5.絡めた手指

「鞍馬」

 黒野さんが鞍馬さんを呼んだ。

 聞き分けのない駄々っ子を優しく叱る時のような甘い声だった。

 いくら幼い頃からの知り合いとはいえ、鞍馬さんはもう大人の男性だ。私はその声音に少し違和感を持つ。

 でも私がその違和感に翻弄されているうちに、黒野さんはまた言葉を継いだ。

「鞍馬、今ならまだ間に合う。御陵先生その人をこっちに渡すんだ。そうすれば――」

 その黒野さんの言葉を遮ったのは、鞍馬さんの低く鋭い声だった。

「そうすれば加羅里からりが帰ってくる、とでも言うのかよ……」

 腰を落とし、下から黒野さんを睨み上げてひねり出したような声を発する鞍馬さん。その様子は本来なら言葉にもしたくないおぞましいことを無理矢理言わされているかのようだった。

 ……加羅里、さん。私には聞き覚えのない名前だった。黒野さんや鞍馬さんの知り合いなのだろうか。

 黒野さんは鞍馬さんの問いかけに、鞍馬さんとは正反対の穏やかな……とても穏やかな顔でその名を繰り返し口にする。

「加羅里、ああ加羅里……」

 まるで愛おしむようにその名を口の中で転がした黒野さんは、確信を持っているかのように表情を引き締め、はっきりと口にした。

「ああ、そうだ。加羅里は……必ず帰ってくる!」

 だけど、それは鞍馬さんを納得させる材料にはならなかったようだった。

 鞍馬さんは苦しいような、悲しいような、怒ったようなとても複雑な感情をていしながら声の限りに叫んだ。

「馬鹿も休み休み言えよ! 加羅里は……もう十一年も前に死んでるんだぞ!」

「……!」

 私は思わず息を呑んだ。

 加羅里さんという人はもう亡くなっている? でもさっき黒野さんは加羅里は必ず帰ってくるとはっきり言っていた。それに、私が黒野さんに引き渡されれば加羅里さんが帰ってくるというのはどういうこと?

 私は鞍馬さんと黒野さんの顔を見比べながら、うまく働かない脳内でぐるぐる考える。でも考えが纏まることはない。

 そんな私を黒野さんはとても優しい顔で見つめた。勘違いしそうになるくらい優しい顔だ。でもやはりその瞳には本物の殺意が宿っている。

「確かに、加羅里の肉体は死んで無くなってしまった。だから、俺は加羅里に相応しい新しい肉体を用意しなければならないんだ。そう、御陵先生、君の死体だよ」

 私を見る黒野さんの目が愛おしそうに細められた。でもその目は私を見ている訳ではない。私はその視線と言い分に、吐き気を覚える。あんなに憧れた黒野さんが、今は意思疎通の出来ない怪物のように感じられた。

「必要なのは加羅里と同じ、創り手クリエイター能力ちからを持った女の子の新鮮な死体だ。初めて君と、君の作品を見た時は震えたよ。君が加羅里と同じ、創り手クリエイターの能力を持っていることがありありと伝わってきた。君の身体が死んだ加羅里と同じ年頃になるまで熟した今が、これ以上ない好機なんだ」

 この期に及んで、黒野さんは私の知らない私の話を出してくる。もうこれ以上は勘弁して欲しかった。私は平々凡々な田舎育ちの作家であって、それ以上でもそれ以下でもない。黒野さんの言う能力も、私には思い当たることはない。黒野さんは誰かと私を間違えているのではないの?

 もうこれ以上黒野さんの話を聞きたくない。そんな思いに駆られて、私は目を伏せ、小さくかぶりを振った。

 しかしその瞬間、私は自分の目前に誰かが立ったのを感じて、はっとする。一瞬、黒野さんが私を捕まえにきたのかと思って怯えたけれど、それは私を背中に守るように立ちはだかる鞍馬さんだった。

「鞍馬さん……」

「いい加減にしろよ、黒野。語りが長え男は嫌われるぞ?」

 茶化すような口調だったけれども、鞍馬さんは至極真剣な目で黒野さんを見ていた。そして言い募るように黒野さんに訴えかける。

「お前が加羅里をこれ以上無く想ってるのも、忘れられないのも解ってる。でも、いくらお前が加羅里のことを想おうと、死んだ人間は帰ってこない! それなのにいつまでも加羅里に固執して、挙げ句の果てに蘇らせるために女の死体が必要だだって? そういうのはな、普通は中学二年を過ぎたら卒業すんだよ!」

「うるさい! 煩い、五月蝿い、うるさいっ! 絶対に加羅里は生き返る! 俺は誰を犠牲にしようと、加羅里を生き返らせる! 邪魔をするな!」

 激しく怒鳴り散らすその様には、もういつもの優しく大人びていて理性的な黒野さんの面影などはなかった。私はただ、恐ろしさと共に、黒野さんのとても幼稚で、純粋で、それゆえに狂おしいほどの加羅里という人への愛の感情の渦に飲まれそうになってしまう。くらくらと激しいめまいと息苦しさを感じて、私はその場で腰を抜かして崩れ落ちてしまいそうになる。

 だけどその時、鞍馬さんが空いていた左手で私の緊張に固く握りしめた震える拳を包み込んだ。鞍馬さんの手は私の手と同じで僅かに震えている。けれど彼は決して私の手を放そうとはしない。

 私は驚いて鞍馬さんを見上げた。鞍馬さんは震える手を私に預けながらも、唇を噛み締めて黒野さんをしっかりと見つめていた。

 正直言って、私が鞍馬さんの意図を正確に汲み取れていたかというと、そういう訳ではないのだと思う。だけど、私はふと手に込めていた力を抜いて手を開いた。それを待っていたように、鞍馬さんは私の手に指を絡めて深く握りしめる。

 鞍馬さんの手は温かかった。「少しだけ力を貸してくれ」だなんて。勝手にそんな風に言われたような気になって、私は肯定の意味を込めてぎゅっと鞍馬さんの手指を握り返した。

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