37.私の犯した罪

 ほんわりと光を纏った鞍馬さんの鉛筆の筆先がサリサリとカンバスの凹凸に強く弱く押しつけられ、細かく動かされる音がする。何かが描かれているのが嫌でもわかった。鞍馬さんの手の動きからすれば、カンバスに対しても随分大きなものだ。

 多分、鞍馬さんの「対決」はもう始まっているのだろう。つまり、鞍馬さんにはそれが見えているのだろうか。私には相変わらず何も見えない。それどころかあれほど私を苦しめた気配と視線すらも今は感じられなくなっている。

 何故なのだろう。せっかく戦う覚悟を決めたのに、いざとなったら戦いの場から締めだされてしまったような気分。それに、ずっと満足に眠れない日が続いていた私は、このままだと禁止されている眠りに落ちてしまいそうだった。

 結局私は怖ず怖ずと鞍馬さんにこんな提案をすることになった。

「あの……眠らないために、少しお話してもいいですか?」

 鞍馬さんの気を散らさないためにも黙っていた方がいいのはわかっていたが、それではこちらが持ちそうにない。向こうもそれがわかっているらしく、鞍馬さんは仕方なさそうに頷いた。

「いいぞ」

 その答えにほっとしたのも束の間で、私は泥濘ぬかるんだ頭で慣れない会話のタネを探して視線をあっちこっちに遣った。あれでもないこれでもないと考えるうちに、私は一つ鞍馬さんに聞きたいことがあったのを思い出す。

「聞きたいことがあったんです」

「何だ?」

 相変わらず手を止めることなく視線だけを一度こちらに寄越した鞍馬さん。私は自分の気持ちを上手く伝えられる自信が無くて、一瞬言いよどむ。

「『これ』は……一体、何なんでしょうか?」

 しどろもどろに声に出してしまってから、やっぱり少し後悔した。なんだか、要領を得ない質問になってしまうような気がしたのだ。

 私は慌てて補足の言葉をぐ。

「その……、私を監視して、苦しめている気配の主のことです」

 笑われるか、もしかしたら今はそんな話をしている場合ではないと怒られるかとも思ったけれど、鞍馬さんはそのどちらもしなかった。ただ、真面目な顔で訊ね返してきた。

「先生は、何だと思うんだ?」

 突き返された質問に、私はもう一度口ごもる。今度はすぐには答えを返せず、しばらくの間考えた。そして、小さな声で呟く。

「……しょうけら」

 その答えに鞍馬さんは何も言わなかった。ただ先を促すように私を見る。

 その鞍馬さんの態度に、私はせきを切ったように言い募った。

「あの日、鞍馬さんにしょうけらという言葉を教えて貰った後、私はそれについて少し調べました。でもしょうけらがどんなことをする存在なのか、はっきりしたことはどこにも書かれていなくて。だから、私は小説に登場させるためのしょうけらに、私が怖いと思うような設定姿をつけたんです。この気配と視線の主は私が考えたしょうけらと全くと言っていいほど同じ行動をとっています。だから多分……、『これ』はしょうけらなんです」

 そこまで言った私の言葉尻はなんだかちょっと湿っていた。

 あれ、どうしたんだろう。私、泣いてる?

 そう思った途端、私の目からは涙がぼろりと溢れだして、口は思考を通さない滅茶苦茶な言葉を吐き出し始めた。

「なんで、なんで……。どうして私がこんな目に遭うんでしょう。なんで『これ』は私のことをおびやかすんですか? 私は、何か特別な禁忌をおかしてしまったんでしょうか?」

 見苦しい、とても見苦しい私の言葉。でもそれは私の本音でもあった。

 こんな怖い目に遭うのは私が何かとても悪いことをしたからなのかも知れない。そうでなければお話にならない。だって、何の因果いんがもないのに苦しみだけやってくるなんて、そんなの酷すぎる。

 思い当たることはない。だけど、多分私は知らないうちに何か大きな罪を犯してしまったのだ。そう考えることしか出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る