6.血塗れのペインティングナイフ

「くそっ!」

 黒野さんの視線から守るように、私の前に立ってくれる鞍馬さん。黒野さんはその鞍馬さんの手から私を奪おうとしたのだろうか。今までにはなかった焦りを見せて手を伸ばしてきた。

 純粋に力対力で私を奪い合えば、二人の力は五分だろうか。もしかしたら上背がある分、黒野さんの方が有利なのかもしれない。

 でも、その黒野さんの手が私に届く前に、鞍馬さんは今まで握り込んで隠していた右の掌を黒野さんの目前に開いて突き出した。

 その瞬間、黒野さんの目が見開かれ、鞍馬さんの掌に釘付けになる。

 私には一瞬、何が起きたのか理解が出来なかった。ただ、鞍馬さんの右手からしたたり落ちる赤に目を奪われた。繋いだ掌から彼の震えが伝わる。

「鞍、馬……?」

「鞍馬さん……っ!」

 私と黒野さんの声がシンクロして鞍馬さんを呼んだ。鞍馬さんはふうふうと息を上げ、汗だくの顔をしかめて、それでもなお黒野さんを睨み付けていた。

 鞍馬さんの手から滴ってポタポタと床を汚す濃い赤は、どう見ても血だった。

 鞍馬さん、手に怪我をしている……?

「はは、痛ってぇ……。でもお前にはこれがいっとう効くだろ?」

 鞍馬さんはそう言って挑発するように掌にあるらしい傷口を黒野さんに見せつける。黒野さんはその鞍馬さんの傷口をじっと見つめて顔を歪めた。

 それは不思議な光景だった。私への殺意を隠そうともしない黒野さん。でもその黒野さんが鞍馬さんの怪我を見て固まってしまった。愛する人のために他人を殺そうという覚悟を決めた人が、どうして鞍馬さんの怪我を見て取り乱すのだろう。

 取り乱す。そうだ、黒野さんは取り乱していた。

 鞍馬さんはその黒野さんにゆっくりと語りかける。

「お前は今朝この家に侵入して、絵を描いてる俺の不意をついて厳重にふん縛ってくれたよなぁ。その俺がどうやって拘束を抜けてきたと思う? 俺が転がされてた側に使い古したペインティングナイフがあったんだ。それに手を押しつけて、拘束具を切ったんだよ。切れ味が悪い上にこちらの自由も利かないから、手も傷つけることになったけどな……」

 そして、鞍馬さんは突きつけるように、とどめを刺すように言った。

「俺にそれっぱかしの覚悟もないと思ったか? 俺は、お前を止めるために怪我するくらい何でもない。それだけじゃない、命だって賭けてやる!」

 鞍馬さんはそう言うと、怪我をしている右手でさっとズボンの後ろポケットに忍ばせていたものを取り出した。それは血に塗れたペインティングナイフだった。鞍馬さんは怪我した手にそのペインティングナイフを握って、黒野さんに見せつける。

「鞍馬さん……!」

 私は鞍馬さんがそのペインティングナイフで戦う気なのだろうかと思った。でも、彼は怪我をしていない左手を私に預けている。怪我した右手ではペインティングナイフを握るのもやっとの様子だ。これでは、こちらが有利になったとは言えない。

 多分、黒野さんもそう思ったのだろう。気を取り直したようにふんと小さく鼻を鳴らして、私たちに迫ろうとする。

 だけどその時、鞍馬さんの手は思わぬ動きを見せた。

 鞍馬さんはそのペインティングナイフの刃を、ぴたりと自分の首筋に宛がったのだ。鈍い刃は少し宛がっただけでは切れたりはしない。でも少し力を入れれば、頸動脈を掻き切ることくらいは出来てしまいそうだ。

「……鞍馬、お前……」

「俺は本気だぜ。お前が先生に指一本でも触れようものなら、俺は即座に首を掻き切って死んでやる」

 そう言って、鞍馬さんはぐいと刃先を僅かに首筋に食い込ませる。皮膚が薄く破れて、じわりと赤い血が滲むのが見えた。

「……っ!」

「お前の『理想』を実現するためには、俺は生きてなくちゃならないものな。こんな所で死なれたら困るだろう?」

 黒野さんの理想。それが何なのか、私には解らない。どうして鞍馬さんがこんなことをするのかも、わからない。

 でも鞍馬さんの脅し文句は黒野さんを牽制するのにとても大きな役割を果たしたようだった。黒野さんはここに来て初めて苦しそうな顔を晒し、鞍馬さんを見つめることしかできないようだ。

 そのまま、黒野さんは暫く何かを考えていたようだった。その数分が、私には何時間にも感じられる。私は不安に思わずぎゅっと私の手に絡んだ鞍馬さんの手指を強く握りしめた。その私を宥めるように、鞍馬さんも私の手指をぎゅっと握り返してくれる。まるで「心配するな」と言うように、その手は優しい。

 やがて、黒野さんはため息をついて視線を上げた。

「解った。今は退こう……」

 その言葉に、それでも鞍馬さんは油断なくペインティングナイフを握りしめていたのに対して、私は思わず呼吸を乱していた。

 本当に? 本当に黒野さんは退いてくれるの?

 そんなわかりやすい私の反応を見てだろうか、黒野さんは嘲笑うように目を細めた。

「だが、次はこうはいかない。次こそはその体を、もらい受けるぞ!」

 黒野さんがそう宣言したと同時に、黒野さんの背後に背の高い男の人が音もなく現れた。黒野さんと同じく黒に身を包んだ影のような彼。黒い中折れ帽を目深に被っていて表情もよく見えないが、黒野さんを手招きで先導しようとしているようだ。その手招きの先にはアトリエから前庭に直結している掃き出しの大きな窓があった。そして前庭にはいつの間にか乗り付けられた黒いライトバン。彼はどうやら黒野さんの退路を確保する役割をしているらしい。黒野さんはその男の人の誘導に従ってアトリエを後にしようとする。

「黒野……」

 その背中に鞍馬さんが小さく声をかけた。黒野さんは一瞬だけ、その声に反応するように立ち止まったけれど、そのまま何も言わずに誘導役の男の人についてアトリエを後にした。

 その場に残されたのは、私と鞍馬さんだけだった。

 しばらくは、私も鞍馬さんもその場でじっとして動けずにいた。だけど、黒いライトバンがエンジン音も高らかにこの家の敷地から離れたのを理解した途端、私たちは二人揃ってその場にへたり込む。

「……助かった、の?」

 気の抜けた声でそう呟いた私は、しかしがくんと鞍馬さんと手を繋いだ方の腕を強く引かれて驚く。私と同じように床にへたり込んでいた鞍馬さん。だけど、彼はそのまま崩れるように地面に倒れ込んでいた。

「……鞍馬さん!?」

 名前を呼んだ瞬間に、繋いだ掌が異様に熱いのに気付いた。私ははっとして、反射的に鞍馬さんの額に手を当てた。その額は掌と同じかそれ以上に熱かった。

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