第42話 生きるということ

「……参ったな」


 携帯電話の通話が切れたことを確認すると、屋敷やしき大河たいがは眉をハの字に、左手で頬を掻いた。


 周囲は相変わらず木々が生い茂った薄暗い斜面で、かろうじて自分が転がり落ちてきた経路が、めくれ上がった土壌から察することができる程度。


 それに加え、大河自身も全身に土汚れや木の枝葉まみれになりながら、現在もかろうじて大木の幹に身を預けている状態だ。


 集落からだいぶ離れた場所ではあるが、それでも鼻の奥に血の臭いがこびりついているみたいで、どうにも落ち着かない。


 かといって、臭いをそぎ落とす術があるわけでもなく、結局大河は顔をしかめて、我慢を決め込むしか方法がないのが現状だ。


 静まり返った林の中、大河は忙しなく視線を動かしてはいたが、幸い電話中はあの怪物の姿は視認することはなかった。


 もし、電話中に遭遇していたら、静穂にも余計な心配をかけていたことだろう。


 そういう意味では、静穂が電話を掛けてきたタイミングは絶妙であったと言わざるを得ない。


 しかしながら、現在大河が置かれている状況は、非常に危険であるというのは間違いない事実であった。


「えぇと、静穂の話をまとめると、暗い場所まではヤツは追ってこないってことでいいんだよな。それと、俺が感じた限り、二人以上でいる場合、ヤツの姿が見えるのは当事者のみで、一人きりになった時に襲われ、あの場所で殺される……って感じか」


 大河は、幾分呼吸が落ち着いてきたことから、ゆっくりと立ち上がり、携帯電話をポケットに仕舞うと、代わりに回収しておいた、大学生――泉山いずみやまさとしのスマートフォンを取り出した。


「くそっ、またロックが掛かってやがる」


 何かしら有用な情報が残っていないか確認しようとしてみるが、長時間操作がされていなかったこともあってか、画面は再びロックが掛かっており、開くことができなかった。


「無理なものは仕方ねぇや。とりあえず、今は時間を稼がねぇと……」


 大河は舌打ちをしながら、スマートフォンの画面から視線を上向けて、次の行動を模索する。


 瞬間、大河は視界の端に見えたソレの姿に、思わず目を見開く。


 木と木の間を埋めるような、あからさまな巨体。


 近寄ってくる気配も、足音も一切なく、突然その場に現れ、こちらを見ている。


 実際には、目の周りには包帯が巻かれており、大河のいる方を見ているなどという保証はないのだが、顔の向き的に、それはほぼ間違いないだろう。


「……くそっ、さすがに逃げ切れはしなかったか」


 恐怖に呑まれてしまう前に、大河は舌打ちをして、その場を離れようとする。


 だが、あまりに突然のことに、動揺は隠しきれなかったらしく、うっかり力を抜いた手からスマートフォンが滑り落ちてしまった。


「――しまった!」


 とっさに声を出すが、大河の思いも届かず、スマートフォンは無情にも山の斜面を勢いよく滑り落ち、その姿を消した。


 恐らく、見つけることは困難であろう。


 万一、見つけたとしても、中味が無事であるとは到底思えない。


「……くっ、仕方ねぇ」


 大河は苦虫を噛み潰したような顔で、スマートフォンを見送ると、逃げるべき方向を探すべく視線を動かす。


「――っ!」


 瞬間、怪物の鬼のような体躯がこちらへと向かって、ゆっくりと近づき始めた。


 足場の悪い斜面であるにも関わらず、怪物はさもこの場が平地であるかのように、しかもまばらに生える木々を障害ともせず、まっすぐに大河へと向かってくる。


 その異様ともいえる気迫に、大河も思わず足がすくんでしまいそうになるが、両足に力を込め、震えを抑えながら、堰を切ったように一気に駆け出した。


 斜面を踏みしめ、足に力を込めて怪物のいる方へと近づいていく。


 ただ、それも最初の内だけで、すぐに方向を転換して、怪物から離れるように駆けていく。


 それは迫ってくる怪物を迂回して、再び集落へと登っていくルートであった。


 このまま斜面を下り、この地を離れることももちろん考えた。


 だが、大西おおにしあやかの遺体がこの地にあることから、多少の時間稼ぎにしかならないことも、大河は理解していた。


 それゆえに、大河はもう一度、赤端あかはた村へと戻り、怪物を封じる、あるいは怪物から完全に逃れられる方法を探そうと考えたのであった。


「……どうだ?」


 懸命に駆けながらも、大河は時折背後を見て怪物との距離を測る。


 幸い、怪物の足は遅く、走って追いかけてくるという気配もない。


 このままペースを落としさえしなければ、簡単に逃げ切れそうであった。


 しかし、大河の顔に余裕の色はない。


「少し、ペースを落とすか」


 大河は途端に速度を落とし、視界に怪物が入った状態のまま、ゆっくりと斜面を登っていく。


「見えなくなって、突然目の前に現れられても困るからな」


 汗だくになりながらも、大河は慎重に、怪物との距離を測りながら斜面を登り続ける。


 途中、自分が通ってきた山路に合流することができたが、それでも気は抜くことができず、絶えず背後を気にかけ続け、精神がすさまじい勢いで消耗していく。


 ろくに前も見ずに山を登っていくのは、想像以上にきついものであった。


 それでも、大河は怪物から目を背けることはなかった。


「もし目を離すことがあったら、その時は全力ダッシュだな。こんなんじゃ一週間は筋肉痛で仕事ができねぇぞ」


 自嘲気味に笑って見せる大河であったが、口にした駄弁に応えてくれる者はこの場にはいない。


「……本当に、どうしたらいいんだ?」


 いくら距離が離れているとはいえ、怪物の放つ圧は異常で、目にしているだけで言いようのない不安感があふれてくる。


 今にも叫びだしてしまいそうになる感情を、大河は歯をきつく食いしばり、必死に押し殺す。


 収入も安定せず、危険な事件に何度も関わり、頼れるような身内もおらず、もういつ死んでしまっても構わない――そんな思いもあって、人生の最後の場になるのならと惰性で続けていた探偵業であったはずだ。


 それが、どうして、そこまでして必死に生きようとするのか、大河自身でもわかっていなかった。


 ただ、その頭には、電話口で聞いた、探偵助手――前原まえはら静穂しずほの言葉が不思議と残っていたのだった。

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