第32話 不十分

 図書館に足を踏み入れた大河たいがを出迎えたのは、埃まみれの本棚と、腐食で脚が折れ、己の役割など到底果たせそうもなくなった木製の机だったものたちであった。


 壁面へと目を向ければ、窓ガラスこそ割れてはいないものの、長い年月によって塗り重ねられた汚れによって外の様子を確認することもかなわず、せいぜい今の時間帯が昼であることを知らせる程度の役割しか果たせていない。


 ただ、床においては随所に小さな穴が空いてはいたものの、ある程度埃は払われ、歩くたびに埃にむせ返るといった心配はなさそうであった。


「わかりやすいな。まぁ、その方が俺としても助かる」


 入口付近にあるカウンターも台上は最近何かで汚れを拭きとった跡があり、そこで何者かが図書を広げたであろうことが容易にうかがい知ることができた。


 大河は、指先で軽くカウンターをなぞると、そのまま指先を擦り合わせ、付着した汚れを落とすと、手近な本棚へと近づいていく。


 本棚といってもそのサイズは決して大きいものではなく、納入されている図書も、その多くが子供向けのものであった。


「まぁ、こういう場所にある本てのは、大人向けじゃねぇよな」


 無作為に一冊本を手に取り、ページをいくつかめくってみると、日本の偉人に関する伝記だったらしく、人物の肖像画と大き目の文字で、その人物の生涯がつづられていた。


「でも、さすがにここにはないだろうな」


 大河は目を細めると、本をパタンと閉じ、元の場所へと戻す。


 そして、他の本棚を巡りながら、背表紙を確認して目的の本がないか、確認をしていくこと数分。


 部屋の一番奥にあった、郷土史のコーナーの書棚にて、大河はその足を止めた。


「……ここで間違いはなさそうだな」


 大河の目の前の本棚には、明らかに何者かが本を取り出した形跡があり、本の上に積もっているはずの埃もまったく見られなかった。


 試しに一冊手に取ってみると、そこには村の地理に関する内容が事細かに書かれており、村の発展とそれに伴う地形の変化や、災害への対処の歴史を記したものであるとわかった。


「こりゃ、結構な大仕事になりそうだな」


 大河は本を閉じると、左手で頭を掻きながら、大きくため息を吐く。


 だが、それでも調べないわけにはいかないので、大河は棚に並んだ図書を片っ端から手に取り、まだ強度が残っているであろう入口のカウンター台へと運ぶ。


 そして、本を読み進める作業は、大河自身が思っていた以上に順調に進んでいた。


 椅子が使い物にならないということもあって、立ちながら台に置いた本を読み進めるといった作業ではあったが、それ以上に静まり返った空間が、大河の集中力を高め、仕事の能率を上げていたのだ。


 一冊目、二冊目と、余計な箇所を読み飛ばしながら、大河は速読を繰り返し、赤端あかはた村の伝承について書かれている箇所を探し続けること数時間。


 若干小腹も空いてきて、集中力も途切れつつあった頃合いに、大河は泉山いずみやまさとしが口にしていたであろう、当該図書に行き当たる。


「これだけ明らかに装丁が違うな。綴じ方も糊付けされたものでないし、これは歴史書というより、日記や手記の類に近いかもしれん」


 表紙らしいタイトルも何も書かれていない、紐で綴じられた藍色の図書。


 その歴史を感じるたたずまいに、若干緊張を抱きながらも、大河は慎重に手を伸ばす。


 そして、見返しにある寄贈者の名前から、これが現在この地を統べる大村おおむら家が記した手記であることを確信し、更にページをめくった。


「えぇと、先祖より代々伝わる赤端村の伝承であるが、権威を持つ家として恥ずかしくない内容とするために、改変を指示した……なるほど、確かにあの大学生の言葉は間違ってなかったというわけだ。しかも、幸いにも変更前の伝承まで載せてあるのはありがたいな」


 当初の目的を果たしたことで、大河は見開いた図書から顔を持ち上げ、安堵の息を吐いた。


 ただし、それも一瞬のことで、次なる問題が大河の表情を強張らせる。


「伝承については、粗方わかった。だが、それだけだと、あいつら大学生が死んでしまった理由がわからないな。それに益川ますかわの安否も不明――こいつは、もっと最近の資料を見た方がいいんだろうが……ん?」


 そこまで口にしたところで、大河はどこからか女性の声が聞こえたような気がして、顔を上げ、周囲を見回す。


 しかしながら、当然そこに人の姿はなく、絵画のような図書館の風景しかなかった。


「――気のせい、か?」


 大河の耳に聞こえた、曖昧な音――それは聞こえたかもしれないという程度のもので、確信などはまったくないものであった。


 ただ、風の音や木々のざわつき、鳥の声すら聞こえてこない山の中で、空耳などあり得るのだろうかという疑問が、大河の中で強く渦巻き、心を突き動かす。


 そして、少しの間を置いた後、大河は意を決した様子で、読み散らかした書物をそのままに、速やかに身を翻した。


 図書館を背に、颯爽と歩みを進める大河。


 大股で歩くその足取りは早く、張り詰めた気難しい表情は、どこか焦りを思わせる、危うさを大いに含んでいた。

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