4.覚醒と覚悟

「せ……せい……せんせい……?」

 近くで黒野さんの声がする。

 私を……呼んでる?

 それと同時に、私の肩に優しく誰かが触れる。そして、軽く私の体を揺すった。

「……ん」

 私は鼻から抜けるような息をしてから、薄らと目を開こうとして――。

「――っ!」

 その瞬間、私は今までのことを思い出してがばりと勢いよく顔を上げた。

 そうだ、私は黒野さんを待つ間に寝てしまったんだった。寝ていたのはどれくらいだろうか。黒野さんは?

 慌てて辺りを見回す。

「ああ、起きたね。戻ってきたら寝てるから驚いたよ」

 黒野さんは苦笑いをしながら、傍らに立っていた。

 どうやら私は喫茶店の椅子に座ったまま机に突っ伏して寝ていたようだ。黒野さんはその私の肩を揺すって起こしてくれたらしい。

「す、すみませんっ! すみませ……痛っ!?」

 あまりの失態にさーっと青ざめた私は、勢いよく頭を下げて謝ろうとした。しかしその拍子に顔面を机の天板にぶつけて悶絶する。鼻の頭とおでこ、あと眼鏡を強打してしまったのだ。

「だ、大丈夫かい?」

「は、はい……」

 私は申し訳なさと恥ずかしさに俯きながら黒野さんに返事をすると、ずれてしまった眼鏡を直してその無事を確かめる。まあ、分厚いレンズとそれを支える太いフレームは頑丈で、ちょっとやそっとでは壊れたりはしないのだけれど。

「……原稿の後だからね。疲れがたまっていたのかな」

「そう、ですね。そうかも知れません」

 黒野さんが言ったように、私は先ほどの原稿を書くためにここ数日の間少し無理をしていた。その疲れが泣いたことで表に出て、店内の過剰な暖かさも手伝って強い眠気になったのかもしれない。

「さて、俺はそろそろ編集部の方に戻らなくちゃならないから、君も今日はもう帰ってゆっくり寝るといい」

 そんな風に優しく言って、机の上で荷物をまとめ始めた黒野さん。私はまだしつこく残る眠気にぼんやりとしながらその言葉に頷いて、しかし、はたと思い出して黒野さんを見上げる。

「あの、さっきのお話なんですけれども……」

「ん?」

「……私、ホラー小説書きます。……いえ、書かせてください!」

 私は私なりの覚悟を決めて、しっかりと黒野さんに申し出た。

 私が自分からはっきりと意志の表明をしたのがよほど珍しかったのだろうか。黒野さんは少しだけ驚いたような顔をして私を見ていた。

 でも、すぐに楽しそうに小さく微笑んでくれる。

「……期待してるよ、御陵先生」

「は、はい……!」

 その返事は緊張に僅かに上擦っていた。

 覚悟を決めたと思っていたのに、なんて頼りない返事だろうか。

 だけど黒野さんは、その私を見て大きく頷いてくれた。

 黒野さんはいつだって私の背中を押してくれる。黒野さんがいるから、私はこうやって頑張れるのだ。

「あ、すまないけれど、詳細はまた今度でいいかな」

 黒野さんが腕時計で時間を気にしながら言うのに合わせて、私は今度こそ慎重に頭を下げた。

「あっ、はい! 引き留めてしまってすみませんでした」

「いやいや、君がその気になってくれたなら俺も嬉しいんだ。……っと、じゃあ、そろそろおいとまするよ」

 コートをさっと軽やかに羽織りえりを軽く引いて整えた黒野さんは、小さく手を上げて笑顔を見せてから、私に背を向ける。そんな細かな動作にも一々どきどきしてしまいながら、私はその黒野さんの背中に向かってぺこりと一礼をした。




 黒野さんの背中が自動ドアの向こうに完全に見えなくなるまで見送ってから、私はすとんと落ちるように元いた椅子に座り込む。

「ふう……」

 気持ちはふわふわと高揚している。それなのに、まだあの眠気がしつこく残っていて、いやに体が重く、ぐるぐると目が回る。私はぼんやりとする意識をいなしながら息を吐いた。

 ふと、机の上に残っていたホットコーヒーに無意識に口を付けた。あまりすっきりした気はしなかったけど、それはまだほんのりと暖かかった。

「……あ」

 そしてまるで今気付いたかのように机の上に置かれていたUSBメモリを指先で拾い上げると、それを手のひらでしばらくもてあそんでから、外出する時にいつも持って出る安物のトートバッグの中に丁寧に仕舞った。

 そしてもう一度、カップの中に僅かに残ったコーヒーに口を付けようとして、小さく首を横に振る。

 私は気分を切り替えるように立ち上がり、椅子の背もたれに掛けてあったダッフルコートをもたもたと羽織ると、トートバッグを肩に掛けた。使っていたテーブルの上を片付けて食器を返却口へと押し込む。

「ありがとうございましたー」

 面映おもはゆいような店員の作り声を背に一歩喫茶店の外に出ると、店内が暖かすぎたのがすぐに裏目に出た。うっすらとかいた汗が冷え、必要以上の寒さが襲ってくる。

(うう、早く帰ろう……)

 だぼついたダッフルコートの肩を自分で抱いて震えると、私は自宅であるアパートの部屋へと向かって歩き始めた。

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