第56話 生存本能

「あ……あぁ……ああ――」


 誠吾せいごの口から漏れる声は、もはや言葉の体をなしてはいなかった。


 それほどに、眼前にいる怪物は威圧的で、おどろおどろしく、根源的な危機感を抱かせるオーラを放っていた。


 それでも誠吾が何とかして言葉を発しようとしたのは、恐怖に完全に屈してしまったからというわけではなく、自らの中にかろうじて残りうる勇気を振り絞って、何かしらの交信を試みようとしたがためであった。


 ただ、満足に言葉を発せなかったこともあり、誠吾の思惑は完膚なきまでに叩き潰され、怪物による殺戮の幕開けに立ち会うことになる。


 恐れと緊張から、誠吾の身体は、まるで全身が金縛りに遭ってしまったかのように、ピクリとも動かない。


 大河たいが静穂しずほといった、外の者たちが視界に留まっていた時は、まだ気張って指示を飛ばすことはできていたが、一対一の場面になった途端、そういった気持ちの後ろ盾が急に無くなったこともあり、誠吾が当初抱いていた決意だとか思いは、まるでろうそくの灯火を吹き消したかのように、唐突に消失する。


 そんな誠吾に対して、怪物はまるで値踏みをするかのように顔を近づける。


 ボロボロの布を包帯のように目元に巻いているにも関わらず、自分のことをつぶさに観察しているかのように感じられ、誠吾はますます委縮し、膝を震えさせた。


 元々背の低かったこともあり、誠吾の視線は天を仰がんばかりの角度で持ち上がってはいたものの、今にも食われてしまいそうな距離感に、誠吾は全身の毛穴から一斉に汗が噴き出し、心拍がこの上なく激しい脈動を奏でだす。


 ぼさぼさの頭に、歪に歪んだ鼻や口と、そこからのぞけるボロボロの歯。


 ライトの光にうっすらと浮かび上がる痣のような跡は、より悲惨さを増長させ、それをもろともしない態度によって、すべてが恐ろしさに変換される。


 肉体も異質で、利き腕であろう右腕は丸太のように太く発達しており、その先には血濡れた大鉈の刃がライトの光を反射している。


 空いている左腕も、あらぬ方向へと折れ曲がり、目を背けたくなるような痛々しさだ。


 また、ボロボロの布切れをまとっただけのような衣服には新古様々な血が染み込んでできた赤黒さと真紅、そして黒土で押し広げたかのような、乱雑で狂気的ともいえるデザインをしており、誠吾の鼻にも、鉄臭い血の臭いが漂ってきそうなほどであった。


 言葉を失った誠吾と、しきりに何かを確認する怪物。


 その命を削る延命の時間は、数分も経たない内に終わりを迎える。


 無論、答えを告げるのは、圧倒的に優位な立場の存在である怪物の方である。


 容姿からなのか、それともにおいからなのか、はたまた人間の認知できない、何らかの感覚なのか。


 怪物は、誠吾を自らの仇であると認識したらしく、近づけていた顔をもとの位置まで遠ざけると、その立派な右腕で大刀とも呼べるような長い刃を持った大鉈を振り上げた。


 振り上げた勢いで、刀身に残っていた、まだ乾いていない鮮血が飛び散り、誠吾の顔に飛沫となって降りかかる。


 その瞬間になって、誠吾はようやく自らの身の危険を、本能的に察知することができた。


 ――逃げなくては。


 長いこと休眠していた生存本能の覚醒に伴い、誠吾は一歩後ずさる。


 今まで一切動かなかった身体が、まるで魔法が解けたかのように、スムーズに動くことに喜びを感じる暇もなく、誠吾は捕食者に狙われた草食動物のように、それこそ脱兎のごとく、怪物に背を向け、その場を逃げ出した。


 そこに大村おおむら家の当主であるという威厳はまるでなく、年老いた人間の一個体が、生にしがみつく姿が、ありありと描かれていたのだった。


「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!」


 感情を爆発させ、暗闇の中を逃げ続ける誠吾。


 その方向が、大河たちの向かった、首塚と真逆の方角であったのは、誠吾の頭に残った、最後の理性によるものであった。


 上下左右に激しくぶれるライトの光。


 土埃と自らの汗の臭いが鼻腔に突き刺さり、意図せず鼻水が垂れる。


 正直なところ、この地に来るまでは、命を捧げる覚悟ができているつもりであった。


 だが、いざ自分がその状況に陥ると、今まで抱いたこともなかったような、死という概念への恐怖が突如として姿を現し、見苦しいとも思える行動をも冒してしまう。


 生物として、生きようとするのは当然の行動ではあり、逃走という行為自体も別段おかしなことではない。


 誰かしら第三者がその現場を目の当たりにしていたとして、誰もそれを責めたりもしないだろう。


 しかしながら、誠吾自身の心は、そう単純ではなかった。


 当初抱いていた思いと、現在の自分の行動の落差に、不甲斐なさとみじめさを強く感じ、ただでさえ爆発していた感情が、より収拾がつかなくなるほどに、拡散されていくのだった。


 そして、大村誠吾は、数十メートルも走らないうちに、激しい息切れと、不安定な足元からくるつまずきから、足を止めることになる。


 つまずいた際、転倒をしなかったのは、転んだら最後、本当に死んでしまうという思いからくる、精いっぱいの抵抗であった。


 結果として、転倒を免れ、何とか踏みとどまることこそできたが、足を止めたことで、自然とライトの位置が眼前へと固定される。


 それは、怪物が自らの姿を誠吾に見せつけるために、十分すぎる役割を果たしていた。


「えっ?」


 ついさっきまで、後方で大鉈を振りかぶっていた、大柄の、人型をした、異形の怪物が、何故か目の前に立っている。


 足音も、咆哮も、息遣いも、何も耳には入ってこなかったはずであった。


 それにも関わらず、怪物は現に目の前で、仁王立ちでもしているかのように立ち塞がっているのだ。


 逃げ出すことはできない――そう宣告されたような気がして、誠吾はただでさえ不安定な精神を、いともたやすく崩壊させられる。


「うぐ――」


 叫び声を上げるはずだった誠吾の口は、いつの間にか怪物の、左腕によって塞がれていた。


 頬を通じて感じる、怪物の手のサイズと、握力。


 爪の先が皮膚に食い込み、表面を食い破って、内側の肉を露出させる。


 恐怖からくる極度の興奮のおかげか、痛みはほとんど感じることこそなかった誠吾であったが、悲鳴は口をふさがれているため、漏らすことも叶わなかった。


 次いで、持ち上がっていく誠吾の小柄な体躯。


 断続的に生じる顔面への刺激に、誠吾は思わず怪物の手をつかみ、何とか身体を支えようとするが、それは無駄なあがきだった。


 手から転げ落ちるライトに、ばたつく両足、そして宙へと持ち上がっていく、白く光る、大鉈の長い刃。


 それは、まるで殺戮のショーをしているかのような、一方的で残酷な光景であった。


 執拗に腹部を切り刻み、胸部には幾度も刃を突き刺す。


 手足も反射的に身を守ろうとしてつけられたのだろう、深く大きな切り傷とそこから垂れる大量の鮮血が、痛々しい。


 にも関わらず、残念なことに誠吾はまだ生きていた。


 死に最も近い苦しみを味わいながら、悲鳴を上げることもできず、命の灯火が吹き消される瞬間を、嫌でも待ち続けていた。


 そして、無観客の殺戮ショーは誠吾の身がごとんと地面に、頭から落ちたことを合図に終わりを告げた。


 大村誠吾という、村の最後の生き残り――その子孫を殺めた怪物は、しばしその死体を眺めた後、ゆっくりと近づき、その足を左腕で器用につかんで、持ち上げる。


 そして、うすぼんやりと照らされた世界に背を向けるようにして、暗闇の中へと音もなく消えていくのだった。

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