第38話 ロックオン
一度は頭に浮かびはしたが、できることなら杞憂であってほしかった事態を目の当たりにして、
これ見よがしに仰向けに転げられている
その姿を目にしているだけで、大河は胸の鼓動が早まり、心の奥底から名状しがたい感情が噴き出してくる。
それは、目の前にあるのが、つい数分前まで話をしていた、見知った人間の見知らぬ姿であったからというのも大いに影響していた。
大河は、大きく揺れ動く感情に身を委ねたくなるのを必死にこらえながら、じっと目を閉じて冥福を祈る。
そして、再び目を開けると、大きく息を吐いて気合を入れ直す。
「とにかく、今はこの場を離れた方がいいな――」
そう口に出すと、すぐさま大河は首塚に背を向け、集落を背に下山をすべく斜面へと足を延ばす。
「――んっ?」
その瞬間、大河は何者かにじっと見られている気配を察知し、背後を振り返った。
青空の下、緑溢れる背景の中に、異質ともいえる血まみれの遺体が積み上がっている光景。
それが直前まで大河が見ていた世界であった。
「おいおい、マジかよ……」
それを目にした瞬間、大河は全身の毛穴が開き、その後一気に鳥肌が立つ感覚に襲われた。
それは、鬼と呼ぶにふさわしい、巨大な体躯。
身長が180センチほどある、長身の大河であっても、恐怖を覚えるほどの威圧感。
それが、人型の積みあがった山の脇で仁王立ちをしていた。
血と泥に染まった身体から伸びる、異様に発達した右腕はまるで別の生き物のようであり、左腕はあらぬ方向へと折れ曲がっていながらも、手持無沙汰とでもいうかのように執拗に何かを求めて開いては閉じを繰り返している。
何より、ぼさぼさの髪の下にある、目を隠すようにぐるぐると巻かれた包帯と、殴られたように歪んだ顔のパーツは、異様としか言いようがないものだった。
そんな存在を目にして、正気を保っていられたのは、皮肉にも直前に人の死というものを目の当たりにし、冷静な判断力が多少なりとも欠落していたからでもあった。
「本当に、急に現れるんだな……」
大概、バケモノという存在は、徐々に距離を詰め、恐怖を煽るように気配を強めて、ここぞというタイミングで姿を現すものだ。
そういったルールが存在するというわけではないが、イメージとしてそのように定着する程度には認知がされていることは違いない。
だが、この目の前に立っているバケモノは、足音を立てることもなければ、手にしている大鉈を引きずる音も上げることもない。
まるでその場に瞬間移動でもしたかのように、突然に姿を現し、こちらをじっと見ているのだ。
そうして大河がじっと怪物の様子をうかがっていると、しびれを切らしたかのように、怪物がゆっくりと動き始める。
泥まみれの、爪も剥げ落ちた、裸足の脚を一歩、二歩と大河の居る方へと向かって動かし続ける怪物。
「――これはヤバいっ!」
その時になって、大河もこれは逃げねばという判断に至り、慌てて怪物に背を向けて、斜面を滑るように下り始めた。
相変わらず斜面は歩行に適していなかったが、幸いにも木の間隔は離れており、下っていくだけである程度の速度は維持することができた。
ただ、集中を切らしては、すぐに転倒してしまう恐れがあるので、最後まで気を抜くわけにもいかない。
途中、脱ぎ捨てられたスニーカーが見えた気もしたが、それを拾って確認するだけの余裕もなく、大河は渋い顔のまま、体勢の維持に努める。
大河は時折背後を気にかけつつ、斜面を下り続け、自分が登ってきた山路へと到達したところで、一旦足を止めた。
「逃げ切れたか?」
斜面の上部に目を向け、あの巨体がないか確認をしてみる大河であったが、どこにもそのような姿は見られなかった。
もしかしたら、ただの見間違いではなかったのだろうか。
そんなことを思ってしまいそうな、静穏な空間に、大河の警戒も若干ではあるが薄まる。
密集した木々の狭間、天からの陽射しも制限され、すっかり薄暗くなった視界の中、大河は思考を一旦整理しようと、額に手を当て、目を閉じる。
体内で必要以上に飛び跳ねているようにさえ思える心臓の鼓動。
肺の容量が半分になってしまったのではないかと思えるような、息苦しい呼吸。
それらに耐えきれず、大河が思わず目を開き、自らのすぐ脇へと目を向ける。
すると、自分から1メートルちょっとしか離れていない位置に、それは立っていた。
あまりの驚きに、大河は声を失う。
しかしながら、怪物は大河の事情に構うことなく、機械的に、大鉈を持った右腕を振り上げる。
それは、命が欲しければというスタートの合図であった。
「――うおっ⁉」
反射的に足に力を込めた途端、大河はバランスを崩し、転がりながらといっても差し支えないような無様な格好で、足元で崩れ行く土たとと共に、麓の方向へと姿を消していったのであった。
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