第37話 不可避
「――
消えた女性警官の名前を呼び、
ここは異様なまでに静まり返った村だ。
益川が、もしくは怪物でもいい、何かしらの動きによって物音が立てば、おおよその位置はすぐに把握できる。
すると、壁の向こう側――屋外で草が擦れる音がかすかにではあるが、大河の耳へと聞こえてきた。
「大丈夫だ。まだ、遠くはない!」
まだ追いつけると判断した大河は、すぐに踵を返し、自らが入ってきた引き戸を力任せに開け、ばねのように飛び出した。
床に積もった埃に足を取られながらも、寸前のところで転倒を回避し、大河は光の強い方へと前傾で突っ込む。
玄関の扉を開けて外へと出ると、陽光の眩しさに目を細め、思わず足を止める。
だが、それも一瞬のことで、すぐに周囲を見回し、益川の姿を視認しようとする。
「――益川っ!」
大河が声を張り上げるが、返ってくる声はない。
「くそっ!」
大河は悪態をつくと、周囲を見回し、再び駆け出す。
益川が一体どこに消えたのか、確信などまったくなかったが、脳裏に一瞬思い浮かんだ最悪の事態――遺体の山の最上に積まれた姿に、嫌な予感を覚えたがゆえであった。
「一体何が起こったっていうんだ! 物理的にあり得ないだろうが!」
飛んで行ってしまいそうになる帽子を片手で押さえながら、大河は歯を食いしばり、長い脚を振り上げながら、血塗られた現場――首塚のあった箇所へと向かった。
大河が益川を探して走っている一方、益川本人は乱暴に草原の中に放られ、その衝撃に顔をゆがめた。
だが、それもほんの一瞬のことで、自分の身が自由になったと悟るなり、益川は四つん這いになりながら、その場を離れようとする。
鼻につく腐臭から、ここが一体どこなのか、そしてこれから一体何が行われようとしているのか、益川はすぐさま理解したが故の行動であった。
ただ、そんな益川の動きはいともたやすく遮られてしまう。
その主は他でもない、鬼とも呼べる怪物であり、手にした大鉈を益川の眼前に突き立てて退路を塞ぐ。
その牽制に、益川は驚き、くるりと身を返し、空を仰ぐような体勢になった。
その際、益川の瞳に映ったのは、青空の下、怪物のいびつな身体に赤黒い血と泥が毒々しく映えた姿であった。
「――ひっ」
のっそりと、しかし決して止まることなく伸びてくる怪物の左腕。
あらぬ方向へと折れ曲がったそれは、異質な軌道をたどって益川の首筋へと向かっていく。
視界に映る空が怪物の手によってどんどん狭まっていく。
そして、人生最後の絶叫になるであろう声を発しようと、益川が無意識に息を吸い込んだ瞬間。
恐らく、声が発せられたなら、それは絹を引き裂くような悲鳴であったであろう益川の声は、怪物の手によって儚くも握りつぶされた。
「が……がが……」
首筋を片手でつかみながら、軽々と持ち上げていく怪物。
その手を両手で何とかして振りほどこうとするも、益川の抵抗は報われることなく、その肢体は宙へと浮かんでいく。
ばたつかせる足も、宙を掻くばかりで、苦しさを体現する以外の役割を果たせずにあった。
そして、満を持して怪物は突き立てた大鉈を空いている右手で引き抜き、つるし上げた獲物を裁くかの如く、益川の身体へとあてがう。
恐怖が足のつま先から、頭の先まで駆け上っていく。
それがわかっているにも関わらず、益川はただこれから起こるであろうことを受け入れることしかできなかった。
声とも違う、むしろうめき声と呼んだ方が正しいと思える音が、怪物の口から放たれる。
そして、訪れる運命の時間。
益川の記憶に最後に刻まれた感触は、冷たい金属が体内へと差し込まれるというものであった。
そして、勢いよく貫かれる身体と、飛び散る鮮血。
助けを求めることも、逃げることもできないまま、なぶられるように、いたぶられるように、身体が刻まれていくのを感じながら、益川は泣くこともできずに、ひたすらに苦痛を受け続け――そして、絶命した。
しかしながら、耐えがたい痛みによって死を享受してもなお、益川の身体は苦行から逃れることは叶わなかった。
まったく動かなくなった身体になった後も、怪物の斬撃はやむことはなく、腕や太腿、胴体にも新たな傷跡を次々と作り出していき、身に着けていた制服も、その原型をとどめてはいないほどであった。
どれほどの時間が経過したのかもわからないほどに、しつような痛めつけが行われた後、ようやく益川の身体は、ゴミ捨て場に放られる人形のように、
それからしばらくして、首塚へと一つの足音が近づいてくる。
足音の主は他でもない、探偵――
大河は黒い上下のスーツに黄色いシワだらけシャツに、これまた黒い帽子という相変わらずな格好で、遺体の山の前で足を止める。
そして、一言だけつぶやくように言葉を漏らしたのだった。
「どうして、こんなことに……」
大河の声は、無音の広がる世界に、寂しげに溶けて消えゆくのだった。
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