38.擬餌
「……彬」
鞍馬さんが吐息混じりに私の名を呼ぶ声はとても優しかった。優しすぎて、勘違いしそうになるくらいに甘い。
「大丈夫だ、彬は何も悪いことなんてしてない。胸を張ってろ」
「でも……」
私は食い下がるようにそう呟いたが、鞍馬さんは首を横に振る。そして手にしていた鉛筆をイーゼルに置くと、そっと私の寝ているテーブルに近づいてきた。
「……鞍馬さん?」
「大丈夫、彬は悪くないから」
薄暗くて表情はよく見えないけれど、鞍馬さんはそう言って私の前髪をさらりと撫でてくれた。その手はひんやりとしていて、とても気持ちが良かった。
その手にもっと撫でて欲しくて、私は撫でられ待ちの猫みたいに小さく顎を引いて、それから目を閉じた。
「――先生っ!!」
だけど、鋭く私を呼ぶ鞍馬さんの声に、私ははっと目を開ける。
いけない。今、私は目を
「ごめんなさ――」
謝ろうとした私は、しかしそこまで言葉にして息を呑んだ。
私が横たわるテーブルの脇に立っていたはずの鞍馬さんが、何故か寝ている私の真正面に見えたからだ。それはまるで私の上にのしかかるように。
「え……えっ!?」
焦った私はテーブルの上を這いずるように逃げ腰になる。でも目の前の鞍馬さんはその私の手首を握って逃すまいとするように引き留めた。
「彬……」
鞍馬さんの甘い声が私の耳を
その私の行動をどう捉えたのだろうか。目の前の鞍馬さんは少し苛立たしげに握った私の腕を引こうとした。
その時だった。
「
凜とした鞍馬さんの声が、雷のように私を打った。
はっとした私が首を捻って声のした方を見れば、そこにはイーゼルの前から一歩も動いていない鞍馬さんの
驚いた。だって鞍馬さんは私の目の前にいたはずなのに。
そう思って私は私の腕を掴んでのし掛かるように迫る鞍馬さんの方を見た。――見てしまった。
そこにいたのは鞍馬さんなんかじゃなかった。
そこにいたのは私の背丈を優に超える体躯を持ち、それにしては細い六本の足を
異形はその額から出来損ないみたいに不格好な人間の上半身を生やしていた。鞍馬さんを模そうとしたのだろうか、その顔にあたる部分には彼の目鼻の
しかもそれは、ぶらんと垂れ下がった手で私の手首を捕らえていた。反射的に振り払おうとするが、まるで力の入っていそうにない垂れた腕に比べて、節くれだって指先があっちこっちに向いたような手指には
「う……っぐ……!」
叫ぶことも出来ずに、がくがくと震えながら私はえづく。
そして思わずその視覚から来る恐怖と嫌悪感をシャットアウトするために視線を逸らして目を閉じようとした。
だけどその私を叱りつける声があった。
「目を閉じるな! 見るんだ!」
私はそう主張する鞍馬さんの声に、異形から視線を逸らしたまま駄々っ子のようにふるふると首を振る。ここまでで私のキャパシティはいっぱいいっぱいで、とてもじゃないけれどこの異形を正面から見つめることなんて出来なかった。
それを助長するように、もう既に鞍馬さんを装うこともしなくなった異形がびよびよと割れて間延びした声で私に誘いかける。
『さーぁ、めヲトジテ……。ゆーっくリ、ネむるンダ……』
ともすれば、鞍馬さんの言葉を蹴って異形の言葉に従いたくなる衝動。
脳裏には走馬灯のように昔の記憶が駆け巡りだす。私はその記憶の中で、幼い日の自分が『あの夏のお姉さん』に言われた言葉を思い出していた。
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