第46話 突入
「とうとう、帰ってこなかったな……」
宿の窓から夕暮れに染まる山々を眺めながら、
頼りがいのある、理想の上司というわけでは決してなかったが、それでも静穂にとって
ただ、それは恋慕だとか敬愛だとかいうむずがゆい感情ではなく、どちらかというと信頼であるとか仲間意識という面での意味合いが強い。
それでも、通常の仕事仲間――例えば同じ会社の同僚であったり、上司部下の関係にある者たちと比べて、より強いものであることは、静穂自身、自覚があった。
故に、これから静穂が取る行動も彼女の理論からすれば、特別なことというわけではなく、通常の選択肢の一つに他ならない。
「――とりあえず、着替えますか」
誰にとなくそう口にすると、静穂はスイッチが入ったかのように機敏に動き始め、着替えを始める。
フェミニンなブラウスやスカートを脱ぎ捨て、黒髪のロングヘアをゴムで束ねる。
さすがに眼鏡はそのままであったが、静穂の格好はチェック柄をした長袖のシャツに厚手の長ズボンという、いささか動きやすい登山用の出で立ちへと見事に変身していた。
「よし、あとは現場に向かうだけね」
自らの格好について、最終確認を終えると、静穂は小型のバッグを肩に背負い、迷いない足取りで部屋を出る。
そして、静穂は宿を出ると、そのまま村へやってきた時に乗っていたレンタカーへと乗り込み、キーを差し込んでエンジンをかける。
周囲はかなり暗くなっていたが、静穂の目には決意の色が宿っており、まったくいとわない様子で車のライトを点灯させた。
穏やかな村の夕刻に、その空気を吹き飛ばすような、自動車のうなるようなエンジン音が響く。
もしかしたら、この音を聞きつけて誰かが外に出てくるかもしれない。
そんな思いから、静穂は無意識にフロントガラス越しにではあるが、周囲の様子を慎重にうかがう。
無論、誰かに出てこられても自身が問題ある行動をしているわけでもないので、気にする道理はないのだが、現在抱いていた心情が何らかの拍子に揺らいでしまうのではないかという不安もあり、今に限れば、できることなら誰にも会いたくはなかった。
「……うん、大丈夫みたいね」
屋外に人の姿がないことを確認した後、静穂はゆっくりと車を発進させる。
通る道は、この村までやってきた時に用いた悪路――などではもちろんなく、村からまっすぐに伸びる一般道だ。
恐らく大河がいるのであろう場所におおよその目安はついていた静穂であったが、そこに至るまでの道筋を考えた結果、この道中のどこかにあるであろう脇道から
「……大河さん、生きててくださいよ」
運転席の中、静穂は率直な思いを口にする。
冷静に考えて、静穂がここまでして大河の元に向かうという行為自体、普通ではない。
それは、大河当人から来るなと言われていたこともあるが、それ以上に、命の危険がある場所へ赴くという行為を、たとえ仕事のためとはいえ、生存本能に従った思考を持つ人間なら、しないはずであるからだ。
それでも静穂が大河の元へと向かうのは、彼女の衝動的な感情によるものとしか言い表せない。
「こんな良い職場、無くされた困りますしね」
ハンドルを握りながら、静穂は軽く笑う。
ただ、その目つきは真剣そのもので、これから起こるであろう様々な出来事に対する決意と心構えがしっかりと見て取れた。
そして、レンタカーを走らせること十数分。
「えっと……あ、あった。多分ここね」
静穂は一旦自動車を停車させ、目を細めた。
そこにあったのは、ロープがだらしなく張られているだけの、自動車が1台ギリギリ通れるほどの広さしかない、古い脇道であった。
ライトに照らされる限り、使われなくなってからかなりの年月が経っていることがわかるが、幸いにも道の真ん中に樹木が生えているだなどということもなく、ロープさえ越えれば、今でも通ることはできそうであった。
「たぶん、ここから繋がってるはずよね」
静穂はエンジンをかけたまま、一人自動車を降り、ロープを取り外すべく、脇道へと向かって歩いていく。
自分が走ってきた方向が山奥の山村ということもあって、対向車がやってくる気配もない。
それでも静穂は念のためにと対向車が来ないか注視をしながら、古めかしい大木にくくりつけられたロープを外した。
その際、静穂は足元に転がっていた、古びた看板を目にする。
そこに描かれていたのは、静穂が探していた言葉――『この先、赤端村』の文字であった。
「ここまで来たら、もう引けないよね」
静穂は大きく息を吐き、頬を軽くはたいて気合を入れた後、運転席に戻り、アクセルを踏み込む。
静寂に満ちた空気を切り裂くように、エンジン音をとどろかせながら、静穂は不安定な山道を前へ、前へと突き進んでいった。
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