第53話 屋敷大河の消失

 実のところ、怪物の被害から逃れるためであるなら、ライトの光のもと、静穂しずほに監視をしてもらう必要などなかった。


 単に逃れるだけであれば、すぐさまライトの光を消し、これまで同様に暗闇の中に身を潜めていれば済んだはずなのである。


 にも関わらず、大河たいががそう指示を出したのは、少しでも長い間、怪物の位置を視認しておきたいという思いがあったからであった。


 しかし、だからといって、異形の者を目の当たりにして、平静を保っていられるというわけではない。


 大河は、その巨大な体躯を前に、いつでも動けるよう注意を払いつつ、様子をうかがう。


 そして当初の思惑通り、怪物は脅すように圧をかけてはくるものの、それ以上のことはしてはこなかった。


 それも恐らく、ライトの大元で、静穂が大河のいる方を見ていてくれているおかげに違いなく、もし数秒であってもその視線を外されてしまったなら、大河も警察官である益川ますかわが姿を消してしまった時と同じように、連れ去られてしまう可能性は否定できない。


 その場に立っているだけで精神が削れてしまいそうな、歪な人型をした怪物による、絶え間ない威圧。


 人間という生き物は、実際に感覚器官が探知をしていなくとも、視覚から流れ込んでくる大量の情報によって、錯覚をしてしまうことがあることが知られているのが、大河もその例に漏れなかった。


 相手は、気配も物音も発することなく、ただ恐怖を募り、一人になったところで捕獲し、殺める怪物だ。


 そうであるはずなのに、いざ対面すると、痛々しい歯抜けの口から漏れる、ヤツの荒々しい呼吸や、血生臭さと獣臭さの混じったような臭いが、記憶の中から鼻や耳といった感覚器官へと、直通しているかのように、感じ取ることができた。


 ただならぬ危機感が大河の顔を引きつらせ、心拍を大幅に引き上げる。


 だが、そんな危機的状態であっても、それを視認できていない静穂には、十分な実感として伝わらない。


 それは、決して冗談だと思っているからだとか、想像力不足だからだとかいう次元の話ではなく、体験した者にしかわからない恐怖であるからに他ならない。


 故に、大河の指示や言動に静穂が懐疑的になってしまうのも、致し方ないことであった。


「……あの、大河さん。本当に、そこに鬼がいるんですか?」


「あぁ、俺の目の前にいる。不思議と、息遣いだとか吐き気のしそうな臭いまで、ぷんぷんと漂ってきそうなほどだよ」


「そう、なんですね……でも、私には全然見えないんですよ。ライトを当ててはいるんですけど、やっぱり靄だとか影だとかも全然で、草が擦れる音だとか一切なくて――」


 そこまで口にしたところで、不意に静穂の言葉が途切れる。


 それが、くしゃみが出るまでの一瞬の間であると気付くまでに、少しばかりの時間が必要であった。


 ただ、そのわずかな時間が、大河の命運を分けたのも事実であった。


「――くしゅんっ! ……すいません、ちょっとくしゃみが……あれ、大河さん?」


 それは反射的に身体を屈めてから、再び頭を持ち上げるまでの、微々たる時間。


 たったそれだけの間、目を離しただけであるにも関わらず、屋敷やしき大河たいが前原まえはら静穂しずほの前から、こつぜんと姿を消したのである。


「大河さん……ふざけてるんですか? 隠れてないで、出てきてくださいよ」


 静穂の声が震える。


 大河がこのような状況下でふざけたりするような人間ではないということを、静穂が一番に理解していた。


 しかし、目の前で起こった出来事を、現実として認めたくないという思いから、静穂の思考は一時的にロックが掛けられ、ありもしない願望へとすがってしまう。


「ねぇ、大河さん……」


 宵闇の中に溶けていく静穂の声。


 全身が燃えるように熱くなり、頭が真っ白になりかけるが、寸前のところで静穂は発狂を思いとどまることができた。


 それは、ちょうど数分前のこと。


 赤端あかはた村の伝承について、自分たち以外に知識を有する者――大村おおむら誠吾せいごと再会したことを思いだしたからであった。


「――そうだ、大村さん!」


 一縷の望みに託し、静穂は誠吾の後を追って走り始めた。


 雑草だらけの足元は、決して走りやすい地形とは言えないが、今はなりふり構っていられる状況ではない。


 静穂は、足を取られそうになるのを幾度となく、ぐっとこらえて、誠吾の向かっていったであろう方角へと、泣きそうになりながら走った。


 じっとりと、それでいて重く、生ぬるい空気。


 それらをどれだけ掻き分け、切り裂こうと、もがき、駆けても、不思議と疾走感や爽快感は覚えられず、まるで水飴に全身をからめとられているかのような、もどかしさと息苦しさを覚えていた。


 ぶれるライトの光と、痛いほどに早鐘をつく心臓、悲鳴を上げる喉と肺。


 本心を言えば、今すぐにでも逃げ出して、車に戻って宿まで――否、東京まで帰りたい。


 しかしながら、そんなことをしても大河が助からないことはわかっているし、最悪静穂自身が次の標的となるかもしれない。


 だからこそ、静穂は走るしかなかった。


 手にしたライトを落とさぬよう、しっかりと握りしめ、どこかに大河の姿がないかと、ぶれる視界の中でも、だらしない黄色いシャツを探しながら、静穂は誠吾の背中を追い、いまだかつて抱いたことのない戦慄に、恐怖しているのであった。

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