第22話 首塚
静まり返った山の中では、自らの足音と呼吸音が異様に大きく感じられ、それが一層心臓を強く脈打たせていた。
人の足などほとんど入っていないであろう傾斜は、一歩踏み出すたびにバランスを崩しかけ、必要以上に体幹を攻め立ててくる。
さらには、前後左右も真っ暗で、手にしたペンライトの照らす範囲しか状況を把握できないのも、精神的な疲労として着実に蓄積されていく。
頭上へ目を向けてみても、そこにあるはずの空や月は、密集した木々の枝葉によって遮られ、明かりなしには方向感覚すらも危ぶまれるほどであった。
だが、それでも
それは、若さからくる優しさと正義感からというのも理由の一つであったが、今更もう引くに引けないほどにまで深く侵入してしまっていたからでもあった。
「……大丈夫、きっと大丈夫」
心の奥底から湧き上がってくる不安から目をそらすように、益川は自分に言い聞かせる。
だが、風の音も動物の気配も、なにも感じられない空間は、益川の不安をより強く掻き立て、恐怖感を煽ってくる。
そんな胸の内側からの恐怖感から逃れるべく、益川は無心で体を動かそうとする。
落ちている枯れ枝を踏み、小石を蹴飛ばしつつ、水気を含んだ土をしっかりと踏み固め、立ち上る土の臭いに顔をしかめつつ、ひたすらに上を目指す。
そして、いよいよ精神的に限界を感じ始めた頃、幸か不幸か、益川の前に比較的新しい人の痕跡が姿を現した。
「これって……足跡?」
それは、山を登る方向へと続いた複数の靴跡であった。
「この跡をたどれば、何か手がかりが見つかるかも――」
尽きる寸前であった希望が、一気に満たされ、益川の身体にも活力が戻る。
益川は持っていたペンライトを改めて握り直し、いつの間にか額に噴き出ていた汗をぬぐう。
その後、改めて表情を引き締めると、前に続く足跡をライトで照らしながら、後を追った益川であったが、そこから斜面を抜けるまでは思いのほか時間はかからなかった。
「よかった。ちゃんと、抜けられた」
平地に出られたことで、今まで抱いていた緊張感が一気に解放され、安堵と疲労が全身にずっしりと圧し掛かる。
目的地まで登り切ったという達成感に、そのまま座り込みたくなる衝動に駆られるが、益川はそれをぐっとこらえ、自らの任務を果たすべく、深呼吸をして気持ちを整えようと試みる。
「……よし!」
粗方呼吸が落ち着いたところで、益川はライトで周囲を照らし、様子をうかがう。
元々集落であったこともあって、荒廃こそしているものの、歩きづらさはあまりなく、せいぜい足元の雑草に足を取られないよう気を付けなければならない程度だ。
また、木々の並びや、周囲に家屋が見られないことからも、到着した地点がどうやら集落の末端の方であることが推察できた。
「パッと見たところ、人影とかはなさそうね……」
しきりに周囲を見回しながら、益川は足を進める。
地面こそ草で隠れてみることはできなかったが、それでも視界に入るような小屋や祠といった類の造形物もなく、その空虚な空間がより不気味な空気を作り出し、益川の心をざわつかせていた。
「――んっ?」
数歩ほど足を進めたところで、益川は異変を感じ、ピタリと立ち止まる。
直後、漂ってくる鉄臭さと腐乱臭が入り混じった、吐き気を催そうとする強烈な臭気に、益川は反射的に左手で鼻口部を塞ぎ、思いきり顔をしかめた。
「何よ、これ……」
目元に涙を浮かべながらも、益川は引かない。
相変わらず月光の途切れた空の下、益川は臭いの正体を探るべく、じりじりと距離を詰めていく。
それは、不可解な事象に対して、原因を突き止めたいという人間の性質からくる行動であった。
だが、それはこれから始まる絶望の発端に他ならない。
次第に濃度を増していく臭気に、無意識に歩みもゆっくりになっていく。
そして、益川はついにそれを発見してしまう。
「――嘘……でしょ」
眼前に広がる光景に、愕然とする益川。
赤黒い液体に染まった、ぐったりとした腕。
肉が裂け、臓物やら骨やらが露呈した下胸部。
死の間際に見せたのであろう、絶叫をかたどったような顔。
そこに広がっていたのは、まさに惨殺現場と呼ぶ以外になさそうな、死骸の山であった。
「……うぇっぷ」
視覚と嗅覚からくる、強烈な刺激に、益川の内臓は悲鳴を上げ、吐き気を呼び起こす。
しかしながら、益川はそれをなんとかこらえ、壮絶な死の象徴から目をそらす。
次の瞬間、益川の瞳に映ったのは、朽ちてはいたものの、今でも体裁は保てている、小さな石の墓標であった。
「ここって、もしかして……首塚、なの?」
益川の口をついて出た首塚という言葉。
それに対し、回答を用意するかのように、周囲の温度が下がる。
寒気を覚えた益川は、本能的に危機感を抱いてか、一歩、二歩と後ずさりを始めていた。
だが、運命はそれを許さなかった。
予想だにしない事態に、恐怖し、混乱し、震える益川の持つ、唯一の光源。
その細かく震える視界の端に、ほんのわずかではあるが、いるはずのない者の足がちらりと映った。
「えっ、えっ、誰っ?」
パニックを起こし、腰を引きながら、ライトを上向ける。
すると、血まみれの死骸を挟んだ向こう側に、異質な何かの姿を確認することができた。
泥と血にまみれた足。
布をまとっただけのような格好の上からでもわかる、人間離れした体格。
異様に発達した右腕と、あらぬ方向に折れ曲がった左腕。
そして、歪な形をした鼻と口に、視界を封じるように包帯を巻かれた目元。
決して人間とは呼べそうもない、異形がそこに存在していた。
「嘘っ、嘘でしょ⁉」
先ほど見回した時は、確かに人の姿などなかった。
誰かが近づく気配も、物音も、一切なかった。
その事実が、益川の理性を瞬時に溶解させ、恐怖に染め上げる。
「嫌、違う……お願い……」
怯え、惑う益川に対し、異形はためらう様子など微塵も見せることなく、異様に発達した巨大な右腕を振り上げ――一気に振り下ろした。
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