42.大団円の条件

 その夜、私はお姉さんにあてがわれた客間に押しかけていってまで、本の話をしたがった。その時お姉さんはもう寝る準備を全て終えていたようだったけど、快く私を部屋に入れて話に付き合ってくれた。

「ねえ、お姉さん。これは本当にあった話なの?」

 私がもう既に読んでしまった一冊目の本を眺めながらそう訊ねると、お姉さんは少しだけ寂しそうな顔をして苦笑いをする。

「いいえ、これはこの文章を書いた人の想像ね」

「想像? 想像を小説にしていいの?」

「ええ、勿論よ」

 今まで勉強でしか小説を読んだことのなかった私は、小説とは実際にあったことを記してある記録書のようなものなのではないかと、そんな思い違いをしてさえいた。

 だけど、だから。私はその時、お姉さんにこんな質問もしたのだ。

「じゃあ、私にも書ける?」

 私はずっと自分のことを空想ばかりして現実から逃げている悪い子供だと思っていた。周囲の人間は私をそう扱っていたから、私の中でそれは疑う余地もないことだったのだ。だけど、もし想像することが罪ではないのだとしたら。もしもそれを文章にすることでこうやって他人の心を動かすことができるのだとしたら。

 それは初めて私をわくわくさせてくれる現実だった。

 もしかするとその質問はお姉さんにとっても想定外だったのかも知れない。お姉さんはどこか驚いたような目でまじまじと私の顔を見ていた。でも私が、聞いてはいけないことだったのかしら、と不安に思う前にふわりと笑って頷いてくれた。

「そうね、小説家になりたいというのならそれはとても素敵な夢だわ」

「……しょうせつか……」

 私は初めて聞いたその言葉を口の中で幾度も転がして噛み締める。

 そして最後に、決意をもって口にした。

「私、小説家になりたい!」

 お姉さんはその私をどこか眩しそうに目を眇めて見ていた。

 その時のお姉さんがどんな気持ちだったのか、私には解らない。だけどお姉さんはその後、小説や小説家について色々なことを知りたがる私にできうる限りの知識を授けてくれた。それは決められた消灯の時間になるまでのごく短い間だったけれど、今でも私の心の支えになっている暖かい時間だ。

 お姉さんがいたから私は小説家になろうと思った。お姉さんがいたから現実と向かい合うのも悪くはないと思えた。逆に、お姉さんがいなかったら私は今も集落で空想にふけって暮らしていたかもしれない。

 私にとってお姉さんはまさに運命の女神さまだったのだ。

 その夜、私は自分の布団の中で丸くなりながらいつもより色々なことを想像していた。眠気なんて全然やってこなくて、ついに一睡もできずに迎えた朝。夜が明けて空が白みだしたのを感じた私の心は、止まらないわくわくとした気持ちでいっぱいだった。今日もお姉さんに色々なことを教えて貰えるのだと、そう考えただけで嬉しくて楽しくてたまらなかった。

 だけどその日、お姉さんは来たときと同じくらい唐突に集落を去っていった。見送ろうと言う人はいなかった。私だけが、お姉さんを麓の町まで行くバスの停留所まで見送った。

 暑い夏の日の午後、集落で唯一のバス停。私は僅かなひさしがあるばかりのあばら屋みたいな待合所でバスを待つお姉さんを少し離れた場所からじっと見ていた。

 真っ白なワンピースに夏の日差しと山から下りてくる風を目一杯受けながらバスを待つお姉さんの姿は、まるで小説の挿絵みたいだと子供心に思った。

 何も言えずにその場で立ち尽くしていた私に気付いて、お姉さんはふんわりと笑う。風にはためくワンピースを軽くおさえて、小さな私と視線を合わせるように軽く屈んだ。

 ルージュのひかれた形の良い唇が言葉を紡いだ。

「本当に、人生は小説みたいね。貴方は貴方の素敵な小説人生を書き続けてね。一生懸命書き続ければ、その小説人生はきっと大団円ハッピーエンドになるわ」

 そう言うお姉さんの笑顔が眩しくて、私は目を細める。それでも私は大きく頷いた。それを見て、お姉さんは安心したようにまた微笑んで、ふと空を見上げた。

 真っ青な空に山の向こうからむくむくとした入道雲が迫ってきている。

 折しも麓の町へと向かうバスがやってきてバス停に止まり、乗車口をぱっくりと開けた。エアコンの冷気がふわりと頬を撫でる。

 お姉さんは傍らに置いてあったスーツケースを重そうに持ってバスに乗り込み窓辺に座った。プァンという間の抜けたようなクラクションを一回鳴らしてバスが走り出す。

 走り去るバスの窓辺で、お姉さんは私に小さく手を振ってくれていた。私も負けじと、小さくなっていくバスに向かって手を振り返す。

 バスが山間やまあいの道に消えて行くのを見届けると同時に、ゴロゴロと遠雷が鳴り響いた。そろそろ夕立があるのかも知れない。早く家に帰らなければと思いながらも、私はその場からなかなか離れられずにいた。

 ぽつりぽつりと大粒の雨が渇いた地面を濡らし始めた。叩き付けるように降り始めたその雨に濡れながら、私は名残なごり惜しく思う。そんな気分になったのは生まれて初めてだった。

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