7.トイレット・エレジー

 洗面台の蛇口から流れ落ちる水で手を洗う。

 十分と思うまでごしごしと強めに擦り洗いをしてから、口に咥えていたハンカチで丁寧に水分を拭き取った。

「………………」

 私はその手を天井から降り注ぐ照明の光に透かすように持ち上げて見つめてみた。インドア生活が長いせいか気持ち悪いくらい青白いなと思った。

 ここは稀墨社きぼくしゃの入居しているオフィスビルの女性用トイレだ。都会の大きなオフィスビルだけあって、トイレと言えどお洒落しゃれで明るくて綺麗に手入れされている。

(それに比べて……)

 私は洗面台に取り付けられた大きな姿見すがたみをちらりと見て、はあと深いため息をついた。姿見には、いつもの構わないジーンズとパーカーを着て、瓶底みたいな分厚いレンズが入った大きな黒縁の眼鏡をかけた貧相な女の姿が映っていた。この全てが都会的でキラキラしたオフィスビルに私なんかが居るのはとんでもない場違いなのではないかという気がした。

(なるべく来るのは避けてたんだけどな……)

 なぜ避けていたはずのここに私がやってきたのかといえば、くだんの草壁氏との顔合わせが稀墨社編集部内のブースで今日行われることになっていたからだ。

 約束の時間を間近に控えて、私は喉から心臓が飛び出していってしまいそうな程緊張していた。

 それは期待に、というよりは不安と憂鬱ゆえのものだった。

 上京してもう五年も経つけれども、私の東京での交友関係はほぼさらだ。携帯のアドレス帳に入っているのも黒野さん以外は、仕事上で一、二度顔を合わせただけの知人未満の人ばかり。友達もいない。

 上京してきた当初は友達を作ろうと努力したこともあった。けれども、元々子供が私しかいないド田舎の小集落で生まれ育った私のこと。友達の作り方が解らず繰り返す空回りに、いつしか心折れて諦めていた。

 そんな状態の私に降って湧いたこの顔合わせの話。

 本来ならとてもありがたい話のはずだ。

 黒野さんの旧友きゅうゆうだというから私よりは少し年上かも知れないけれど、友達とは言えずとも知り合いくらいにはなって貰えるかもしれない。

 そういう期待も無くはなかった。

 だけど、それ以上に不安が心を塞ぐ。憂鬱にため息が漏れる。

 私みたいな冴えない女が出て行ったら嫌な顔をされたりしないだろうか。もしも拒絶されたらどうしよう。そうだ、私なんかが気に入ってもらえるはずがないんだ。

 考えれば考えるほど、思考は悪い方へ悪い方へと転がっていく。

 だけどいつまでもトイレにもっているわけにもいかない。

 最後にちょいちょいとつつくように前髪を直してから、もう一度特大のため息を吐いて私はトイレを後にした。

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