第27話 順路回帰

「って、突っ立ってる場合じゃねぇな」


 大河たいがはそう言って自分を鼓舞すると、口を固く閉じ、呼吸を控えながら埃にまみれた山小屋の中へと足を踏み入れた。


 一歩踏み出すたびに木製の粗雑な造りをした床板は悲鳴のような軋みを上げ、足を持ち上げると、雪上にでも出たかのような真新しい足跡が残る。


 なるべく余計なものには触れないようにと意識をしながら部屋の奥へと向かう大河であったが、最後まで不可解そうな顔を崩すことはなかった。


 というのは、室内に残された泉山いずみやまさとしのものと思われる痕跡の在り方にあった。


 入口から奥の壁まで続く足跡は、その上にうっすらと埃が積もり、結構な時間が経過していることがわかる。


 壁際にできた、尻をついたのであろう跡も同様だ。


 ただ、そこから先――既に移動をしているのであればできるはずの、山小屋を出る時の痕跡がどこにもなかったのである。


 足跡自体の数も、大河が今ようやく二人目の靴跡を作ったことから、後から誰かが追ってきて連れ去っただとかいう可能性も低い。


 まるで、山小屋に逃げ込んだまま、風のように消え去ってしまった……そう考えるのが自然と思えるほどの状況が、大河の目の前に広がっていたのだ。


 そのあまりにも不可解な状況に、大河の脳は、それとよく似た、とある記憶を呼び起こさせる。


大西おおにしあやかの時も、そうだったな……」


 都内で起こった、沙苗さなえクリニックでの消失事件。


 防犯用の監視カメラでの確認ではあったが、その映像において彼女は消え去り、どこに行ったかはわからない。


 その手掛かりを求めてこの北関東の山奥まで来た大河であったが、そこでもまた似たような事象に遭遇するとは、夢にも思わず、突如として現れた妙な関連性に思わず唇を噛み、佇む。


「……いや、俺は小説家じゃない。真相なんてのは知って損はないが、知らなくても困りはしないはずだ」


 自分の果たすべき目的を念頭に置きつつ、大河は残された数少ない手がかりを確認すべく、奥へと進んだ。


 そして壁際に落ちているスマートフォンの前まで来ると、長い脚を折り曲げ、しゃがみ込む。


 だいぶ低くなった視線から周囲へ目を配ってみるが、相変わらず変わった点は見られない。


 大河は黙って首を横に振ると、そのまま落ちたスマートフォンを手に取った。


 幸い、まだ電池は残っていたらしく、起動された画面には、ロック解除を求めるメッセージが表示される。


「あー、そうだよな。最近はこんなのばっかだよ」


 落胆と気怠さが入り混じったような息を吐き、大河はスマートフォンをズボンのポケットに押し込む。


 元々のサイズより大きいのか、スマートフォンの形状がズボンの上からでも浮き出て窮屈そうに存在を主張していたが、大河はそれを気にすることもなく、もう一つの手がかりである血染めの眼鏡へと注意を向ける。


「眼鏡に血が付着しているが……床には一滴も落ちていない。どういうことだ? 血が粗方乾いた段階でここまで来て、そこで落としたってか? それか、誰かが眼鏡だけをここに放り捨てたか……どっちにしろ、こいつは無事じゃあ済まないだろうな」


 もう調べられることはないと悟り、大河はその場で立ち上がると、再度小屋内を見回して見逃しているような情報はないか調べてみるが、結局目新しい物証は見つからず、埃っぽい室内から逃げるように小屋を出ていくのだった。


「――あぁ、息苦しかった。やっぱ空気ってのは美味いマズいってのがあるんだな」


 山小屋を出て、来た道を戻り始めた大河であったが、口調自体は明るかったものの、その足取りは重かった。


 それは、現在自分が置かれている状況であるとか、調査中に見つかった不可解な残滓などからくるものではなく、慣れない山道や運動不足からくる体力の欠如によるものであった。


 案の定、大河は注意も欠落していたこともあって、足をくじき思わず転びかける。


「うおっ!」


 しかし寸前のところで、近くの木の枝につかまったおかげで転倒は避けることができたが、足先が土で大きく汚れてしまう。


「ったく、証拠は見つかったってのに、この道は何とかならねぇのか? クリーニングって意外と高いんだぞ」


 改めて立ち直ると、すっかり土だらけになった靴と、ズボンの裾を嘆きながら、大河はがっくりと肩を落とす。


「嫌な予感がしてたんだよなぁ。ま、受けちまったのはしょうがねぇけどよ」


 再び歩き出した大河であったが、ズボンにはスマートフォンが入っており、膝を動かすたびに太ももに当たってどうにもきまりが悪い。


 ただ、まだ悪態をつくだけの余裕は残っているらしく、大河は寄り道をした時点まで何とか戻ると、膝に手を置き、大きく息を吐いた。


「はぁ、長かった……」


 幾分呼吸が落ち着いた後、大河は頭だけを持ち上げると、これから進むべき道を眺める。


 そこにはまだまだ急な傾斜が続いており、大河の表情が露骨に嫌そうなものへと変化する。


 今すぐ帰って横になりたい――そんな直球な願望を、涙を呑んでこらえながら、大河はもう一度深く息を吐きつつ、目印としてかけておいた自らの上着を再度羽織った。


「わかりましたよ。行きますよ、行けばいいんだろ?」


 誰もいない山の中、大河は不貞腐れた様子で愚痴をこぼしつつ、ズボンのスマートフォンを上着の内ポケットへと入れ直す。


 だが、大河の顔には、疲れや憂鬱こそ表れているものの、絶望の色はなかった。


「どうか、俺の足が動かなくなる前に着いてくれよ……」


 普段は意識すらしない、どこの誰かもわからない神様にお願いをして、大河は再度出発の一歩を踏み出し、益川ますかわの跡を再び追ったのだった。

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