第59話 夜明け

 大河たいがと眼前に立つ怪物との距離は、数十センチという近さで、今から逃げ出せるような状況ではなかった。


 すぐさま後ろを振り向き、逃げ出すこともできなくはないだろうが、そのためには首塚の台座や墓標を避けて走る必要があり、なおかつ手にしている真っ白な布地を何とかせねばならない。


 それだけに留まらず、隣にいる静穂しずほを放って逃げた場合、彼女が被害を受けないという保証が一切ないということも、大河の足をその場に繋ぎとめる大きな要因となっていた。


 だからといって、大河自身が何もしなければ、この場に残された全員が命を落とすという結果になりかねない。


 できることなら、対処法であるとか回避策といった、現状を打開する案を考えたいところであったが、怪物の命を刈り取ろうとするかのような禍々しい軌道を描いて近づいてくる腕は、その時間すら満足に与えてはくれない。


「これまでか……」


 こんなことなら、ダメ元で逃走を試みてもよかったのではないか。


 そんな後悔を何度も頭の中で繰り返しながら、大河は申し訳ないという思いから最後にもう一度、静穂のいる方へと顔を向けた。


 最後になるかもしれない静穂の顔は、相変わらずの薄暗さのせいではっきりと視認することはできなかったが、悲哀に満ちた表情をしていることだけは理解できた。


 そして、せめてものあがきとして、大河は毅然と怪物へと向き直り、目を閉じる。


 果たして、首をつかまれるのか、それとも臓物を抜かれるのか、はたまた手足をひねり上げられるのか。


 拷問じみた数々の苦痛を想像し、大河はじっと身構える。


 しかしながら、どれだけ待っても身体に痛みが走ることはなかった。


 もしや、痛みを感じる前に、既に死んでしまっているのではないか。


 そんな空想じみた展開を頭に描く大河の意識を、現実に引き戻したのは、静穂の興奮したような声であった。


「大河さん、大河さんっ!」


「……ん、静穂か。これは一体……」


 恐る恐るといった様子でまぶたを持ち上げる大河。


 そこに映ったのは、輝くような白い布を手に、山の中へと歩いていく、怪物の後ろ姿であった。


「――そういえば」


 ハッとして自らの手元へと視線を向ける大河であったが、先ほどまでは確かにそこにあった、大村おおむら誠吾せいごより受け取った純白の反物は、すっかり消え去っていた。


「……大河さん。助かったんですか?」


 脇から聞こえてくる静穂の声に、大河はただまっすぐ、小さくなっていく怪物の背中を見つめながら、うなずいた。


「そう……みたいだな」


 塗りつぶしたかのように漆黒に染まっていた空は、いつしか青味を帯びてきていて、朝の訪れをひっそりと教えてくれていた。


 そして、完全に怪物の身体が木々の間に消え去り、捧げた反物の放つ、白い輝きも見えなくなった頃には、入れ違いになるかのように朝陽が山際から差し込んでくる。


 その眩しさに、大河も静穂も、思わず目を細めた。


 それでも太陽は、その動きを止めることなく、より一層強く世界に光を与え続ける。


 生き残った二人は、その光景を、ただただ、呆けた様子で眺め、生を実感し、喜びを噛みしめていた。


 それからしばしの時間が流れた後、怪物が姿を消したこと以外に起こった変化に、いち早く気付いた静穂が、大河へと呼び掛ける。


「あの、大河さん……ここって、こんな窪地でしたっけ?」


 静穂の声に促され、大河が目を向けた先は、大学生の三人組をはじめとして、警察官である益川ますかわ、山を管理する立場である大村家の当主である大村誠吾といった人々の遺体が、これみよがしに積み重なっていた箇所であったはずであった。


 だが、今実際に目の前にあるのは、遺体はおろか、血痕や動物の骨ひとつもない、ただの窪地であった。


「遺体が、消えた?」


 もしかして、ここで目にしたものは、すべて夢だったのだろうか。


 そんな疑念を抱きつつも、大河は自ら首を横に振って、思考を放棄する。


「いや、もういいだろう。夢だろうと幻だろうと、生きていられたならそれで充分だ。きっと、あの怪物が向こうの世界に連れて行ってくれたんだろうよ」


 大河はシワだらけになってしまった着衣を、強引に引き延ばし、整える。


 そして、被っていた黒い帽子の角度を調整した後、ズボンのポケットへと手を突っ込んで、怪物が消え去ったのと逆方向へと歩き始めた。


「あっ、待ってください」


 突然歩き出した大河に、静穂も慌ててその後を追った。


 その際、足元にあった薄い木製の箱を蹴飛ばしてしまい、思わず目を向けてしまう。


「……あれ?」


 そこには、血で真っ赤に染まっていた形跡など微塵もない底板と、若干土埃を擦り取って茶色に変色したタオル、そして今にもどこかへ飛び去ってしまいそうな、薄く儚そうな白色をした、反物を包んでいた和紙が散らばっていた。


「どうした、帰るぞ。静穂がいないと車が動かねぇんだからな」


「だったらもうちょっと私に気を使ってくださいよ。いつもそうやって自分一人だけ先走っていっちゃうんですから!」


「わかったわかった。だから急げ。もう腹減って仕方ねぇよ」


「……わかりましたよ」


 静穂は呆れた様子で大きくため息を吐いて見せると、持参してきた荷物を手に、大河を追いかけるべく、駆けだす。


 涼やかで澄み渡った、心地よい朝の空気の中。


 大河と静穂は、どこからともなく聞こえる風の音と、小鳥の囀りを耳にしながら、レンタカーの置かれているであろう、集落の反対側まで、二人並んで戻っていくのであった。

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