41.あの夏のお姉さん

 あれは、今からもう十年以上も前のことになるのか。私が小学生最後の夏休みを漠然と過ごしていたある日、集落に見知らぬ若い女性がやってきた。

 年の頃は二十代の前半くらいだったろうか。涼しげな純白のワンピースを着て、すっきりとショートカットにした髪と意志の強そうな瞳、唇に塗られたルージュも印象的だった。

 こんな何もない田舎の集落に何の用で来ていたのかはわからない。そのお姉さんは何故か私の家にしばらく逗留とうりゅうすることになったらしく、集落のほうぼうを見て回ったり、家の仕事を手伝ったりして過ごしていた。

 でも当時の私はいつもの空想に夢中で、お姉さんの存在を認識してはいたものの、興味なんてまるで無かった。いつも通り空想に入り浸り、空想上の友達と遊ぶだけで忙しかったのだった。

 お姉さんの方もしばらくの間はそんな私に干渉してくることはなかった。

 だけどある日の昼下がり。私が縁側に座っていつものように空想をしていると、さっきまで台所の手伝いをしていたお姉さんが珍しく私の近くにやってきて、何も言わずに私の隣に座ったのだ。

 正確には、私の隣に座らされていた木彫りの人形を挟んで隣、だったけれども。

 それでも当時の私は、むっとしてお姉さんに食ってかかった気がする。

「そこには私の友達が座っているのよ、勝手に座らないで」

 勿論、それは私の空想上の友達のことで、お姉さんにはただの汚い木彫りの人形が置かれているだけにしか見えないはずだ。

「ああ、ごめんなさいね」

 でもお姉さんは嫌な顔一つしないで素直に謝って、更に今度は私の反対隣に座り直してにこりと笑ってくれた。

 その反応に、私は大いに混乱したのを覚えている。

 だって今まで私の周りにいた大人たちは、私が空想上の友達の話題を持ち出せば必ず気味悪がったり怒ったりした。でもお姉さんはそれをしないばかりか、私の言葉を真っ向に受け止めて座り直してくれたのだから。

 だけど、嫌な気持ちではなかった。

 私とお姉さんはその縁側でぽつぽつと他愛もない話をした。私もお姉さんに興味が湧いて、その後は空想に逃げることもなく話ができたように思う。

「お姉さんはどこから来たの?」

「そうねぇ、とても遠いところよ」

「どれくらい遠く? あの山の向こうくらい?」

「いいえ、もっともっと遠くだわ」

「ふぅん……?」

 そして、そんな会話を幾つか繋げた先に、お姉さんは私におもむろに数冊の小説の本を差し出したのだ。それは全部ジャンルも作者もばらばらで、シリーズ物らしき本もあったけれど、それも一巻でも最終巻でもない途中の巻だった。

 勿論、当時の私にはそんなことは解らなかった。国語の教科書に載っている小説くらいは読んだことはあったけど、勉強するためのそれに興味を持ったことはなく、それ以外の小説の本なんていうのも見たこともなくて、私はお姉さんの差し出した本の小山を怖々と眺めて訊ねたのだ。

「これは何? 教科書?」

 とんちんかんなことを言った私に、お姉さんは少しだけ考えるように首を傾げた。

 だけど私の置かれた境遇を知っていたのだろうか、私が小説を知らないことに特に驚くこともなく、優しく説明してくれた。

「ちょっと違うわ。これは、小説よ」

「小説って、国語の教科書に載ってるやつでしょう?」

「そうね、それも小説。国語の教科書は嫌い?」

「……勉強はきらい」

「ふふ、そうなのね。でもきっと、これを読めば小説に対する感じ方も変わってくるわ」

 その言葉に、私は目を白黒させてお姉さんの顔と本を交互に見つめた。

「これ、全部読むの?」

「ええ、この本はあげるから、読んでみてくれると嬉しいわ」

 勉強でしか本を読んだことのなかった私は、一瞬渋い顔をしたと思う。だけど私に理解を示してくれたお姉さんが勧めてくれているのだ。恐る恐る手を伸ばして、一番上に置かれていた一冊を読み始めた。

 それはファンタジー小説だった。普通ではありえない世界観の中でトラブルが日常的に起き、そして魅力的な登場人物たちにより解決されていく。そんな話。

 今から思えば、それほど奇抜な物語ではなかったと思う。でも登場人物たちの魅力や語り口の軽妙さは際だっていて、当時の私にはそれが宝石みたいにきらきらと輝いて感じられたのだ。

 結局その日私は、太陽が落ちて薄暗くなり、いつの間にか台所の手伝いに戻っていたらしいお姉さんに夕飯に呼ばれるまでその本を夢中で読んでいた。

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