2.ある男の手記より抜粋その②

 その日、家に帰った俺は珍しく父のアトリエに立ち入っていた。

 暗いアトリエ。無造作に置かれた石油ストーブの中でちらちらと炎が揺れるのが見えるだけで、電気は点いていなかった。父は休憩用に置かれているソファーベッドで横になって寝ているようだ。

 俺は辺りを慎重に見渡しながらごちゃごちゃとしたアトリエの中を歩く。画溶液の独特な匂いが鼻についた。

 あの後、晴れて友達になった彼女は「父親が画家である」という俺の身の上に幼く純粋な憧れを持っている様子で、父の絵の仕事のことをのべつ幕なしに聞きたがった。しかし当時の俺は父の仕事についてはほとんど何も知らず、彼女の底なしみたいな好奇心を満たしてやることはできなかったのだった。

 今の俺になら、もっともらしいことを幾つか並べ立てて語ることも出来る。だが当時の俺にはとても無理な話だっただろう。彼女の好奇心を満たせなかったこと。父の仕事について何も知らないこと。それが幼心にもなんとも情けなかった。

 一通り父の作品を眺めてから、俺はアトリエを抜け出すために父の寝ているソファーベッドの横を通り抜けようとした。だが。

「――」

 名前を呼ばれて、どきりとする。思わず父の寝ているソファーベッドを振り返ると、父の瞳が暗闇の中で僅かな光を反射してきらきらと光っていた。起きていたらしい。

「ご、ごめんなさい……」

 昔、アトリエに無断で入ってこっぴどく叱られた記憶が蘇って俺は反射的に謝ってしまう。だけど父はふふと笑って俺を手招きした。今は機嫌がいいらしい。

 俺が近づくと、父は起き上がり俺の頭を撫でた。

「見つけたか」

「え?」

 父はにやりと笑う。

創り手クリエイター造り手メイカーついだ。造り手メイカーたるお前にはお前の対がいるはずだと思っていた。そうか、ついに見つけたんだな」

「父さん、何言ってるの……?」

 だけど、父はそれきり満足そうに俺の頭を撫でるだけだった。

 ただ、父は最後にうわごとのように不明瞭な声でぼそりと呟いたのだ。

「俺のようにはなるな」

 その言葉の意味するところはよく分からなかった。

 だけど、どうしてだろうか。何か大切なことを言われている気がして、俺は表情を引き締めて神妙に頷いてみせたのだった。


 父がアトリエで倒れて亡くなったのは、それから一ヶ月もしないうちだった。

 三十八年の、今思えばあまりに短い父の人生だった。

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