかった。

 今は目に見えるもの全てが敵に見える。……トキアミだけは違うけど。

 今日も空は晴れなかった。腹が鳴る。チトフの幼い頃はこんなに簡単に空は望めなかった。冷たい風も入ってこなかった。木々が集落の周りを囲っていた。山菜や茸が豊富に採れた。野苺、銀杏、桑の実、椎の実、オンコの実、エンドウがっていた。ツツジやサルビア、ホトケノザ、レンゲのように蜜の出る花もあった。今は苦い雑草を囓って空腹を紛らわす。それもシロツメクサやペンペン草などの癖のないものは姿を消し、樹は薪に採られ村の周辺から植物が姿を消しつつあった。

「これを見てくれ!」

 雷鳴かと聞き紛う。突然、カンドゥクの声が轟いた。木霊があちこちで目を覚まし、戯れるようにカンドゥクの真似をする。

「お前、酋長様になんという口を叩くのだ」

「知っての通り、酋長の一族は誰一人として痩せておらず、餓死もしていない。それもその筈」カンドゥクが皆の前に陶器を持ち出す。真新しい籾痕が見て取れた。

「洞穴の奥で酋長の一族だけがこうして粥を食べていたということだ。俺の見立てでは、畑に籾を蒔いたという話は嘘だ。もう、蓄えていた麦は食べ尽くし蒔く麦などない。最近になって働けなくなった者達を贄と称して殺していたのはそのせいだ。『秋になったら豊作になる』と言っていたがこれも出任せだ」

「カンドゥク……」

「だっておかしいだろう? 誰も種蒔きを見ていない。畑を見てみると一本の苗すら見えない。例年なら……」

「それは皆の衆が……」酋長が口を挟もうとする。しかしカンドゥクは構わず続ける。

「神なんていない。酋長の世迷い言だ。我々の手足に触れ、目に見えるものだけが真実だ。酋長が自分の都合のいいように解釈し喧伝する観念的で空想上の存在だ」

 酋長はゆっくりと唾を飲み込み、一同を見遣った。その背後、血色の良い一族の者達が石斧や石槍を抱え、ぎらぎらとした目をカンドゥクに向けていた。

「酋長の一族が五代に渡ってすべて思うがままに集落を統治してきた。しかし革めるときが来たのだ。すべて言われるがまま従ってきたがもうこりごりだ。酋長の預言は当たることもあるが最近は外れてばかり。そんなときは決まって俺等の行いが悪かったので神々が罰を科したことになる」

「賢明なる諸兄姉よ。カンドゥクの言と儂、どちらを信じよう」

 一同の瞳は顔から顔へと彷徨い、忙しなく動く。誰もが息を呑む。酋長の瞳孔は瞬きを忘れ、荒く息をつき、口を開き、滑舌曖昧不明瞭な言葉を絞り出す。

「許されざる冒涜じゃぞカンドゥク。如何な主とて看過するに余りある」

 酋長の子等が息を荒くする。その鋭い目はカンドゥクを貫いて背後のトキアミに突き刺さる。トキアミは男達が自分を見る目に常に嫌なものを感じていた。「助けて」と蚊の鳴くような声で囁きカンドゥクの背中を押す。


「カンドゥク。貴様の体には、儂の血が流れておる」

「は?」

「貴様は赤ん坊のときから体が異様に大きく、またも不具が産まれたと判断され、棄てられた。しかしあろうことか産まれて間もない貴様は地面に叩きつけられても息絶えず、周りの葉の汁を吸って生き延びようとした。それを不憫に思った女がお前を抱き上げ、秘匿し育てた」

「それで、粛正されたってわけか。俺の育ての母は。

 物心ついたときには俺は独りだったものなあ! ……なんてな。誰がそんなこと信じるか」

 酋長はもごもごと口を動かしていたが、じきに黙した。

 カンドゥクの面に炎が宿る。豁然駆け出すと猛然、黒曜石の剣を振り上げた。

 カンドゥクは集落の守護神だった。猛り狂った野獣が何時如何なる時侵入しても、電光石火駆けつけ斬り伏せた。

 守護神が今、牙を剝く。酋長には目の前で起こっている現実が把握できなかった。この男は大変便利な存在で、自分たちの命令を何でも聞いて、尚且つ即座に的確に応えて。剣は横殴りに振るわれ、首を刎ねた。噴き出す血を浴びながら返す刀でもう一人を手にかける。

 酋長の一族は栄養状態良好で、カンドゥクに見劣りしない体格だった。しかしカンドゥクの体は一目瞭然、筋骨隆々。腹の弛んだ男達とは存在感と戦士としての場数がまるで違った。

 これは夢か幻か。身動き一つできずただ狼狽えるだけ、不意を衝かれまったく反応できぬままに虚ろな骸が地を埋める。不意打ちは本来、酋長の得意とする所だった。誰にも遠慮することなく、咎められることなく、反骨の気ありと見るや即座に処分し今日までの地位を存えてきた。

 カンドゥクは今日までの酋長のやり方をずっと見てきた。首尾良く機先を制し今、酋長を護る者は一人残らず斃れた。暗がりから息を押し殺したような声がする。

 血の滴るカンドゥクが酋長の前に立つ。酋長はぴくり、震えた。そしてひび割れた顔に多種多様な表情を巡らせ目を剝きカンドゥクの血河流れる黒剣を眺め顔を強ばらせまだどうにか我が身を処する術を思案して、最後にため息をついて。

「女子供の無事は約束してくれ」

「承知」

 カンドゥクは積年の、思いの丈をぶつけるように得物を振り下ろした。


 洞窟の中は楽園だった。雨や雪の心配は要らず、風も入って来ず暖かい。

 代々、一族はほとんどの時間をここで過ごした。食べ物や水は集落の者に運ばせ、毎日食べて寝て安楽に過ごし、一族内で子を成した。畸形が産まれることもあったが遺棄し一切を秘された。

 その兄妹はとある姉弟の間に産まれた。 

「あんなことを言っておいて私達は殺されるに違いないわ」

 お母さんはボクに干し肉を沢山持たせた。

「なるべく遠くに逃げるのよ。私達も後で追いつくから」

 広場から大きくて怖い声が響く。

「今この時より集落は俺が管理する」

 背筋が寒くなった。優しかったパパも、おじちゃんももういない。

「行こう」

 妹の手を引き走り出した。

「どこに行くの?」

 集落の外は初めてだった。鋭い石が足裏に食い込む。植物の匂いに胸がいっぱいになる。夢のような悪夢のような世界がそこに開けていた。見渡す限り未知の世界。おじちゃんがよくお話してくれた大冒険が待っている。

「お外って怖い怪獣がたくさんいるんじゃないの?」

「だいじょうぶだ」

 自分に言い聞かせるように答える。

「大きくなって、強くなってここに帰ろう。カンドゥクをやっつけるんだ」


「どこに隠した? 言わないと何をするか判らないぞ……」

 カンドゥクのこんな顔は初めて見た。

「本当に知りません」

「さっきまでそこにあったんです」

 それは集落の秘宝だった。

「チトフ。探すのを手伝ってくれ。どうしても見つからないんだ」

「うん」


 初めて見る洞窟の中は貯められていた宝物が山積みになっていた。掻き分けて鏡を探す。

「おら、あのいい匂いのする木片が欲しいだァよ」

「熊の頭蓋骨がいい。傷が付いてない。あれを被りたい」

「キラキラした釣り針がある。あれで魚を捕りたい」

 洞窟の外には物欲しそうな目が並んでギラギラこちらを覗いていた。

 ない。

 何度探し直しても鏡は見つからない。

 僕が選ばれた理由はおそらく、こっそり懐に入れたりしそうにないからだろう。悪い言い方をすると舐められているのだ。

「チトフ」

 どきりとした。

「人間はどこまでも欲深だ。願望は尽きない。心が擦り切れるような思いがしないか?」

 カンドゥクは何を言っているのだろう。今日のカンドゥクは何かに憑かれているのかもしれない。

「人は己の力が及ばぬとき、何かにこいねがう。しかしその祈りは、何の力ももたらさない」

 チトフは手を止めた。カンドゥクは続ける。

「その膨大なおもいが、どこに行くか」

 チトフは振り返る。

「永訣の鏡だ。永訣の鏡はありとあらゆる生き物のおもいを呑み込んで、抱え込む。世界でただ一つ、あの鏡だけが超自然的な存在だ」

「でも、どう考えても神様が起こしたとしか思えないことがたくさんあるじゃないか」

「思い込みに過ぎない。弱い心の産物だ。祈りは決して届かない。永訣の鏡がある限りは。すべての神秘を永訣の鏡が呑み込んでいた。永訣の鏡がある限り、この世に不思議は起こらない。つまりだ、永訣の鏡が力を失うとき、人の思ったことが叶うかもしれない」

 そんなの、夢物語だ。

「そのとき、一本の線は二本に分かれ、二つに世界を分かつと云う」

 カンドゥクが立ち上がった。振り返ると待ちきれなくなった人々が黒山を成して入り口を塞いでいる。カンドゥクは食料を見繕い、分配し始めた。いつ殺されるだろうと悲嘆に暮れる女達が広場の一角に固まって啜り泣いている。

「カンドゥク、お前は今、父親を殺したのだぞ……」

「何を言ってるんだ。あんなの出任せだ」

「やはり知らなかったようだな。お前は生まれつき片目が見えなかった。だから捨てられたんだよ。そしてお前は赤ん坊のくせに山から這ってここまで戻ってきたのだ」

「何を言ってるんだ」

「酋長の命で秘中の秘とされていたのだ。ではカンドゥク、お前の親は誰だ」

「何を……」

 少しずつ、何かを思い出していったのかもしれない。思い当たる節があったのかもしれない。カンドゥクの顔から色が失せていく。

「親が誰であろうと関係ないじゃないか」

「カンドゥクは酋長に育てられたわけじゃない。いくら親だと言っても……」

 人々はカンドゥクに同情的で、擁護するような言葉を掛けている。酋長の一族に向かって石を投げる者もいた。

 トキアミはどれほどカンドゥクが好きなのだろう。考えれば考えるほど嫌になる。カンドゥクはこの集落になくてはならない存在だ。そうだ自分も救われたのだ。感謝の念に堪えない、はずだ。それは理解している。しかし自分の中でカンドゥクを認める気にはどうしてもなれなかった。そしてその理由も明確だった。そんな自分を嫌悪して、もやもやしたものが胸の中に残った。

 トキアミは不満そうにチトフの顔を眺めた。

「僕、やっぱり行くよ」

「どうして?」

 予想通りの表情がチトフに向けられた。チトフは奥歯を噛み締め、口をつぐんだ。

「やめてよ。死ぬ気なの?」

 そうだ。死んだ方がましだ。

「外の世界を見てみたいんだ」

 そうだったのか?

 もしくは。

「無理だよ。……死んじゃうよ」

 トキアミの言葉がチトフの胸を完膚なきまで散々に刺し貫いた。堪えかねて立ち上がった。寝床に戻り真新しい槍を手に取る。他に持っていくものがないのが心細くなる。もう自分を抑えきれそうになかった。沼に口を付けこれでもかと緑色に淀む水を飲んだ。目に見える全ての風景を目に焼き付ける。最後に峻厳な白き衣を身に纏う山々を眺め渡して。

「行ってくる。きっと戻ってくるよ」



 誰かが言っていた。おそらくカンドゥクだろうが。

 北には世界の果てがあり、大きな集落が豊かな生活を送っているらしい。また、怪物が跳梁跋扈し瞬く間に喰われてしまう。自嘲する。そうやって気を紛らわす。

 僕なんて生きながら死んでいるようなもの。惜しむ命もない。

 集落の男達のせいで木々は見当たらず、一帯は荒涼とした丘陵地帯が続いていた。

 水で飢えは癒やせない。旅立って間もなく空腹を覚えた。しかし飢えより恐ろしいのは乾きだった。身を隠す上でもなるべく緑生い茂る木々の下をくぐっていく。右手に白い花が群生していた。三槲ミツガシワだ。チトフはそちらに進路を取った。周辺を見回すと期待していた通り水が湧いており、そこでまた水をたらふく飲んだ。次に水にありつけるのはいつになるか解らない。

 ひょっとしたら、もうじき世界の果てかもしれない。

 それとも、この大地が永久無辺に続くのだろうか。夏はもう終わりようやく姿を現した木々も広葉樹は姿を消していた。行けども行けども食べられそうな植物は見つからなかった。実の成る樹も既に食べられており、動物の類も見かけない。


 死。

 一晩も越せずに僕は息絶えるかもしれない。

 太陽は地に沈もうとし、雲を灼き炎を思わせる色をしているのに肌寒く感じる。ひとまず風を避けようと林を目指す。暗がりに、灰色のふさふさしたものが目に留まった。

 狼だ。三匹。

 『逃げてはいけない』いつか聞いたカンドゥクの声が頭に鳴り響く。

 胸が高鳴る。槍を構えた。少しでも威嚇になれば。

 と、狼は背を向けた。走り去った。

 チトフは気が抜けて荒く息をついた。腋に気持ちの悪い汗がにじむ。

 何か神異が現れたような気がしてチトフはしばらく立ち尽くしたままでいた。日頃から言われるがままに禱りを欠かさず過ごしてきたがいずれかの神が僕を見守ってくれていたのだろうか。

 重い風がチトフを責める。

 眠ろう。

 白樺の林に入った。

 変な臭いがした。そちらに足が向く。

 人だ。人が倒れている。まだ子供? なんと真っ白な体だろう。二人。二人とも脚と首に噛み傷があり、赤いものが地面に広がっている。

「酋長の……孫?」

 見覚えがあった。獲物が捕れたとき以外は人前に出て来ず、洞窟に籠もっていた。声を聞いたことすらない。

 おそらく、さっきの狼に殺されたのだろう。体を触ってみるとすっかり冷えきっている。不思議なことに食べられた痕がなかった。

 生唾が湧いた。

 齧り付く。こんなに旨い人肉を食べたのは初めてだった。柔らかく、脂身もたっぷりついている。

 今日は、生き残れそうだ。

 『命をながらえるためには、命を奪わなければならない』

 父の言葉が咀嚼音をかき消そうと頭の中に痛いぐらい鳴り響く。

 


 死にに行くようなものだ。

 行く毎に、草の丈が短くなっていく。やがて景色のほとんどを茶褐色の岩が占めるようになった。

 ひょっとして、もう僕は死んでいるのかもしれない。

 ここのところ、めぼしい水源が見つからなかった。この辺りは草も生えているし地形のパターンからすると、そろそろ見つかってもおかしくなかったのだが。 

 意識が霞む。

 はっとしたときには、もう遅かった。

 目と鼻の先に、巨大な虎が降り立った。背景と毛皮が似た色だった為、気がつかなかった。岩陰に潜んでいたのだろう。

 身が竦む。虎は姿勢を低くし低い唸り声を上げながらチトフの隙を窺う。

「ごめんなさい!」

 無我夢中で槍を突き出す。虎の左肩を槍がかすめた。虎は小さく唸ると体勢を整え飛びかかった。チトフは後退。槍の間合いを保って接近しようとする虎から逃げながら槍を突き出した。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 闇雲に突き出した槍は幸運にも虎の体を捉え、たちまち血に塗れた。虎もタイミングを計り、槍を銜えた。チトフは槍を捻って奪われまいとする。力の差は歴然、チトフは文字通り振り回された。と、突然虎が槍を放した。その口から歯がこぼれ落ちる。チトフは右肩に痛みを感じたが、怯んだ虎に渾身の力で槍を食らわせた。

「許してッ!」

 槍は過たず虎の喉に突き刺さった。後退しようとしたとき肩にまた痛みを感じ、チトフは小さく跳ねた。虎の首が不意に伸びて牙が大腿に突き刺さる。その痛みに耐えながらチトフは槍を虎の脳天に突き立てた。虎の姿勢ががくっと下がる。

「済みません」

 無我夢中で槍を振る。

 我に返ると虎は事切れていた。

 放心し、荒く息をつく。胸が苦しい。初めて、獣を殺した。腕が、足が、震える。本当に?

 信じられなかった。何度も、何度も、虎に目を遣る。

 周囲の気配を探る。幸い、虎は単独行動だったようだ。 

 二カ所、怪我を負ってしまった。血の臭いにハイエナが気づいたら抵抗しようがない。食べられるだけ食べると、旅路を急ぐ。

 噛み傷が、ひどく痛んだ。右肩も壊れてしまった。乾きも耐え難い。疲労困憊。

 チトフは眼を真開いた。

 怪物の大群が、押し寄せる。

 全身は波打つような毛に覆われ、頭には禍々しく複雑怪奇にねじくれた角が、顔は細く目はやけに離れて二つ。何十匹も徒党を組んでこちらに向かってくる。二匹の狼が進み出て唸り声を上げる。

 絶望的な状況だった。膝を屈して、チトフは自分の運命を呪った。

 怪物達を従えて、一人の女が歩を進めてきた。彼女の体は恐ろしく毛深く、魔物と人間の子だと推察された。その口が何か呪文を唱える。チトフは項垂れて目を瞑った。

 あたたかい。

 目を開けると、女がチトフの首に手を当てていた。そして僕にまた呪文をかける。

 僕から槍を奪い、手を握って、引っ張る。思わず肩痛に声を上げた。拷問でもする気なのだろうか。

 女は今度は僕の左手を掴んだ。僕はされるがままに立ち上がる。最期に見えるものを目に焼き付けておこうと思い直し目をまっ開く。

 魔女の力は恐ろしいものだった。魔女が吠えるたびに怪物共は追従し異様な声で鳴き、背中を追って来た。

 日が傾く。

 ススキの群生! 

 考えるより体が勝手に反応した。滔々と流れる川がそこにあった。腹に水が通り抜け体中にしみわたるのが克明に感じられた。急いで飲もうとした挙げ句せた。背後に気配を感じて振り返る。悪魔の群れがチトフを取り囲んでいた。そして悪魔達も水を飲んだ。

 魔女は黙ってチトフの左手を握ると、歩き出した。満身創痍のチトフはもう抵抗する気も起きないのだった。

 これだけの量の水を見るのは初めてだった。今更になってさっき躊躇なく川に近づいたことに恐怖を覚えた。気がつくと岩場は姿を消し、草原と湿地帯が入り混じって果てなく続いている。

 程なくして、大きな灰色の塊が見えた。それは小さいものではなく、森に寄り添うように集まっていた。そこに魔女は僕を引いていく。沢山の足跡が周辺に見て取れた。異様な臭いがする。塊から男が現れ、僕を見ると目を丸くした。魔女と何か激しい剣幕で言い合っている。

 あれ?

 今この二人が話しているのは言葉か? 彼らにも言葉があると言うことだろうか。

 聞いたことがあった。

 遠方に住んでいる人々は、私達と異なる言葉を話し、自分の言うことは通じないのだと。

 もしかしたら僕は魔法をかけられていたのではなく、この人達の言葉で話しかけられていただけなのではないだろうか。

 僕はその灰色の中に連れ込まれた。灰色はふわふわしており、中は空洞になっている。中の暗さに目が慣れてくると、中に何人かの人が身を寄せ合って僕を見つめていた。魔女……あの女がどこかに行ってしまうと、急に不安になった。背中には槍が突きつけられていた。

 どうやら、ここは人が住みかとしている場所らしかった。中央には木が生えており部屋の隅にも木が立てられ周りに土器が並び、床には毛皮が敷き詰められている。

 入り口からさっきの女が入ってきた。そしてかめを床に置くと、僕を座らせた。甕から何か取り出し、突きつける。湯気が立つ何かの肉だ。

 もう何もかも受け入れよう。そう心に決めて無心に齧り付いた。

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