しょうけら
1.御陵彬という女
「はぁ……」
ガラス窓にため息みたいな重い息を吹きかけると窓は真っ白に曇ってしまった。
外は凍えるくらい寒いのに、店の中は暖房が効きすぎていて少し暑い。手のひらにじっとりと汗が滲んできたのは、暑さのせいだろうか。それとも緊張のせいだろうか。
その喫茶店は東京郊外のとある駅前、とても便利な位置に店を構えていた。大きな外食系チェーンに属していて便利で安心感があるのだろうか、いつも人で賑わっている。
私は平日の夕方にもかかわらず八割方の席が埋まっている喫茶店中を探して、滑り込むように窓辺の二人席を確保していた。
そのままそわそわと落ち着かずに待つこと十分。注文したアイスコーヒーが半分ほどなくなったところで、ようやく待ち人がやってきた。
「やあ、待たせてしまったみたいで申し訳ないね」
軽く手を上げてから私の対面に座ったのは、真っ黒な髪をした長身の男性。年は三十代後半くらい。黒のステンカラーコートを身にまとい、細い黒縁の眼鏡が知的な大人の男性といった印象だ。
私はすっかり恐縮しきって、彼に向かってぺこぺこと頭を下げた。
「あっ、その……、こちらこそお忙しい中いつもすみません……!」
「いやいや、そんなに頭を下げないで。これは俺の仕事なんだから……」
仕事。そう、これは仕事だ。私にとっても、彼にとっても。
私はゆっくりと頭を上げると、照れとも困惑ともつかない曖昧な微笑みを浮かべながら安っぽいUSBメモリを差し出した。
▽
私の名前は
小説家、なんて言うと大いに売れている大先生を想像するかも知れない。確かに十代のうちにデビューしたせいで最初に出した本は一定の話題になったけれど、その後は鳴かず飛ばず。デビューからもうすぐ五年。今年は進退を考えなければいけないかも知れないと密かに覚悟を決めている無名の窓際小説家だ。
一方、コートを脱ぎ黒いベスト姿になって目の前の席に座り、ノートパソコンで私の差し出したUSBメモリの中身をあらためているのは
「うん、いいね。枚数も内容も問題なさそうだ」
「……よかった!」
渡したUSBメモリに記録されていたのは、請け負っていた短編小説の原稿だ。読み終えた黒野さんの言葉に、私はほっと深いため息を吐いて胸を撫で下ろした。途端に喉の渇きが強調されて、目の前にあったアイスコーヒーを一気に飲み干して喉を湿らせる。
「お疲れ様」
そんな私を、黒野さんは唇の隙間から白い前歯をちらりと見せて笑顔で
「……っ」
いつもは大人っぽい態度の黒野さん。そんな彼も笑顔の時は少し幼く見える。
こんなことを言うと変に思われるかもしれないけれど、私はその瞬間がとても好きだった。まるで少年みたいに無邪気に笑う黒野さんが……私は……。
「先生、御陵先生?」
「……え?」
黒野さんの呼ぶ声に、いつの間にか沈んでいた思考の世界から現実へと引き戻される。ぱちぱちと瞬きをして、私は黒野さんを見つめた。
(――あ)
「ぼんやりしていたけど、大丈夫かい? まさか、また徹夜ばかりしてるんじゃないだろうね?」
黒野さんの心配そうな顔が私を見る。その私との距離感はいつもと同じだ。近づきすぎも遠ざかりすぎもしてはいない。
だけど、私はにわかにぼっと顔面が火照るのを感じた。
「わ、私……」
取り乱しかけたその時、私はわずかに目をそらしてすぐ横にあるガラス窓を見た。外は薄暗くなりはじめていて、ガラス窓に店内の様子が薄らと鏡映しになっている。当然、そこには私の姿も映っていた。
古くさいデザインのダッフルコートが背もたれにかけてあるその椅子に座っているのは、よれよれのパーカーとジーンズで身を固めた痩せっぽちで貧相な女。何ヶ月も切っていないだろう髪は無造作に洗いざらして適当に二つに分け、緩く三つ編みにしてあるだけ。極めつけに、瓶底みたいに分厚くて大きな黒縁眼鏡が鼻の上にでんと重そうに乗っていた。
そう、これが私。御陵彬という女。
(舞い上がるな。私なんかには期待させて貰えるだけの価値もない。本来なら私なんかが黒野さんと並んで座っているのも不自然なんだから……)
それを思い出した時、私は後頭部にすうと冷えるような感覚を覚えた。昂揚していた気持ちと頬の火照りはなりを潜め、平静に戻る。
「いえ、ちょっと暖房が暑くてぼんやりしちゃって……。もう大丈夫です。それで、なんの話でしたっけ……?」
不自然にならないようにもっともらしい理由をつけて愛想笑いをしてから、話を逸らす。 黒野さんは少しの間だけその真偽を確かめようと私を見ていたけれど、すぐに納得したように頷いて私の誘導に乗ってくれた。
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