43.決着

 そこで、私ははっと意識を取り戻した。

 ほんの僅かの間ではあるようだったが、私は過去の出来事を思い出しながら意識を飛ばしていたらしい。

 固い机の上に寝かされた私の頭上では、相変わらず異形がうごめく気配がする。視線は意識して逸らしているので見えないけれども、頭上で巨大な顎がガチガチと音をたてて開閉し、そこからだらりと唾液のような気持ちの悪い液体がぽたぽたとシーツに落ちているのがわかった。

「先生ッ!せんせ――!……くそッ!」

 鞍馬さんの声が遠く聞こえる。

 先ほどまで私の手首を掴んでいたいびつな手は、いつの間にか輪郭を崩して白く半透明の触手のようなものになっていた。しかもそれは今や一本や二本ではない。さっきまでは人間の上半身を模していた頭部の上に生えた物体は、今は花が咲くように細かく枝分かれして、イソギンチャクみたいにぐねぐねとうごめく触手の束へと姿を変えているはずだ。

 その触手は鞍馬さんにまで到達して、絵を描こうとしている彼をギリギリと締め上げ、拘束してしまっているに違いない。

 見てもいないのに確信する。

 だって、何度考えても、これは私が作り上げた「しょうけら」の設定姿を忠実に再現しているのだから。

 だから、どういう理屈りくつ因縁いんねんがあるのかはさておき、多分これは私が作り出したものなのだろう。私は今まで薄々感づきながらも受け入れられなかったその事実を、今になって何となく受け入れていた。

「私は……、小説を……書き続けて…………。大団円ハッピーエンドに……。ふ……ふふ……」

 なんだかおかしくなって、私は肩を揺するようにして笑ってしまう。それは端から見たら、不気味な光景だっただろう。でも私は気にしなかった。

 私はあの夏、私を導いてくれたあのお姉さんの言葉を現実にしたいと思った。

 私は自分で自分の小説人生を書くのだと。そして、その結末を絶対に大団円ハッピーエンドにするのだと。そう思って我武者羅がむしゃらにやってきた。

 私はちらりとだけ、頭上の異形を見た。相変わらず、醜くて、気持ち悪くて、何の救いもない。

 大団円ハッピーエンドが聞いて呆れる。小説を書き続けた末に私が産みだしたのはこんな怪物だったのだ。

 だけど、だから――。

「こんな……こんなところで……」

 吐き気がするような気持ちも、怖い気持ちもちっとも減ってなんかいない。

 でも、だけど、だから――。



「こんなところで終わってたまるかぁぁぁあぁあぁぁ!」



 絶叫と共に、私はばっと顔を上げて異形を睨み付けた。

 相変わらずの恐怖と嫌悪に、口に酸っぱいものがこみ上げてくるけれど、それでも私はそれを睨み付け続けた。

 その視線と勢いに圧されたのか、勢いを増していた触手がしゅるしゅると怯んで収縮していくのが見える。それでも、私はまるで睨めっこでもするみたいに、異形に顔を突きつけて視線を浴びせかけ続けた。

「でかした!」

 鞍馬さんの声が聞こえる。私の視線の効果で彼の拘束が緩んだのだろう。鞍馬さんも触手を振り切って床に落ちていた鉛筆をさらうように拾い上げると、イーゼルに駆け寄りカンバスボードに向かい直した。

 鞍馬さんの手はひらめくように鋭く動き、幾つかの線を素早く、しかし確信を持ってカンバスに引いた。そうしてから、おもむろに視線を上げた彼は、せっかく拾い上げた鉛筆をかなぐり捨てるように放棄してしまう。カランと乾いた落下音が響き、鉛筆が床に転がった。

 そして彼は、異形に呼びかけるようにその「名」を呼ぶ。

「ここがお前の居場所だ! 来い! 『しょうけら』!!」

 鞍馬さんは、バンッと叩きつけるようにカンバスに広げた掌を置き、高らかにそう宣言した。その瞬間、鞍馬さんの手の置かれたカンバスが光を放ちはじめる。まるでゆらゆらとたゆたう青白い炎のようなエネルギーの奔流ほんりゅうが、空気を揺らした。

 それは、こんな状況でなければつい眺めていたくなるような美しい光景だった。 

 その光は目の前の異形……しょうけらにはどう映ったのだろうか、ぶるぶると体を小刻みに震わせて光から逃げようとする。

 しかし次の瞬間、光は音もなく爆発するように一瞬でアトリエ内を目映く満たした。光は容赦なく、しょうけらの身体を呑み込む。

 私は見ていた。光の中でしょうけらの身体が溶かされるようにぐずぐずと形を崩していくのを。

 そしてしょうけらは、波が引くように光が収束していくのに合わせて、その一部になって鞍馬さんの掌の置かれた画面に吸い込まれて消えてしまった。

「………………」

 私は肘を使ってよろよろと上半身を起こすと、さっきまでしょうけらが存在していた空間をぼんやり見上げた。そこにはもうしょうけらが存在していたあかしなどなにもなくて、ただただ、静かな夜があるだけだった。

「……終わったの?」

「ああ、そうだな……」

 無意識に唇からこぼれたのは、掠れた小さな声だったけれど、鞍馬さんはそれをきちんと拾って応えてくれる。それが何となく嬉しくて、気恥ずかしくて、私は首をすくめた。

 でも言わなければ。私を救ってくれた彼に、その言葉をかけなければ。

「鞍馬さん――……」

 本当は「ありがとう」と続けたかったのだけれど、その言葉が口から出る前に、あらがいがたい睡魔すいまに襲われた私は目を閉じてしまう。うつらうつらとゆめうつつを行き来する私。

「……眠いのか?」

 そんな私の様子に気付いたのだろうか。鞍馬さんの声と足音が近づいてきて、私はふわりとする浮遊感を感じる。鞍馬さんに抱き上げられたのだとすぐに気付いたけれど、私には驚く気力も抵抗する気力も恥ずかしがる気力もなくて、ただ鞍馬さんの腕に寄り添うことしか出来なかった。

「よく頑張ったな。今は、よく眠るといい……」

 鞍馬さんの声は優しかった。その声と腕の温かみに、私はすとんと落ちるように眠りの世界へと漕ぎ出していってしまったのだった。

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