第58話 危機

「これは……どういう理屈だ? この箱、紙製ってわけじゃないよな?」


 顔を近づけてみるが、どう考えても箱からは赤黒い液体が染み出ているようにしか見えず、大河たいがは再び静穂しずほへと確認する。


 すると静穂も、困惑した様子で言葉を返した。


「はい、この厚みといい、質感といい、どう見ても木製の箱ですけど……だとするとこの血の染み込み具合の説明がつかないんですよね」


 静穂の言葉に、大河は険しい表情を浮かべ、その場にたたずむこと数秒、半ば開き直ったかのような声色で、自らの助手へと指示を出す。


「とにかく、この染み込んでくる液体が何であろうと、今は取り除く以外に方法はない。静穂、タオルでもハンカチでも何でもいい。とにかく染み込んでこないようふき取ってくれ」


「ふき取るって、私がですか⁉」


「急いでくれ、あの大村おおむらって男も、きっとそう長くは持たない」


「……わかりましたよ。でも、手当いただきますからね」


 大河の切羽詰まった声に、静穂は嫌々ながらもうなずき、汗拭き用のタオルを取り出すと、足元にある平べったい、石の台座のようなスペースの前に屈んで、転がった和紙やら木箱やらを払いのけると、汚れをこすり落とすように、何度も拭き始める。


 しかし、幾度も手を動かしたにも関わらず、石の台座は何の変化も示さなかった。


 それも当然で、元々石の台座は血に濡れていたなどという状態ではなかったのだ。


 その上で、布や紙、挙句は木の板にまで血のような液体が染み出して赤く染め上げるのだから、奇怪としか言いようがない。


 そして、なおも懸命に手を動かし続けている静穂であったが、その努力は悲痛な悲鳴と共に、唐突に終わりを告げる。


「――ひぃっ!」


「どうした、静穂!」


 思わず尻もちをついた静穂は、言葉を発することもままならないといった様子で、反射的に投げ出していた、折りたたまれたタオルを指さしていた。


「んっ?」


 静穂の指先から視線をたどり、行きついた先にあったタオルの塊へと、大河は目を向ける。


 瞬間、大河は驚き、目を見開く。


 そこにあったのは、先ほどまでは確かに真っ白であったはずのタオルが、今では真っ赤に染まっていた姿であった。


「どういうわけだよ……これじゃあ、この布も置いたそばから汚れちまう……」


 今にも舌打ちをしてしまいそうになるのを、静穂のいる手前、大河はぐっとこらえる。


 しかし、そうしたからといって、画期的な解決策が思いつくわけもなく、どうしようもないというもどかしさに大河はくちびるを噛む。


 それからどれだけの時間が経過したことだろう。


 思考に集中していた大河が我に返ったのは、不意に抜けてきた、生暖かな風の感触を背後に受けたからであった。


「た、大河さんっ……あれ……」


 静穂の驚き、怯えた声に反応して、大河もまた背後へと顔を向ける。


 するとそこには、ついさっきまで、遺体の山の最上段に乗っていた女性警官――益川ますかわの遺体の、更に上にもう一つ、血まみれになった小柄な男性の死体が無造作に乗せられていた。


 その絶望を凝縮したかのような顔は、まぎれもなく大村誠吾であり、その死体がこの場へと運ばれてきたということにより、怪物の殺戮は止まらないということを暗に証明していた。


「まさか……」


 視線を上向け、まっすぐに遺体の山の、更に向こう側を見据える大河。


 そこにいたのは、この地を訪れてから幾度も目にしてきても、いまだに慣れることのない、おどろおどろしさと不気味さ、そして強烈な威圧感を放つ、大鉈を手にした怪物であった。


 予想をしていたとはいえ、いざ対峙すると、それまで抱いていた覚悟は瞬時に溶け去り、膝が笑い、両腕から力が抜けてしまいそうになる。


 だが、それを大河はきつく食いしばった口元の痛みで、ギリギリ四肢の感覚を繋ぎとめる。


 静穂の居る手前、カッコをつけたいだなどという、煩悩にまみれた考えはまったく浮かばなかった。


 ――否、浮かべるだけの余裕すら、どこかに逃げ去ってしまっていた。


「大河さん……なんです、あれ?」


 すぐ近くから、静穂の声が大河の耳へと流れてくる。


 その言葉からも、静穂の目にも、眼前の怪物の姿が見えているのだということを推測するのは、難しいことではなかった。


 だが一方で、そんな静穂に対して、掛けるべき言葉を持ち合わせていなかったのも事実であった。


 まるで、自らの存在が幻であると言っているかのように、音もなく近づいてくる怪物。


 それが本当に幻であったなら、どんなに良いだろうか。


 噛みすぎた唇が切れ、大河の口元から血がたらりと垂れ、あごへと伝う。


 それでも手にした白い反物へと垂れることがなかったのは、ひとえに偶然からくる幸運ゆえのものであった。


 あごから滴り落ちた血は、ぽとりと大河の黄色いシャツへと付着し、子供の落書きのような小さな点を描く。


 その間も、怪物の動きは休まることなく、まっすぐに、大河の方へと向かってくる。


 もし、ここで大河が絶命することがあったなら、次の標的は間違いなく静穂となるであろう。


 大河自身、それは何としても避けたい事態であったが、回避する術がまったくもって思いつかないのもまた事実であった。


 今から走れといったところで、時間の問題であり、いずれこの地まで連れ戻されてしまうことは明らかだ。


 だからといって、ここで戦うとしても、大河よりも背が高く、ガタイの良い怪物に大して身体能力が高いわけでもない人間が二人、対抗できるのかというと不安しかない。


 焦りと動揺から、回転させていた思考がいつの間にか停止し、脳内が真っ白になる。


 もう、いっそのこと、作業のためにと設置しておいたライトの光を消して、時間を稼ぐのはどうだろうかなどと、延命の方法に考えが及び始めた頃だった。


 もう怪物の吐息が顔面に吹き付けられようかという、この上ない近距離にまで怪物が近づいていたのだと、大河が気付いた時は、もう手遅れであった。


「――大河さんっ!」


 ずっと呼び掛けていたのだろうか、いつの間にか耳に入っていなかった静穂の呼びかけが、ようやく耳に入り、言葉として認識される。


 それと同時に、怪物の、元の関節の位置すらわからなくなりそうなほどに異様に折れ曲がった左腕が、大河へと向けて伸びてきていた。

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