第34話 逃走

 益川ますかわが目を覚ましたのは、瓦礫に溢れた廃屋の一室であった。


 汚れのせいで、曇りガラスのようになってしまった窓から差し込む、柔らかな朝陽に目を細めながらも益川はゆっくりとその上体を起こす。


「ここは……あぁ、そっか。私はあの怪物に追いかけられて――」


 自分がいまだに警察の制服を着ていることや、自分の周囲に広がる光景から、益川は昨晩に起こった出来事を思い出し、身を震わせた。


「でも、何とか逃げ切れたみたいね」


 改めて周囲を見回し、怪物の姿やその痕跡がないこと確認すると、益川はホッと胸をなでおろす。


 昨日の晩。


 勢いよく振り下ろされた大鉈は、益川が反射的に後ろへ飛びのいたこともあって、寸前のところで直撃を免れ、大地へと突き刺さった。


 その後、反撃とばかりに益川は警棒を抜くと、怪物の脇腹へと強烈な一撃を叩き込む。


 益川は学生時代に剣道部に所属していたこともあり、強く踏み込んでの一撃は男性の警官にも引けを取らないとの自負があった。


 暗闇故に、具体的な部位までは把握できていなかったが、それでも腕に感じた衝撃から、相当な手ごたえは感じていた。


 しかし、いくら待っても、帰ってくるであろう反応が見られない。


 普通、防具もつけずに全力の殴打を受ければ、どんな我慢強い人間や動物であっても、うめき声の一つは上げるものだ。


 ただ、この怪物は、声も上げなければ、ピクリと動きもしない。


 益川の額から汗が流れる。


 それは、暑さからくるものなどではなく、これから自分の身に起こりうるかもしれない、最悪の事態を無意識に思い浮かべての、冷たい汗であった。


 震える手で、恐る恐る、ライトの光を怪物の顔へと向ける。


 相変わらず顔のパーツは無残に歪み、目元は包帯に隠れて一切確認することはできなかったが、益川の一撃がまったく効いていないことだけは明らかであった。


 そして、次は自分の番とばかりに、怪物は益川の顔を見るように首を向ける。


 瞬間、益川は悟った。


 ――このままでは、殺される。


 本能で生命の危機を覚えてからの、益川の行動は早かった。


 力の抜けた手から警棒が抜け落ち、ペンライトもその場に転がる。


 だが、それを拾い上げるだけの余裕はない。


 怪物の大鉈を再び振り上げる気配を察知した益川は、背後を確認することなく、全力でその場を離れ、走った。


 それからのことは明確には覚えていない。


 ろくに明かりもない廃村の中、転倒してしまわないよう足元に気を払い、また建物にぶつかってしまわないよう、前方にも注意を向ける。


 そんな気の休まらない逃走を続けた末に、益川は疲労もあって小さな廃屋へと転がり込んだのであった。


 廃屋の中は、月明かりがなかったこともあり、洞窟の中にでもいるかのような漆黒に包まれていた。


 いつあの怪物が乗り込んでくるかもわからないという緊張に身を震わせながらも、音で気付かれないようにと荒くなりそうな呼吸を益川は必死に抑える。


 そして、益川は瓦礫の隅に身を隠したまま、いつしか眠りに落ちてしまっていたのであった。


「とにかく、日も昇ったことだし、あの怪物に見つかる前に、交番のところまで早く戻らないと――」


 益川はよろけながら立ち上がると、服に着いた埃を払い始めた。


 気にするほどのことでもなかったが、何があったのかと勘繰られたくはないという思いから、益川は手早く、目立たない程度に汚れが薄まるまで作業を続けた。


「これでよし、と」


 粗方埃を落としたところで、益川は体をひねり、最後の確認を行う。


 何とか逃げ延びたという安心感と、誰かにここに来ていることがバレてはマズいという背徳感からか、妙に心臓が高鳴っていた。


「――あっ、警棒」


 腰に手を当てたところで、警棒がないことに気付き、益川は思わず声を上げた。


 ペンライト程度であれば誤魔化しがきくが、警棒ほどのサイズとなれば、さすがに言い訳は苦しい。


「……大丈夫、帰るときに拾っていけば、問題はないはず。それに昨日も追いかけてくる気配なんてなかったし、明るいうちなら走れば振り切れる……」


 万が一邂逅してしまった時のことを考え、簡潔なプランを練る益川であったが、いざ出発しようと顔を上向けた瞬間、その顔は真っ白に凍り付く。


「――いやぁぁぁぁぁっ!」


 それは、絶叫であり、絶望であった。


 物音も、気配も、存在すらもしていなかったはずなのに、いつの間にかそこに――部屋の隅に、その怪物が禍々しいオーラを放ちながら、立っていた。


 昨日は暗闇の中でぼんやりとしか見えていなかった身体が、光溢れる世界において、妙に生々しく、痛々しく、畏怖と戦慄をまとわせながら、益川の瞳に刻み込まれていた。


 気が付いた時には、益川は駆けだしていた。


 今にも転んでしまいそうなほどに前傾にあって、何かにすがるように腕を突き出し、扉をつかんでは力任せに開けては、また走る。


 それは逃げ切りたいという一心からくる行動であった。


 だが、その願望は今回に限っては叶えられることはなかった。


 散々駆け回った末に、益川はようやくその足を止め、呼吸を整えつつ背後を振り返る。


 そこにあったのは、静まり返った廃村の風景だけであった。


「よかった。気のせいだった……」


 怪物が追ってきていないことに安堵し、益川は再び正面を向こうとする。


 その刹那、背筋にゾクッとした冷たい感触が走るのを感じ、益川は動きを止めた。


「――っ!」


 声にならない悲鳴が益川の喉から上がる。


 足音も聞こえなかった。


 追いかけてくる気配もなかった。


 それなのに、まるで瞬間移動をしたかのように、泥と血肉にまみれた異形の怪物が目の前に突如として現れ、その異様に太く長い腕で、刃の長さが五十センチはあろうかという大鉈を握り、真正面から迫ってくるのであった。

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