第49話 大村誠吾という存在

 開け放った窓から、涼やかな宵風が吹き込み、それまで溜め込んでいた室内の暖をすっきりと持ち去っていく。


 その快感に身を委ねつつも、大村おおむら誠吾せいごは、八畳ほどの和室の中央で、じっと目をつむり、腕を組みながら、座布団の上で一人、考えを巡らせていた。


 天井からつり下がった照明は、日暮れの刻が訪れてもなお点灯することはなく、その役割を放棄してただの装飾品へと成り代わり、壁に掛けられた先祖代々の肖像も、今はその顔を確認することもままならない。


 そんな、時間を忘れて何かに熱中していた少年期を彷彿とさせる部屋の中、誠吾は何かを決心した様子で小さくうなずくと、組んでいた腕を解き、目の前に置かれていた薄い直方体をした箱へと伸ばす。


 箱の表面には何も描かれてはいなかったが、誠吾が箱のふたを取ると、そこには薄い和紙に包まれて眠る、新雪のように白い反物が姿を現した。


 誠吾は緊張した面持ちのまま、ゆっくりと反物の下に両手を差し入れ、そのまま慎重に持ち上げる。


 しなやかなラインを描いて少しずつ上昇していく、正絹の白光に、誠吾も目を細め、その質の高さに息を呑む。


 その様は、神へと供物を捧げる宮司のようでもあった。


「……潮時、なのかもしれんな」


 部屋の中で一人、つぶやくようにそう言うと、誠吾は再び箱の中へと反物を元通りに戻す。


 そして元通りふたを閉めると、誠吾は再度箱の正面を見つめ、大きく息を吐いた。


「――大丈夫だ。何も恐れることはない。私にはもう何も失うものなんてないじゃないか。これ以上被害者が増えるくらいなら……」


 そこまで口にしたところで、誠吾は誰かに呼ばれたような気がして、一旦言葉を区切り、頭を持ち上げる。


 その視線は、壁の上部に掛けられた、先祖の肖像へと向けられていた。


「どうか、私の代で大村家が潰えてしまうことを、お許しください」


 そう言うと、誠吾はすっくと立ちあがり、改めて肖像に向かって手を合わせ、しばし黙とうをする。


 その後、改めて反物の入った箱へと向き直ると、下に敷いていた風呂敷の隅を手に取り、箱全体を包み込むように結んだ。


「どうか、生きていてくれよ」


 日中、顔を合わせた、長い黒髪と丸眼鏡の印象が残る女性――前原まえはら静穂しずほの顔と、前日にこの家を訪れた長身の男――屋敷やしき大河たいが、そして毎日実直に見回りやあいさつをしてくれる女性警察官の益川ますかわ、さらには助けを求めてこの家に飛び込んできた大学生。


 彼らの姿が走馬灯のように、次々と蘇り、誠吾は感極まる。


 決して、誠吾自身が何か問題を起こしたわけでもなければ、入村しないように警告もしていた。


 大村家が代々守ってきた言い伝えを、末裔として素直に守ってきたことに変わりはない。


 それでも、自らの血筋が、この度重なる失踪事件に関与していると知って、平常でいられるわけもない。


 ただ、それで泣き崩れるわけにもいかない。


 大村誠吾は、大村家の当主なのである。


 せめて、最後くらいは責任を取るということをしてもよいのではないだろうか。


 恐らくではあるが、赤端あかはた村の怪物を鎮める方法は、捧げていなかった供物を捧げるか、大村家の血筋を途絶えさせるかのどちらかであろうと、誠吾は常々思っていた。


 それに、現状では赤端村へと入るという行為は危険ではあり、他に移動できる人物もいない。


 また、最悪反物を供えられなかった場合でも、自らの命を捧げれば、もしかしたら誰かしらの命を救える可能性もあるはずなのだ。


 ただし、それでもだめだった場合は、その後どうなってしまうのかわからないという強烈な不安が残ることになるが。


 できることなら、生きて山を下りたい――そんな願望を密かに抱きながら、誠吾はすぐさま希望を拭い捨てる。


「いや、これは死ぬ気でいかんと、無理だな」


 誠吾はそう自分に言い聞かせると、改めて険しい顔を作り直し、風呂敷に包まれた箱を小脇に抱え、部屋を後にする。


 その背中は小さくはあったが、込められた決意は、力強い足取りと、すっと伸びた背筋に、如実に表れていた。


「……よし」


 鏡台の前に立ち、誠吾は髪を整え、シャツのしわを伸ばし、身なりを整える。


 仏壇と神棚への礼は済ませてあるので、これが終われば、いよいよ家を出ることになる。


 だが、当然ながら死地に赴くような心地に、中々士気は上がらない。


 誠吾は先祖代々使われてきた鏡台に手を置き、思いを馳せる。


 やり残したことがないと言えばうそになる。


 しかし、だからといって今更どうにもならないことも、誠吾には理解ができていた。


「ずっと独り身は嫌だと思ってはいたが、こんな時ばかりは家族がいなくてよかったと思うな。ははっ」


 口から漏れる、乾いた笑い。


 それを笑ったり、否定をしてくれる者は、この世にはいない。


「じゃあな、大村さん」


 誠吾はぎこちなく笑っていた鏡台の中の自分に喝を入れ、気持ちを引き締めると、風呂敷包みを手に、部屋を出て、そのまま真っ直ぐ玄関に向かい、家の敷居をまたぐ。


 そして、そのまま家の裏手に回ると、そのままその小柄な体を溶け込ませるように、夜の山の中へと消えていったのだった。

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