第55話 標的変更

 首塚まで続く長いあぜ道は、長らく使われていなかったせいか、ひどく荒れ果てていて、ただ歩くだけでも一苦労であった。


 それが夜間の、物音ひとつ感じられない中を進んでいくというのだから、いくら田舎住みの人間といえども、精神的にもきついものがある。


 しかも、行先は首塚であり、そこに供物を捧げに行くというのだから、気負うなという方が無理な話だ。


 最悪、伝承の通りの行動をしたところで、自分が助かるという保証もないのだ。


 実際、過去にそういった事例があったとしても、現在行動を起こしている小柄な年配の男――大村おおむら誠吾せいごは、それを実際に見たわけではない。


 しかし、誠吾の代において、人々が失踪するという事件が起こっているのも事実であり、何もしないよりはと、藁をもつかむ思いでこの赤端あかはた村の跡地へと訪れたのであった。


 そして、誠吾は大河たいが静穂しずほと出会い、彼らの事情を察し、いち早く事態を収束させるために、もう満足に動かない年老いつつある身体を必死に動かし、しかし謝って手持ちの大事な荷物を落としてしまわないよう、細心の注意を払いながら、不安を掻き分け、進んでいた。


「……どうして、こんなに静かなんだ?」


 自らの足音と呼吸音、それと頭の中を血液が駆け巡る音しか感じられないことに、誠吾は思わず疑問を口にする。


 思い返すと、山に入ってから今まで、ずっと物音は聞こえなかった気もするが、その疑問に答えられる人物はいない。


 それが一体どういう理由なのか、誠吾には皆目見当もつかなかったが、少なくとも誠吾にとって、この無音の空間は、生き物の『生』を感じない、ひどく気持ち悪い状態に思えた。


 体力の限界を迎えたこともあって、誠吾の足は一旦止まり、荒げられた呼吸音が周囲に響く。


 ライトで前方は照らしているものの、それ以外は真っ暗で、まるで自分一人だけがこの世界に取り残されてしまったのではないかとさえ思えてしまうほどであった。


「大丈夫だ、ついさっき、あの二人に会ったばかりじゃないか。これを捧げて、すぐに戻れば、きっと――」


 そこまで口にした時、誠吾の周囲を、生温かい風が通り過ぎていった。


 山に入ってから初めての、風の感触に、誠吾の身体は興奮と緊張ですっかり火照った身体を冷ます、心地よさよりも、不気味さからくる悪寒の方を強く感じ取ってしまっていた。


 瞬間、その風を追いかけるかのように、背後から何者かの足音が近づいてくるのがわかる。


 足音の軽さや歩幅から、少なくとも大河ではないことは明らかだ。


 となると、消去法的にやってくる人物は、見知った人間であるなら、それは静穂ということになる。


 しかし、彼女は大河と一緒に廃屋の近くに留まっていたはずであり、何故こちらに走ってくるのか、理由がまったくわからない。


 得体の知れない不安に、誠吾は恐怖を覚え、思わず身体を固くする。


 だが、そんな誠吾の緊張を杞憂に終わらせるように、女性の伸びやかな大声が、雑音を一切排除した空間へ、ダイレクトに伝わってくる。


「大村さんっ! 大変ですっ! 大河さんが――!」


 静穂の口から放たれた言葉に、誠吾は本人であると確信し、安心すると共に背後を振り返る。


 ただ、その言葉の内容からくる不穏さに、表情はどうしても苦々しいものとなってしまっていた。


「大河……屋敷やしきさんが、どうかしたんですか?」


 その場で振り返り、ライトを向けると、そこには悲壮感に溢れた顔で近づいてくる静穂の姿がはっきりと見て取れた。


 その傍らに、記憶に新しい長身の探偵の姿はない。


 静穂は、誠吾の顔がしっかりと確認できる位置まで来ると、ようやくその足を止め、誠吾の両肩をがしっと、力の限りつかんだ。


 加減する余裕もなかったのであろう、予想をはるかに超えた衝撃を肩に受け、誠吾の顔が一瞬ではあるが苦痛に歪む。


 しかしながら、静穂はそれに気付くことなく、ひどく慌てた様子で、頭に浮かんだ言葉をひたすら並び立てるように、早口でまくしたてた。


「消えちゃったんです。私がくしゃみをして、本当に一瞬目を離した隙に……足音も何も聞こえなくて――だから、急がないといけないんです! お願いします、早くしないと大河さんが死んじゃう! お願いです、大村さん。早く――」


 今にも放り投げてしまいそうなほどの、怪力とも言える力で静穂は誠吾の身体を前後に振る。


「わかりました、わかりましたから、落ち着いてください。私たちがここでパニックになったら、助かるものも助からなくなります――」


 なんとかなだめようと発せられた誠吾の言葉に、静穂はハッと我に返り、つかんでいた手を放して頭を下げた。


「す、すいません……でも、本当に急がないとダメなんです。あやかちゃんも、姿を消してしまって、次に見つかった時はもう息絶えていたらしいですし……」


 急にしおらしくなった静穂に、誠吾は自らの肩の調子を確認しながら、少しばかり考え込む。


 恐らく、時間がないというのは事実であろうということ。


 手にした反物を捧げても、大河が助かる保証がないということ。


 そして、伝承に出てくる怪物が、大河以上に興味を持つであろうこと。


「――わかりました」


 それだけ言うと、誠吾は反物が入っている、薄い箱の風呂敷包みを、静穂へと手渡した。


「これは?」


 誠吾の意図が読み取れず、静穂はキョトンとした顔で聞き返す。


 そんな静穂に、誠吾は白髪交じりの頭を軽く整えながら、わずかに気まずそうな表情で、穏やかに答えた。


「いえ、私の代わりにお願いをしようと思いまして」


「お願い? それってどういう――」


 いまだに誠吾のやろうとしていることを理解できていない静穂は、風呂敷に包まれた箱を胸にしっかりと抱き留めながら、尋ねる。


 対して誠吾は、その回答を静穂に伝えるでなく、実践をして答えて見せた。


「私は古来よりこの地に住まう、大村の家の子孫だ! もし、この場に怪物がいるのなら、俺が相手になる。だから、捕らえた男をすぐに解放しろ!」


 怪物相手に交渉が通じるのか、通じたとして守ってもらえるのか、疑問点は大いにあるが、誠吾は自身の体内に残った、ある限りの勇気と覚悟を振り絞り、高らかに宣告する。


 そして、言葉の途切れと同時に再び訪れる、無音の時間。


 相手の反応を待つだけという、精神的にも落ち着かない時間を過ごしながら、もしかしたら無駄であったのかとも思い始めた頃。


 直近に感じたことのある、生温かい風が再度誠吾の周りを吹き抜けていったかと思えば、何か重量のある物体が落とされたような、鈍く低い音が聞こえた。


「っつう……どういうこった?」


 声の主は、まぎれもなく屋敷やしき大河たいが本人のものであった。


「大河さんっ!よかった……生きてたんですね!」


 静穂の踊るような声が響き、誠吾の顔にも自然と安堵の表情が出る。


「あぁ、どうやら生きてるみたいだが……一体どういうわけだ?」


 状況が飲み込めていない大河は、したたか打ち付けたのか、臀部を幾度もさすりながら、ゆっくりと暗闇の中で立ち上がる。


 しかし、大河の声が聞こえた方角にあった人影はひとつではなかった。


 それは、細く長身である大河当人の影と、それを数倍に膨らませ、無理やり筋肉を押し詰めたような、奇怪な形。


 今まで、伝承の怪物を目にしたことがない誠吾にも、当該のそれであることは感覚的に理解できた。


 初めて目にする、異形の怪物。


 そのあまりにも現実とかけ離れた、異質の存在に、誠吾は言葉を失う。


 手足が震え、本能が逃走を促すものの、その瞳は怪物を捉えて動かない。


「大村さんっ!」


 まるで呆けているかのような誠吾の姿に、静穂の声が喝を入れる。


 そこで、我に返ったように、誠吾は意識を視界の端にいる静穂へと向ける。


「ここは任せて、君たちは私の代わりに供養を――!」


「それって、もしかして、大村さんは……」


「――わかった。行くぞ、静穂!」


 目を見開いたまま硬直した静穂の手を取ると、大河はアイコンタクトを誠吾へと送り、そのまま迷うことなく、振り返ることなく、首塚のある血塗られた場所へと向けて駆けていくのであった。


 そして、足音が遠ざかっていく中。


 何もない草原の中、誠吾と怪物、二つの影がじっと対峙するのであった。

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