7.病室にて

 私が呼んだ救急車によって、鞍馬さんは近くの総合病院に搬送された。手の切り傷はかなり深く、熱は切り傷から細菌が侵入したためだろうという診断だった。すぐに縫合手術と投薬がなされ、後遺症が残るようなことはないだろうものの暫くは様子を見るために入院が必要だという。

 医師には何故これほどの怪我をしたのか訊ねられたが、私は真実を話すことができなかった。勿論、詳しく話しても信じて貰えないだろう事情もある。だけどそれ以上に、救急車を待つ間、熱にうなされながらも鞍馬さんが私に「黒野のことは話さないでくれ」と何度も私に懇願していたことが原因だった。私は医師に適当で穏便な作り話をして誤魔化したのだ。

 医師は違和感を感じるのか首を傾げたし、看護師たちには痴話喧嘩の末の刃傷沙汰にんじょうざたとも噂されたけれど、私は作り話を押し通した。後から鞍馬さんにも確認が行ったようだけど、鞍馬さんもその作り話を否定しなかったから、なんにせよそれ以上の追求はされなかった。

 数日後、ようやく私は稀墨社に電話をした。黒野さんのことを確かめたかったのだ。だけど、黒野さんはその数日前――日付は私たちを襲撃するより前だった――に稀墨社を退職したという話だった。対応してくれた編集者の口ぶりからするとそれは以前から申し出られていたことで、特段突然のことではなかったようだった。私以外の担当作家には黒野さんの口から辞めることが事前に告げられていたこともわかった。だから編集部の方では私にも黒野さんの退職の件は伝わっているものだと思っていたのだという。新しく私の担当になったらしい私と同い年だというとても熱心な印象の編集者とも会話をさせて貰ったけれど、電話を切った時には私は彼と話した内容なんてまるで覚えていなかった。

 私は深くため息をついて、私の気持ち同様にどんよりと霞んだ春の空を見上げた。




 電話の後、私は電車を乗り継いで鞍馬さんの入院している総合病院を再び訪れていた。昨日までは熱も下がりきっていなくて傷口も痛む様子だというから病室へ行くのは遠慮したのだけれど、今日はだいぶ落ち着いたようだというので、お見舞いをさせてもらうことにしたのだ。

 鞍馬さんの部屋は贅沢なことに個室だ。扉の前に立って、軽くノックをする。返事はなかった。

「鞍馬さん、入りますよ?」

 とりあえず確認だけして戸を引くと、鞍馬さんはベッドの上で病院の大きな窓から見える景色を見ていた。だけどすぐに私が入ってきたことに気付いたのだろう。ゆっくりとこちらを振り返った。

「ああ、御陵先生か」

「すみません、お邪魔でしたか?」

 私が遠慮気味に訊ねると、鞍馬さんは小さく首を横に振ってくれた。

「熱も下がったし、手の傷口もだいぶ痛みが引いてきたんだ。病院は何もすることが無くて飽きてきたところさ」

「そうなんですね」

 私はそう言ってベッドの側に置かれた見舞客用のパイプ椅子に座りながら、鞍馬さんの顔を見る。その私の視線に、鞍馬さんはどこか照れくさそうに目を細めて微笑んだ。

 そうされてしまうと、私も何となく照れてしまって、急いで手にしていた紙袋を目の高さまで引き上げて見せる。

「あ、鞍馬さん甘い物好きでしたよね! お見舞いにお菓子を買ってきたんですけれど、食べられそうですか?」

「……ありがとう、じゃあ貰うよ」

 私が訊ねると、鞍馬さんは小さく頷いてそう言ってくれる。

「はい! あ、まだ右手使えませんよね。私が用意しますので、ちょっと待っていて下さいね」

 何となくやるべきことを得た気がして嬉しくなった私は、急く気持ちを抑えながら紙袋の中の箱に詰められた焼き菓子の包装を一つ剥がしてから、鞍馬さんに差し出した。鞍馬さんは嬉しそうに左手で私の差し出した焼き菓子を受け取り、口にする。

 しばらくは、静かな時間が過ぎていった。だけど、二つ目の焼き菓子を食べ終わった頃に、鞍馬さんはぽつりと囁くような小さな声で呟いた。

「……ありがとう」

「いえいえ、お口に合ったならよかったです」

 急に感謝の言葉を掛けられて、私は咄嗟にそう答えた。だけど、鞍馬さんは苦笑いでベッドサイドの私を見て、首を横に振った。

「いや、見舞いも嬉しいんだけど、な。……その、黒野のことをおおやけにしないでくれて、ありがとう。本来なら被害者の先生にこんなこと頼める立場じゃないんだけどな……」

「……!」

 急に黒野さんの話題を出されて、私はこくんと息を呑んだ。

 黒野さんのことは、私もまだ心の整理がしきれていない。私を無感動に殺そうとした黒野さんに恐怖する自分と、まだ信じられずに黒野さんを慕う自分、二人の自分がいるような気がしていた。

 だけど、その二人の自分、どちらにも当てはまる感情もあった。それは「知りたい」という感情だ。

「……もし良かったら、今回の件の経緯と背景を教えてもらってもいいですか?」

 その感情に押し流されるように私の口をついて出たその言葉に、鞍馬さんは一度祈るように視線を下げると、しかしすぐにしっかりと頷いた。

「ああ、そうだな。先生にはその権利がある。……でも、何から話したものかな」

 鞍馬さんはそう言ってから少しだけ黙り込んだ。どうやら複雑な経緯があるようだ。その鞍馬さんの悩む姿を見ながら、私も少しだけ考える。私が一番知りたいのは……。

「加羅里さん……」

 そう、黒野さんの狂気の愛を一身に受ける人。加羅里さん。

「私、加羅里さんについて知りたいです」

 私がきっぱりと言うと、鞍馬さんは伏しがちにしていた目をぱちぱちと幾度か瞬かせてから、視線を天井に上げる。そして、低く呟いた。

「加羅里――……。草壁加羅里は、十四才年上の俺の姉だ」

 私はその答えに、小さく息を呑んだ。

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