妖魔夜行絵巻

小野セージ

妖魔夜行絵巻

プロローグ

1.ある男の手記より抜粋その①

 彼女に初めて会ったのは、俺がまだランドセルを背負って小学校に通っていた頃のこと。入っていた美術クラブの活動に久しぶりに参加していた時だった。

 見知らぬ女の子がいつの間にか部室に入ってきていたのはしばらく前から気付いていた。見学者とは珍しいなと思った。入部希望の見学者にしてはだいぶ時季外れだ。

 だけど俺には彼女に関わる気なんてまるで無かったし、完全に無視を決め込んでただひたすら目の前のスケッチブックに向かって鉛筆を動かしていただけだった。彼女もしばらくは静かに部員一人一人の作品を見て回っていた。

 ストーブにかけられたやかんがしゅるしゅると熱い蒸気を吐く。それと、部員たちの持った鉛筆がスケッチブックの凹凸おうとつに擦れるサラサラという音だけがその場に響いていた。

 同じ制服に身を包み、等間隔に並んで同じ課題に大人しく取り組む美術クラブの部員たちは、なんだか没個性ぼつこせい従順性じゅうじゅんせい象徴しょうちょうみたいで吐き気がした。ぞろぞろと列をなして一心不乱に働く働き蟻みたいだ。それでも俺はその中の一人になりきって、一刻も早くこの不毛な時間が終わることを願っていた。

「――くん、絵が上手だね」

 不意に声をかけられて、俺は振り返る。あの見知らぬ女の子が俺の絵を覗き込んで褒めたのだった。

 教えたつもりもないのに急に名前を呼ばれて、俺は元々良くなかった自分の機嫌が更にきりもみするように急降下していくのを感じていた。どうせこの子も、裕福な家の子女ばかりが通うこの名門私立小学校でいささか悪い意味で浮いている俺をからかいにきたに違いない。悔しさに唇を強く咬んだ。

 正直なところ、その頃の俺は好きで絵を描いているわけではなかった。美術クラブに入っていたのも、学校の方針で児童は必ず何かしらのクラブ活動に参加しなくてはならなかったからだ。普段は殆ど幽霊部員を決め込んでいたし、今日は教師に真面目に参加するようにと注意されて仕方なく来ただけだった。思い入れもなく、適当に見たままを描き写しただけの絵を褒められるのは揶揄やゆされるのと同じように感じた。

「……別に、普通だよ」

 案の定、喉の奥から絞り出した俺の声は地を這うように低く、機嫌の悪さを少しも隠すことが出来ていない。

 でも、彼女は俺の不機嫌丸出しの受け答えにも全く臆することはなかった。何がおかしいのかきゃらきゃらと朗らかに笑って、細めた目で俺を見て無邪気に言い放ったのだ。

「えー、上手だよ! お父さんに習ったの?」

「……!」

 そう言われて、俺はガタンと背もたれのない木の椅子を蹴倒して立ち上がる。彼女も周りの部員たちも一斉に俺に注目した。

「関係ないだろ!? もう、あっちいけよ!」

 俺は気が立った猫みたいに毛を逆立てて彼女を鋭く威嚇いかくしてしまう。急に激昂げきこうした俺に、彼女は驚いたように目を見開いていたが、すぐにその大きな目一杯に涙を溜めて俺を見上げた。

「ご、ごめんね、ごめんね……」

 多分彼女は、どうして自分の言動が俺の機嫌を損ねてしまったのか、理由がわからなかったに違いない。それは今考えれば仕方のないことだ。だってその怒りは俺の一方的な劣等感に由来する感情なのだから。それでも、彼女は自分が何か悪いことをしてしまったのだと思い込み、涙をこぼしそうになるのを必死に押しこらえながら何度も謝っていた。

 自分よりも小さな女の子を泣かせてしまったことにちくりとした罪悪感を覚えてはいた。しかし、腹立たしさにかまけてフォローする余裕もなく、俺はその場を乱雑に片付けて部室を出ようとしたのだ。

 だが、その俺を待ち構えるように、そいつは部室の扉の前に立っていた。小学生にしてはやけに背が高く大人びたそいつは俺にとってよく見知った、でも今はとても相手にしたくない顔だった。

「おい、――! お前、なんであの子をいじめるんだよ!」

「……別に、虐めてない」

「泣いてるじゃないか! 謝れよ!」

 そいつは俺の胸ぐらを掴んで軽く引き、謝るように迫る。

 俺はそいつの態度にも心底苛ついていた。どいつもこいつも、俺を馬鹿にするにもほどがある。

 はらわたの煮えくり返った俺は、そいつの手を容赦なく払いのけると振り向きもせずに部室から出た。もう誰も相手にしたくなかった。

 しかしそいつは、早足で下校しようとする俺にしつこく付きまとってくる。廊下を歩き、階段を降りる間も、さんざん「戻れ謝れ」と聞かされた俺は、昇降口で靴を履き替えたところで腹に据えかねてそいつを振り返った。

「どうせあの子も俺が父さんの……売れない画家の子供だから馬鹿にしてるんだろ!? やり返して何が悪いんだよ!」

「違う! あの子はただ単に、お前と友達になりたかっただけだ!」

「……え」

 そいつの余りに予想外な言葉に、俺はそのままそこで固まってしまった。この学校で臆面おくめんもなく俺と「友達になりたい」だなんて言う馬鹿な奴は目の前のこいつ以外にはいないと思ってたから。

 俺はきっととても意外そうな間抜け面を晒していたに違いない。

「あの子はうちの親父の知り合いの子供で、お前と同じように俺の友達なんだ。前は遠くに住んでたけど、最近こっちに引っ越してきたから、俺の友達とも友達になりたいって言ってた。それだけなんだよ」

 そう言われて、俺は初めて思い至った。彼女が俺を見る目にはあなどる色はなくて、ただ純粋な好意と好奇心だけが乗っていたことに。

 呆然とする俺を見て、そいつは一度長い息を吐いてから大人っぽく苦く笑った。

「落ち着いたか?」

「……うん」

 バツの悪い気分。しかし俺は素直に頷き顔を上げた。

 冬の早い夕暮れに赤く染まる昇降口。立ち並ぶ靴箱の陰から、泣きそうな目をしたままの彼女が俺たちを見ていた。彼女の濡れた瞳が夕日の光を溜め込んで、きらきらと輝いている。その光景に頬が火照るのを感じて、俺は思わずそこを手の甲でごしと擦った。

 そして、俺は夕暮れの光がこの頬の赤みも誤魔化してくれることを祈りながら、彼女に初めての笑顔を向けたのだった。

 だけど彼女が俺たちに駆け寄ろうとしたその時、俺は彼女の背後に小さく黒くわだかまる影のようなものを見た気がした。

「……?」

 だけどそれが見えたのは一瞬のことで、俺はそれを夕暮れが見せた幻なのだと思った。

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