第57話 赤に染まる

「――えっ?」


 妙な胸騒ぎを覚え、前原まえはら静穂しずほは首塚へと向かう足を止め、背後を振り返った。


 しかしながら、そこに広がっているのは黒一色の世界であり、ライトを向けてみても、まるで暗黒のカーテンでも下りているかのように、その先の様子をうかがい知ることはできない。


「どうした、早くしないと手遅れになりかねないぞ」


 前を進んでいた男――屋敷やしき大河たいがも、目の前を照らすライトが途切れたことから静穂の足が止まったことに気付いたらしく、背後を振り返ると、強めの口調で呼び掛けた。


「いえ、その……なんだか胸騒ぎがして……」


「虫の知らせってやつか。確かに、あの状況じゃ長くはもたなかっただろうしな」


「えっ、それじゃあ、大河さん――」


 思わず静穂の手に力が入る。


 対して大河は露骨に視線を外し、静穂へと背を向ける。


 その背中は暗闇の中においても、しっかりとその大きさを見て取ることができていたが、ちらりと見える大河の横顔は、何かを必死にこらえるように、苦々しい表情をしていた。


「――行くぞ」


「……はい」


 ――もしかして、見えていたのですか?


 舌の付け根まで出かけていたその言葉を、静穂はぐっとこらえて、なんとか喉奥へと押し返し、胸に留める。


 大河なりの気遣いであれ、そこまで伝える必要はないという判断によるものであれ、大河がそれを口にしなかった以上、静穂の方からそれを掘り返すのは適切とは言えない。


 手にしていたライトを大河に手渡すと、静穂は改めて抱えていた風呂敷包みを両腕でしっかりと抱き留め、眼前に立つ上司の背中を見つめる。


 そして、大河の背がわずかに動き、自らも後に続こうと一歩を踏み出した瞬間、日中に顔を合わせた時の大村おおむら誠吾せいごの顔や立ち居振る舞いが、静穂の脳裏に浮かんだ。


 後ろ髪を引っ張られるような感覚にとらわれ、足が止まりそうになる。


 だが、そこを歯を食いしばり、首をまっすぐに据え、静穂は大河の背中を見つめながら必死に駆けた。


 決して、走りやすい道のりとはいえない、雑草が生え放題の、凹凸だらけの細道。


「そろそろだ。気休めかもしれないが、気張ってついてこいよ」


「はい!」


 大河の言葉の意味が正直理解できていなかったが、静穂は自らの心を奮い立てる意味も込めて、威勢よく声を発する。


 しかし、静穂はその意図をすぐに理解することができた。


 首塚と思われる、集落の末端にある森林に囲まれた空間。


 そこへ足を踏み入れた途端、周囲の温度が一気に下がったように思えて、静穂は自然と周囲を見回してしまう。


 一方の大河は動じていないらしく、若干肩を上下させながらも、幾分落ち着いた足取りで、目的の場所であろうこんじまりとした墓標の方へと向かっていた。


 静穂も後に続こうと歩き始めた途端に、わずかに鉄臭さと何かが腐ったような不快な臭いが、漂ってくるのを感じ、顔をしかめる。


 それは一歩、また一歩と足を進めるごとに、強烈になっていき、胃袋がひっくり返ってしまいそうな程にひくつき始める。


 今にも戻してしまいそうな程の、腐臭。


 それが、人間の死体から発せられるものであることは、静穂にも容易に理解できた。


 今すぐにでも引き返して新鮮な空気が吸いたい――そんな思いが頭の中に充満しつつあったが、前を歩く大河の背中を見て、涙ながらに息を止め、手にした荷物をきつく抱きしめ、後へと続く。


 大河自身も、口元に手を当て、なるべく空気を取り込まないよう注意している様子がうかがえた。


 それを目にした静穂も、片手を空けて、同様に口と鼻を覆う。


 二人とも、余計な会話などしていられるほどの余裕は、もうなかった。


 何かを避けるように、大河の身体が脇へとそれる。


 ライトが向けられなかったこともあって、そこに何があったのか、ハッキリとみることができず、静穂の目は自然と細められ、その物体をよく見ようと反応する。


「――っ⁉」


 目に飛び込んできた衝撃的な光景に、思わず状態をのけぞらせる静穂。


 そこにあったのは、ほぼ原形をとどめていない、何重にもつけられた傷によって胴体がえぐられたような状態になっている、遺体の山であった。


 恐らく、これが日の高い時間帯であったなら、静穂は胃の内容物をすべて吐き出してしまっていたことであろう。


「――静穂、早くこっちに。あまりそれを見るな!」


 先に目的の箇所へと到達した大河は、静穂のいる方を振り返り、行動を促す。


 静穂は衝撃のあまり、返事をすることもできず、ただ何度もうなずきながら、大河の元へと、上体をふらつかせながら向かった。


 そして、探偵と探偵助手――二人の姿が墓標の前へと着いた時、大河は静穂から風呂敷包みを受け取り、その結びを解いた。


 包みの中から出てきた薄い木の箱のフタを開けると、そこには薄く白い和紙に包まれた、白色に光る無垢な反物が納められていた。


「これを、供えればいいわけだな」


 確認するように、大河はつぶやきそっと反物を手に取る。


 中味を手に取ったことによって、木製の薄い箱はカランと高い音を立てて足元に転がり、白い和紙がはらりと舞って、同様に墓標前に落ちた。


 そして、いよいよ大河が膝を折り曲げ、手にした白い布地を置こうとした刹那――静穂の大声がそれを呼び止める。


「大河さん、ちょっと待ってください。ちょっと、変ですよ!」


「変?」


 静穂から発せられた『変』という単語に、大河は眉をひそめ、再び立ち上がり、足元へと目を向ける。


 そこにあったのは、元は確かに白色をしていた、反物を包んでいたはずの和紙が、真っ赤に染まり、湿った姿であった。


「これは……一体どうして」


 足元は、場所や時期的に考えて、多少湿っているのはおかしなことではない。


 だが、そこには血溜まりができているわけでもないのに、赤く染まるというのは、どう考えても不自然であり、不可解だ。


 このまま反物を置いても大丈夫なのか、それとも同様に血色に染まってしまうのか、大河は考察も判断もできず、ただ立ち尽くす。


 ただ、何となくではあるが、このまま供えるのはまずいのではないかという、ぼんやりとした不安が、大河の行動を繋ぎとめていたのだ。


「静穂。これは、置いていいと思うか?」


「……わかりません。でも、私はいい予感はしないです」


「そうか……実は俺もだ」


「大河さんもなんですね。でも、このままじゃ置くことができないですよ?」


 静穂の言葉に、大河はしばし考え込むと、自信なさげにとある提案をする。


「だったら、まずこの箱を置いてくれ。あまり褒められた捧げ方ではないが、汚れるよりはマシだろう」


「箱ですね……」


 大河の指示に従い、静穂はその場にしゃがみ込み、箱を手にしようとする。


 だが、それ以上静穂の手が動くことはなかった。


「どうかしたか?」


 気になって声を掛ける大河。


 すると静穂は顔を上げることなく、震える声で答えた。


「ダメです……この箱も、何故か底から赤く染まっちゃってます」


「なんだって⁉」


 静穂の回答に驚き、自らも箱の内側をのぞきこむ大河。


 そこにあったのは、まるで綿でできているのではないかと思えるほどに、底板の中央から真紅が広がる、世にも奇妙で、不気味な箱であった。

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