3.あなたのために

 湯気の立ちのぼる暖かいコーヒーを軽く口に含んでから、私は黒野さんの話を詳しく聞かせてもらうことにした。

「御陵先生は髑髏小路どくろこうじ敦志あつし先生を知っているかな」

「ええ、勿論。私と同じ稀墨社きぼくしゃの第五十八回新人賞に応募して、文句なしの大賞を取ってデビュー。今はホラー小説界の貴公子と言われている若手の売れっ子小説家ですよね?」

 書いているジャンルこそ違うけど、いわば同期の出身である髑髏小路先生の噂はよく耳にする。そのどれもが、私のような無名小説家にとってはため息も出ないくらいに世界の違いを見せつけられるものだった。

 若干の弱者の嫉妬ルサンチマンを感じている私の心境を知ってか知らずか、黒野さんは右手の人さし指でとんとんと机の天板を叩いた。

「そう、その髑髏小路先生。彼はホラーの普及と発展にも並々ならない熱意を持っていてね。自分と共にホラー界の今後を牽引けんいんする若い才能を見出したいらしい」

「はあ……」

「今、彼は小説家に限らず若手クリエイターに広く呼びかけてホラー作品を制作して貰い、アンソロジーとして纏めて発行しようという企画を進めているんだ」

 ここまで言われれば、黒野さんが何を言わんとしているのかは解る。だけど、私にはいまいちピンとこない。

「つまり、そのアンソロジーに寄稿する小説を書いてみないかということですか? でも私、ホラーは今まで書いたことないですし……」

 だけど黒野さんはそんな私の弱気を嘆くように少しだけ目を眇めた。そして、また一口カフェオレを飲む。

「誰にだって初めてはあるだろう? なに、気後れすることはないよ。この企画には今までホラーに触れてこなかったクリエイターとそのファン層にも、ホラーが極上のエンターテイメントであることを訴えかけるという側面もあるからね。参加者も半数は君と同じで、初めてホラー作品を作るんだ」

 そこまで語ってから、黒野さんは考え込むように一瞬だけ口をつぐんだ。

「……それに、俺は見てみたい」

「え?」

 一瞬、黒野さんがソーサーにカップを置き直しながら発した言葉の意味が解らずに、私は首を傾げる。

「御陵先生の書くホラー、俺は見てみたい。俺は編集者だけど先生の小説のファンでもあるし、少なくともこのままなし崩しに君に文壇から消えていって欲しくはないんだ」

「……あ」

 そう言われて思い出した。

 田舎の平凡な高校生だった私が恐れ知らずに稀墨社の新人賞に送った小説。それを気に入って佳作に推してくれたのは黒野さんだった。

 私がすぐにでも上京して小説家になりたいとわがままを言った時、きちんと高校の卒業だけはしなさいとたしなめてくれたのも黒野さんだ。

 実際に卒業を迎えた時、私の上京と小説家デビューに最後まで反対していた祖父のことを、東京から遠く離れた私の実家に来てまで上手く説得して退しりぞけてくれたのも黒野さんだった。

 私のためにこんなに一生懸命になってくれる人なんて初めてだったし、当時の私はそんな風にして貰う価値が自分にあるとは到底思えなくて困惑していた。

 だから、祖父を説得するために実家へ来てくれた彼を街へ向かうバス停まで送る際に、どうにかこうにかもやもやしている気持ちを一つだけ質問にして投げかけたのだ。慣れない都会の男性相手にどう訊ねたものか、とっても悩んだのを覚えている。

『どうして、私なんかのためにこんなにしてくれるんですか?』

 結局、私の口から出たのはこれだけで。だけど、黒野さんは少しだけ考えるような仕草をしてから照れたように唇の隙間から白い前歯をちらりと見せてはにかんで言ったのだ。

『それは多分、俺が君の小説のファンだからだよ。俺はもっと君の小説を読んでみたいがために動いていて、それがたまたま君の利益に繋がっているわけだ。だから君は遠慮無く俺を頼ってくれて構わない。俺は作家を育てる編集者として、若者の夢を守る大人として、そして何よりのいちファンとして、君と君の作品を応援したいんだ』

 その答えを聞いた時、私はあまりのことに呆然と彼を見上げたまま、ぼろぼろと涙を零してしまった。

 黒野さんと会うまでは、私の周囲には私の小説を読んでくれる人も褒めてくれる人も、勿論ファンだなんて言ってくれる人もいなかった。私にいくつもの初めての言葉をくれた黒野さんが、私には眩しくて仕方が無かった。

 そして決めたのだ。相変わらず自分の価値に自信なんてなかったけれど、私はこの人のために小説を書き続けよう。そしていつの日か立派な小説家になるのだと。

 私はその時の気持ちをまざまざと思い出していた。五年以上が経って忘れかけてはいたけれどその気持ちは風化せずにずっと胸の内にあって、そして今、春を迎えた植物が芽吹くように鮮やかによみがえってきた。

 ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚と共に目に涙が溢れるのを止められず、あの時と同じようにぼろりと零してしまう。

 泣いている私を見て、黒野さんは少しだけ困ったような顔をしていた。それはそうだろう。田舎の道ばたにいたあの時と違って、今は周りにたくさんの人の目がある。私となんかじゃ勘違いされることもないだろうけれど、泣いている女と一緒にいるところを見られるなんていうのは、一般的に醜聞しゅうぶん以外のなにものでもない。

「ご、ごめんなさい、これは違うんです。辛いとか、悲しいとかではなくて……。……私、またそう言って貰えたのが嬉しくて……」

 私は焦ってパーカーの袖で目頭を強く抑えた。それでも涙は次から次へと溢れてきて袖を濡らす。

「………………」

 その私を見て、何を言おうとしたのだろう。黒野さんが小さく口を開けようとしたその時、机の端に置いてあった彼のスマートフォンがブルブルと細かく震え始めた。着信のようだ。黒野さんは慌ててスマートフォンを手にしようとして、ふと迷うように私を見た。

 多分、黒野さんは私のことを心配してくれているのだろう。でも私は小さく首を振ってからなるべく不自然にならないように唇の端を持ち上げる。

「わ、私なら大丈夫ですので、出て下さい。急用だったら大変ですし……」

「……すまない。すぐ戻ってくるから」

 そう言って黒野さんはスマートフォンを手に店内を足早に抜けて店の外へと出て行った。私は黒野さんの背中が出入り口の自動ドアの向こうに消えるまで見送ってから、ほうと大きな息を吐く。

 胸はまだ少しきゅんと痛んだ。けれどその甘い痛みに比例するように気分は晴れやかで頬はつい緩む。

(黒野さんが、まだ私の小説のファンだって言ってくれるなんて……)

 意地悪な言い方をすれば、それは作家をやる気にさせるための編集者の方便かも知れない。だけどそれでも良かった。方便だろうと何だろうと、裏を返せば黒野さんは私にまだ一定の期待を持ってくれているということだ。

(なら、私はその期待に応えたい……な……)

 そんな風に考えて更にだらしなく頬を緩める私。でもその瞬間、私はぐらりと脳裏に強い眠気が押し寄せてくるのを感じていた。自然と目蓋が重くなり、自分の意思に反して頭がこくりこくりと船を漕いでいるのがわかる。

(寝ちゃ、ダメなのに……黒野さん……戻って……くる……)

 だけど、私の眠気はおさまるどころか更に強くなる。抗えない。

 そして、私の意識はすうと眠りの世界に落ちていった。

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