第35話 合流

「一体何事だっ!」


 入口の扉を突き破らんばかりの勢いで屋外へと飛び出た大河たいがの目に飛び込んできたのは、草原の中、何かに怯え、震える益川ますかわの姿であった。


「――大丈夫かっ⁉」


 益川のただならぬ様子に、大河はすぐさま駆け寄り、その肩をつかむ。


 だが、益川は大河が正面にいるにも関わらず、その瞳はその後ろを見つめ、眼前の存在など見えていないかのようであった。


「おい、聞こえてるか!」


 それでも大河はあきらめず、声を張り、益川へと呼び掛ける。


 すると、益川はまるで今初めて聞こえたといった様子で、大河の顔へと視線を向けた。


「……あ、探偵さん、ですか?」


 益川の顔はすっかり憔悴しきっており、化粧も落ちかけ、以前目にしたような若々しく、フレッシュな印象はまるで見られない。


 それでも大河は、彼女が反応を返してくれたことに安堵し、ホッと息を吐く。


「よかった。無事だったんだな……」


 無意識に力を込めていた手を緩めると、大河は改めて益川に事情を尋ねた。


「それで、一体何があったんだ? こんなになって……」


 なるべく不安を煽らないよう、自身ができる限りの穏やかな声で大河は問いかける。


 そこでようやく益川は目に光を宿し、まだ動揺を抑えきれていない状態ではあったが、自身が体験した出来事を説明しようと口を動かそうとする。


「その、怪物が……追いかけてきて……それで……」


「怪物って、鬼みたいなやつか?」


 大河の問いかけに、益川は何度も首を縦に振り、肯定の意を示す。


 しかし、大河は自らが口にしたことでありながらも、鬼という得体の知れない存在に遭遇したという益川の証言を、素直に受け入れることができなかった。


 というのは、大河自身がその存在を目にしていないということが、何よりの理由であった。


 確かに、この集落に足を踏み入れてから、異質な気配や雰囲気を感じてはいたが、自分たちに直接的な影響を及ぼす存在として、そのようなものが現れるという実感はない。


 それでも、今は益川からなるべく正確に情報を引き出すため、そして無事に村まで帰還するために、大河は彼女の言葉を信じる姿を装う。


「なるほど、わかった。だが、いつまでもここに立っているわけにもいかない。俺が支えるから、取り合えずは休めるところまで移動しよう」


 そう言って、大河は益川の手を取り、エスコートしようとする。


 益川も、自分以外の人間が現れたことにより、だいぶ落ち着きを取り戻したらしく、小さくうなずくと、大河の手を握り、再び歩き出そうと顔を上向ける。


「――ひぃっ!」


 瞬間、益川は反射的に大河の手を振り払い、引きつった顔のまま後ずさりを始める。


「おい、どうしたんだ⁉」


 突然のできごとに、大河も驚き、益川の視線の先を追う。


 しかし、そこあったのは、寂れた草原だけであった。


「何かいたのか?」


 再度、益川の顔を見て、聞き返す大河。


 対して益川は、まばたき一つすることなく、首を横に振る。


「違う……いる……あそこに、立ってる……」


 そう言って、一歩後ずさる益川。


 今にも泣きそうな顔をして訴える益川であったが、それでも大河の目にはその姿を確認することができなかった。


 そこで、大河の頭に一つの可能性が浮上する。


「もしかして、俺の目には見えていない、のか……?」


 クリニックのカメラの映像も、当初は何も映っていないように見えていたが、後から静穂に調べてもらった結果、何かが存在しているという証言を得ることができた。


 それと同様で、見えないけれども存在している――そんな事象が目の前で起こっているのではないか。


 そんな仮説を立ててはみたものの、そこで新たな疑問が生まれる。


「――でも、どうして俺には見えないんだ……何か条件でもあるのか?」


 そうして大河が一人、思考を巡らせる最中も、益川は動きを止めることはなく、今にも脱兎のごとく逃げ出しそうな、危うい雰囲気を醸し出していく。


「来てる……来ないで……来ないで……」


 見えない何かに怯える人間の姿は、傍目には滑稽に映るものだ。


 だが、真に恐怖する人間の場合、その例に漏れてしまうのだと、大河は肌で理解する。


「何がどうなっているのかわからないが、このままだとマズい。逃げるぞ!」


 大河はとっさに益川の手を取り、その場から駆け出す。


 相手がどこにいるのか、大河自身はまったく見えていなかったが、益川の視線の位置からおおよその場所を推測し、それと真逆の方へと向かって、足を動かしていった。


 一方の益川も、呆然としてはいてもさすがは警察官といった様子で、足を絡ませることなく、大河の足についてくることができていた。


 そのことを横目に確認しつつ、大河は決して動きやすいとは言えない、黒のスーツにしわを寄せながら、逃げ込むべき家屋を探して、廃村の中を突っ切っていくのであった。

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